第14話 喫茶ポロン

春樹が単身赴任をすると決め言ったばかりの頃は不安でいっぱいだったが、七海の周りには思いがけない温かい手が差し伸べられるようになった。

まるで嵐の後の空に希望の光が差し込むように穏やかな日常を過ごせるようになった。




月に一度だが、両親が子どもたちを預かってくれることになったのは大きかった。



子どもたちは可愛い。それは紛れもない事実だ。しかし、子どものいる生活では一つのことに集中して取り組むことや、趣味を続けることは至難の業だった。



独身時代は読書とテニスが趣味だったが、育児中では諦めざるを得なくなっていた。

周りも落ち着いたら来てねと理解をしてくれたが、結婚後も変わらず趣味のゴルフを楽しみ平然と予定を入れる春樹に腹が立った。

そして、友人たちと話をしてもどこも変わらなかった。



(子どもが産まれたら女性は自分の時間がなくなるのに、男性は変わらず楽しんでいるのだろう……)



こちらの予定を聞くこともなく、当たり前のように出掛けていくこと。こちらが予定を入れる時には、相手の予定を聞いて事前に調整をしたり食事の支度をする必要がある家庭もある。子育てに関しては女性の負担がどこの家庭でも大きいのだと感じた。



しかし、実家で預かってくれる日が出来たことで自分の時間を持つことが出来た。

買い出しや掃除など家事に費やす時間の方が多いが、それでも一人の時間が少しでもあるとないでは大違いだった。



七海は、久しぶりに喫茶店ポロンに足を運んだ。結婚前に何度か行ったことがあるが、海斗の妊娠が分かってから、店から遠ざかっていたので行くのは6年ぶりだ。



ポロンは年老いた店主が切り盛りしている。いつも厨房にいるため店主と会話をしたことはなかったが、たまに聞こえるオーダーを確認する声や店内に響き渡る心地よい音量のジャズ、サイフォンで淹れられたコーヒーの香りが当時を思い出し懐かしくなった。

店員は変わってしまっていたが、店の雰囲気は昔のままだ。



妊娠中はカフェインが飲めず、産後は子連れでの来店が難しいため、ずっと諦めていた喫茶店での読書。



ホットコーヒーと一緒に運ばれてきた厚切りのトーストはバターがじゅわっと染み込み、一口食べると懐かしい味が口の中に広がる。たった一時間ほどだが至福のひと時だった。



こうして月に一度、喫茶ポロンに行くことが習慣になった。

日々時間に追われながら過ごす七海にとって、ジャズの音色を楽しみながらふかふかのソファに腰をおろし、バターがしみこんだ厚切りトーストを一口ずつ噛みしめながら深めに炒ったコーヒーを飲み読書に没頭する。



ポロンは、どこか別の異世界にでもタイムスリップしたかのような優雅な時間が流れていて日々の疲れを癒してくれた。



ある時、読んでいる小説がキリのいいところまでいったので栞をはさみコーヒーを飲んでいると、一人の男性が会計時に店員に声を掛ける。



「すみません、この辺で一番近いコインランドリーってどこですか?」



尋ねられたアルバイトの大学生らしき店員は土地勘がなく困っているようだ。




会話が聞こえ近くにいたので思わず助け舟を出した。



「コインランドリーでしたら、このお店を出てからまっすぐ進んで、三つ目の信号を左に曲がるとありますよ。」




「ありがとうございます!助かりました!」


男性はほっとした表情のあと深々と頭を下げた。店員の男の子も助かったという顔で会釈してくる。



その時、男性と目が合いにこっと笑うのでこちらも笑顔で返した。

男性は笑うと目が細まり長いまつ毛が強調される。くしゃっと笑う人懐っこそうな雰囲気。これが河野恭吾との出会いだった。

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