仮粧町通り商店街 異形種共同組合《アンブレスィド・クリーチャーズ・ユニオン》 ブッダマニアと消えない痕跡

小澄桂馬

喫茶セルパン①

 憩いのひととき。

 お客さんたちは食事をしにくるだけじゃなくて、思い思いの時を過ごしにやってくる。


 これから遊びにいく仲間との待ち合わせかもしれないし、商店街で買い物をすませた客が喉を潤しにやってくるかもしれない。懐かしい友人との久しぶりの食事を楽しみにくるのかもしれない。


 そのささやかな時間を過ごす憩いの場所がこのお店なんだよと、『セルパン』で働くアルバイトはみな、おかみさんに言われていた。


 昔ながらの洋食喫茶で、木造りのテーブルも椅子も物は古いが丁寧にみがかれてある。そこにぽつぽつと年嵩としかさのいったお客さんが入り、コーヒーや紅茶を飲んだり、店長自慢のナポリタンを食べたりしながら、歓談している。そんな穏やかな光景がこの店のいつもの姿だった。


 いつもならそうだった。


 飛んできたコーヒーカップの流れ弾に、店員の女の子は慌てて頭を下げた。背後の壁でけたたましくカップが割れる。丸まった背中に破片が降り落ちる。


 おそるおそる身を隠していたカウンターから頭を半分だけ出して覗き見ると、依然として男は店長と掴み合っていた。


「け、警察、よびましょうよぉ」


 店員の女の子が泣きそうな声を隣に向けた。


 不機嫌そうな顔のおかみさんは、しかし動く気配がなかった。事の成り行きを見守るようにカウンターに肘をついたままでいる。


「警察はダメ。面倒事はお断りだよ」

店長マスター、殺されちゃいますよ!」

「あのくらいで殺されるような情けない男なら死んでせいせいするよ」


 おかみさんはにべもないが、店長は胸倉を締め上げられて、今にも息の根を止められそうだった。天井を仰いで、目をぎょろつかせ、苦悶の声を上げている。それでも相手を押し返そうとしているが、男との体格差は大きい。じたばたもがいても、なかなか振り解けないでいた。


 店内に客はいない。営業外の時間帯だから当然だが、そうでなくても今のこの店にはとてもいられないだろう。整然と並んでいたテーブルや椅子は、開店前のお店にやってきた男が店長と掴み合いをはじめたせいで、乱雑に押しのけられている。


 店員の女の子の不安は増すばかりだった。男が何者かもわからないが、なぜいつも控えめな店長が声を荒げて不審者と揉み合っているのかも、どうしておかみさんがそれを止めようとしないのかもわからない。普段から店長に対して口さがないおかみさんではあるが、それも愛情の裏返しかと微笑ましく思っていた。本当に死んでしまっても構わないと思っているのだろうか。段々そう思えてハラハラしてしまう。


 そんな気持ちを察してか、おかみさんは店員の女の子をチラと横目に見た。


「心配することないよ。組合の人を呼んであるから」

「組合?」


 組合ってなに。商店街の振興組合の人? たまに見かける老人のしわ面が浮かんだ。いやまさかそんな人が来てどうにかなるようには思えない。


 疑問をさえぎるように、一際大きな声がした。

 咄嗟に店長たちの方を向いて、店員の女の子は我が目を疑った。


 男はむくむくと体を大きくさせ、店長より少し高いくらいだったはずの背丈は、やがて頭が天井につくくらいになってしまった。その分だけ腕も脚も胴も太く膨らみ、けっして可愛いとはいいがたかった顔も、芋のはみ出たふかし団子のようなボコボコしたものに変貌していった。


 悲鳴を上げたのは、その巨大な両手で掴み上げられた店長だけでなく、店員の女の子も一緒だった。


「ば、ば、化け物ー!」


 店員の女の子は思わずおかみさんにしがみついた。服にしわがつくほどぎゅっと握って、相変わらず静観しているおかみさんに訴えかける。


「や、やっぱり警察よびましょう! いや警察じゃなくて自衛隊……? ねぇおかみさんー!」

「はぁまったく」


 おかみさんは呆れた様子で呟いた。そのまま店員の女の子の方を見ずに続ける。


「大丈夫だから落ち着きな」


 店員の女の子は、もしかしてと思った。おかみさんは、恐怖のあまり、正常な判断ができなくなってしまってるんじゃないか。恐ろしすぎることが起きたとき、人は不安をやわらげようと「大したことじゃない」と思いたがってしまう、と聞いたことがある。災害が起きているのに、大丈夫だと思い続けて、逃げ損ねてしまったり。


 店員の女の子は、涙をこらえて声を上げた。おかみさんの肩をゆさぶる。


「なにが大丈夫なんですかあれ見てください! あんなの普通じゃないですよぉ!」

「だから大丈夫だって」

「大丈夫じゃないですよ! 化け物ですよ化け物!」

「化け物が怖いかい?」

「当たり前じゃないですか! 殺されちゃいますよ! 早く警察を……」

「警察はダメだよ。だって」


 おかみさんが顔を向けた。ぐりんとむき出しの目は瞳孔が蛇のように細長く、ほおまで大きく裂けた口からは、チロチロと二叉に割れた舌が長く伸びた。

 ニタリと笑う。


「あたしもその〝化け物〟だからね」


 店員の女の子は卒倒した。




「まったく。だらしがないねぇ」


 お岸はいつもの〝おかみさん〟の顔で呟いて、抱きかかえた店員の女の子を、カウンターの裏を背にそっと座らせた。ショックで気を失っただけで、穏やかに息をしている。


 目を覚ましてから、誤魔化せるだろうか。何とか言いくるめるしかない。今のところはひとまず騒がれないようにするしかなかった。


 お岸はあらためて亭主の方を見た。大男と化した八五郎に床に押えつけられながらも、何か言い返している。八五郎の方もわめいているので、互いに何を言っているかもわからない。


