第9話 絶望
海斗が元気よく走り回るようになり公園でブランコや滑り台を楽しめるようになった2歳の初夏に第二子となる陽菜(ひな)が産まれた。
海斗は、陽菜のことを可愛がり保育園から帰ってくるとすぐに陽菜の元へ駆け寄った。
「ひなちゃん、かいくん帰ってきたよーー」
頭を撫でたり指を掴んであやす。また教えていないのにおむつ替えの時はおしりふきとおむつ、捨てる用の袋も持ってきてくれてとても助かった。海斗の洞察力に感心した。
海斗の協力もあって、陽菜の時は孤独に感じることが少なかった。それは二人目という慣れもあるのかもしれないが海斗と陽菜の二人の姿を見ていると心が癒された。憔悴して泣き続けるようなことは減った。
心が折れる時もあったが、そういう時は海斗が保育園の間に泣けばいい。と思うようになり、陽菜と二人の時に陽菜から少し離れて別室で一人でうずくまって泣いた。
泣くことで少しスッキリするのか心に余裕も生まれた。余裕と言うより傷ついている状態に慣れて感覚が麻痺しているだけなのかもしれないとたまに自嘲する。
ある時、児童館に疲れ切った顔をして言った時に「ママ、疲れているみたいだけど大丈夫?」と声を掛けられた。海斗以外に心配してもらうことがなかったので、その一言で涙が出てきた。
大丈夫ではない、でもそのままは言えない。そして大丈夫と返せるほどの余力もない。
七海の様子を察したのか職員は優しく言う。
「ママ、大変だったんだね。大丈夫だよ、もう十分頑張っているよ。ママ、すごいよ」
堰を切ったように涙が止めどなく流れてくる。優しい言葉をかけてもらうことが今までなかった。春樹にかけて欲しかった言葉を言われて、今まで一生懸命、何度も何度も紡いできた哀しみや孤独が一気に溢れだしての事だった。
しかし、あまりにも辛いなら市の職員が自宅を尋ねたり施設を紹介すると言われ、春樹にこのことを知られるのを恐れて「大丈夫です」と一言告げてから逃げるように帰ってきた。
余裕がなくなることもあったが2回目の育児休暇が終わり、海斗は4歳、陽菜は2歳になった。
春樹は、海斗と陽菜のことは心から愛していた。「海斗と陽菜はパパの宝物」と常日頃から言い愛情表現も欠かさない。
たまの休日には、公園で一緒に遊び二人のリクエストに応えて料理を作ったり、一緒にお風呂に入りと子どもたちとの時間を楽しんでおり、七海から見ても立派なイクメンに見えた。
周りからも「いいパパね」「イクメンで羨ましい」と言われ春樹自身もその言葉をまんざらでもない様子だった。
その一方で大切な家族は海斗と陽菜のことで私は入っていないと感じることもあった。
「海斗と陽菜のことが世界で一番大好き」
と春樹は言う。
「パパ?ママのことは?」
と海斗が聞くと春樹はいつも無言になる。子どもの前なのだから嘘でも「ママも好きだよ」と合わせることもしないのかと七海は冷ややかな目でその会話を聞いていた。
ある日、「午後はみんなで公園に行こう」と春樹が言うので七海は支度を始めた。
しかし、玄関前で春樹から冷たく「行くの?」と声をかけられた。まるで邪魔者扱いされているような気分になった。
夕食を作った時も食卓には三人分の箸とお皿が用意されている。
(春樹の言う「みんな」の中に自分は含まれていない……)
まるで透明人間になったように自分の存在が消えてしまったように感じた。
子どもたちは、春樹の料理に大喜びする。
「パパの料理、大好き。毎日パパの料理だったらいいのにー」
と無邪気に言う。
そして残酷な質問が投げかけられる。
「パパとママどっちが好きー?」
「パパー!」
その瞬間、七海の心は針で刺されたように痛んだ。何気ない会話だったのに心臓を鷲掴みにされたように息をするのも苦しくなった。
七海は、寝室のクローゼットに駆け込み声を押し殺して号泣した。
(春樹の中で、愛すべき家族は海斗と陽菜の二人であってそこに私はいない。そして、自分が守らなくては、ひとりで頑張らなくてはと思っていた子どもたちは、春樹のことが大好きで懐いている。月に数日しか家にいない春樹と毎日一緒にいる私。それでも子どもたちは春樹を選ぶのか…。)
心の拠り所や支えを失ってしまったような、ひどい喪失感に襲われた。まるで、深い谷底に突き落とされたように、絶望的な気持ちになった。自分が今まで何のために頑張ってきたのか分からなくなった。毎日の育児、家事、全ては一体何のためだったのだろうか。まるで、空回りしている歯車のように自分の努力が全て無意味に思えた。
その日の夜、子どもたちが寝たのでリビングに戻ると、春樹は自分が選ばれたことに上機嫌だった。そして、お酒も入ったことでさらに追い打ちをかけるように言った。
「七海、毎日子どもといるくせに選ばれないなんて、母親として恥ずかしくないのか」
七海は聞こえないふりをしてそのままリビングを後にする。もう何も言い返す気力も残っていなかった。泣いている七海に気付きながらもため息をつき「泣いてもしょうがないだろ……」と小さく呟いたのが聞こえてきた。
春樹の言葉が耳の奥でこだまする。「母親として恥ずかしくないのか」その言葉が、七海の心を深く抉った。まるで、烙印を押されたように消えない傷跡を残した。
七海はスマートフォンと鍵だけを持ち、一人暗い夜道の中を涙を流しながらただただ歩いた。どこへ行くあてもなかった。ただ家にいたくなかった。春樹の顔を見たくなかった。
このままどこか遠くへ行ってしまいたいと思った。暗い夜空を彷徨う星のように孤独だった。自分の存在意義を見失い、何のために生きているのか分からなくなっていた。春樹の言葉が、七海を深い絶望の淵へと突き落としていった。
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