第23話 閉店

暑く長い夏と一瞬の秋が過ぎ、街は再び冬の寒さに包まれていた。


2月、七海は行きつけだった喫茶ポロンが3月末で閉店することを知った。

店主の体調不良が原因らしい。



あの場所から遠ざかって一年。恭吾ともあの時以来一度も顔を合わせていない。



思えば二人の接点はあの喫茶店と魚基地だけだった。普段の生活圏も時間帯も違う。恭吾が転勤族だったことを思えば、もうこの街にはいないのかもしれない。



2月末、七海は、最後の思い出作りに意を決してポロンへと向かった。いつもは土曜日に訪れていたが、恭吾と会う可能性を少しでも回避するために今日は日曜日にした。



扉を開けるといつもの温かいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。しかし、レジに立つのは、初めて恭吾と会った時にいた大学生の男の子ではなく見慣れない年配の女性だった。



コーヒーを飲みながら七海は店の外に目をやった。恭吾のアパートが見える。あの窓の向こうに彼がいたのだと思うと胸が締め付けられるように切なくなった。



窓際の席に座りトーストとコーヒーを注文した。運ばれてきたトーストを口に運ぶと、初めて恭吾と出会った日、店に入り恭吾がいないか見渡し会釈した日、そして、あの雨の日のことを思い出す……。



『僕じゃダメですか?僕に七海さんの悲しみを取らせてもらえませんか?』


恭吾の切ない声が耳の奥で響く。七海は胸が締め付けられるように苦しくなった。



(恭吾くん……ありがとう。)


七海は心の中で呟きコーヒーを飲み干した。



店を出て、恭吾のアパートを見上げていると背後から声をかけられた。



「七海さん」


驚いて振り返るとそこに恭吾が立っている。



「恭吾くん……」


「あの……」


恭吾は戸惑ったように言葉を探し、そしてゆっくりと話し始めた。



「……あの夜のこと本当にすみませんでした。心配で少しでも一緒にいたかっただけだったんです。でも僕は、七海さんを傷つけてしまった……。嫌われても仕方がない。だけど……それでも会いたかったです。」



真っ直ぐと伝えてくる恭吾の言葉に、七海は胸が熱くなるのを感じた。恭吾に誤解を与えたままにしたくなかった。本当の理由を話さなければ。



「恭吾くん……あのね、私、結婚してるの」



恭吾は、予想外の言葉に目を見開いた。



「小学一年生と年中の子どもがいる。夫は単身赴任中で一緒に住んでいないし、今後もその予定はない。でも、私は既婚者だから……あの朝、罪悪感に襲われて逃げるように帰ってしまったの」



「……」


恭吾は、言葉を失っていた。七海は続ける。



「私は母親なのに……。って何度も責めた。だから、恭吾くんが悪いわけじゃない。」


「……あの夜、泣いていたのは旦那さんが理由だったんですか?」


恭吾の問いに七海は静かに頷いた。



「そう。だけど子どもたちは父親のことが好きだから、これからも家族のカタチが変わることはないの」


「……そう、ですか……」



恭吾はしばらく黙り込み、ひどく寂しげな声で静かに言った。


「あの……七海さん、今元気ですか?笑えていますか?」



七海は胸が締め付けられるのを感じた。言葉が見つからなかった。



(大丈夫ではない、元気ではない、あなたのことを思い出しては涙する日もある。手を振り払ったあの日から私が心から笑えた日はない……)



子どもたちと過ごす日々は幸せで楽しいが、あの日から罪悪感も伴っていた。幸せだった生活の中に、恭吾という存在が強くなることで子どもたちとの暮らし以外の楽しさや幸せを知ってしまった気分になった。



「あの、もし迷惑じゃなければ……また会えませんか?」


恭吾の言葉に七海は息を呑んだ。


「……」



母親としての責任、そして、恭吾への想い。二つの感情が激しくぶつかり合っている。



「……あの来月、また来てくれませんか?いつもの土曜に。ポロンで待っています。」


「恭吾くん……。」


「もし七海さんが嫌じゃなければまた逢いたいです。」



そう言って恭吾は去って行った。



(……もう会わない方が恭吾くんのためにも良いはずなのに、どうして私は言えなかったんだろう……。)


七海はしばらくその場に立ち尽くしていた。

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