 お岸は辺りに転んでいた椅子を立たせて、そこへ腰掛けた。脚を組む。


 鶴牧つるまき岸の亭主、仲蔵は気が小さいクセに見栄っ張りだった。古い時代の性分そのままに、揉め事が起きたら男である自分が身を呈してでも女房を守るべきだと思っている。人間の夫婦に身をやつして人の世で一緒に暮らそうと誘われたときも、お前に苦労はさせないよ、などと気障きざなことを言われたが、そういう言葉は天地開闢てんちかいびゃくより守られたためしがない。取った名前がお互いたまたま同じはなしにちなんでいたせいで、気が合うかもと錯覚してしまった。


 お岸もなにも安穏と静観しているわけではなかった。大事な自分の店で暴れられては内心腹立たしかったし、大男を引っ叩いて店の外に叩き出してやりたい。そうしないのは、ひとえに亭主の顔を立てているに過ぎなかった。お岸もまた古い気性の女だったが、なにぶん古い人間なので仕方ない。二人が一緒になったころ、娯楽の花形はまだ寄席よせであった。


〈それにしても、組合の者はまだ来ないのかね〉


 大男に組み伏されている亭主を睨むお岸の口の中には血があふれていた。口内で唇の裏側が噛み千切られそうになっている。


〈あれじゃ本当にそのうち殺されちまうよ〉


 そうなったら──そうなる前に殺す。お岸は、蛇女の本性を剥き出しに、腹をくくっていた。


 いくら〝化け物〟同士でも殺しはご法度はっとだが仕様がない。そんなことになれば、今のまま人間の振りをして暮らすことはできなくなる。愛着のある店も手放すことになる。しかしそれは躊躇ためらいにはならなかった。元来、蛇女の執着心ははなはだしい。自分のものとみなした所有物を失うことは決して許さない苛烈な気性が、今は一点、殺意に向いていた。


 相も変わらず罵り合っていた仲蔵と八五郎の二人だったが、そのうちの一言にカチンときたのか、八五郎は顔を激しく歪めると、右腕を大きく引いた。相手を組み伏しているので、天井に高く肘を上げることになる。その手は岩のような握りこぶしを作っている。


〈あのバカ〉お岸は目を剥いた。〈加減ってモノを知らないのかい〉


 容赦なく殴りつけられれば、か細い仲蔵が死ぬのは明らかだった。


 殺す。椅子を蹴って立ち上がったお岸は、ほおまで裂けた口から歯を剥き出しにし、刃の刺し跡のような細長い瞳孔を害意に染めあげた。


 からん、と音がして、店のドアが開いた。洋食喫茶『セルパン』の入店口には真鍮製のベルが掛かっている。元は落ち着いた金色だったのが年を経て退色した骨董品で、ちょっと能天気な音を鳴らす。


 それと同時に店に入ってきたのは、小柄な少女だった。くせっ毛のショートボブにカチューシャを巻いて、小さなリボンのついたヒラヒラのワンピースという可愛らしい格好をしているが、不釣合いに目つきが悪い。


 少女は店内を一瞥いちべつすると、大男の腰の辺りを掴んで引きずり倒した。八五郎の巨体が店内を転げる。壁にぶつかるまでの間に、あたりのテーブルや椅子は横倒しになり、備え付けの調味料の小瓶や、店のロゴが入った紙ナプキンや、ラミネートされたペラ一枚のメニュー表や、痛ましい殺人事件の進展を報じる今朝の新聞が宙を舞った。


 その光景にお岸は唖然とした。それから、諦めたように椅子に座りなおした。眉間に指を当てる。余計厄介なやつが来てしまった。


「なにしやがる」


 八五郎は身を起こして叫んだ。唇を剥き、鼻の穴を大きくして、ぎょろぎょろした目で少女を睨みつけるが、少女の方は顔色一つ変えない。


「組合のもんだよ。揉め事は禁止。ルールを知らんわけじゃないだろ」

「人のケンカに首突っ込んでんじゃねぇ。ガキはすっこんでろ」

「は? そのガキに放り投げられて尻餅ついてんのは誰だよ」


 少女は不愉快そうに瞳孔を絞る。


「バカが騒ぐと話がややこしくなる。大人しくしてろ」

「誰もテメェになしつけてもらおうなんざ思ってねぇ」


 大男は憤懣ふんまんやるかたない様相で少女に立ちはだかった。見下ろす巨躯は、屈めた背が天井に触れるほど大きい。その高さから拳を振り下ろした。先程お岸の亭主にも見舞おうとしていた岩拳だ。


 少女はそれを左の手で受け止めた。拳の振りよりも早く足を開いて、中腰に大男の拳固を捉える。衝撃を受けて、店が小揺るぎするが、少女の立ち位置はわずかにも動じない。


 そのまま大男の右拳と、少女の左手とが、拮抗したまま震える。いやそこに均衡はあっても、拮抗してはいなかった。八五郎が拳を引こうとしても、びくともしない。顔を歪めて、いくら力を込めても、拳に食い込むような少女の細指がそれを離してはくれなかった。


「穏便にって言われてるんだ」


 目つきの悪い小柄な少女は、仕方なさそうに言いながらも、その口の端を好戦的に持ち上げた。白い鬼歯が覗く。


「けどそっちがその気なら、相手してやるぜ」

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