第十章:幸せ

第一幕 「幸せだ」

 消え入りそうなか細い声が、自分の名を呼んでいるのが聞こえた。沈んでいた意識を、苦しい中なんとか浮上させてうっすらと目を開く。

 朧介は、シヅルの腕の中で抱き起こされていた。

「シ……ヅル……」

 呼んでみるも、声は驚くほどに出ない。口や胸から溢れた大量の血は、地面に吸われて黒く固まりつつある。激しい痛みと熱に冒されていたはずの体が、今はもう酷く寒かった。

「……朧介殿」

 普段は勇ましさすら感じる彼女の声が、とても弱くか細い。さっきまであったあの禍々しい気配が消え失せているということは、シヅルが魔羅螻蛄を無事討伐出来たということだろう。その瞬間を見たわけではないが、なんとなく確信があった。自身の心臓の奥――そこにあった何かがぽっかりと抜け落ちたかのように……なくなっていたからだ。


 結局は……自分も魔羅螻蛄と同じだったのではないか。

 願抱の呪詛があるということにかこつけて、それを無くすために言われるがままに手を汚し、復讐のために他人を犠牲にして生きてきた。

 死を望まれたこの人生を少しでもどうにかしたくて、死を望んだ人間達に復讐したくて、いつも自分を一番に考えて生きてきた。傷つけた人だって大勢いる。

 だがその恨みの気持ちは、いつの間にか柔らかく解されていた。その事に気がついたのは、本当につい先刻だ。仇であるはずの男……人生が破滅する原因を作った男をずっと追いかけてきた。その首を取れるという瞬間に立ち会ったはずだったのに、朧介の刃は彼の心臓を貫くことは出来なかった。

 刺そうとした瞬間に、シヅルの瞳とぶつかった。

 死を望まれ続けてきた朧介に、たった一人だけ生きて欲しいと願ってくれたのは彼女だった。

 幸せになってほしいと、陽だまりのような笑顔を無条件に向けてくれた。

 そんな彼女のことを、いつしか厚かましくも大切に思うようになっていた。

 彼女のそばにいたことで、身に巣くっていた恨みの感情は。いつの間にか息を潜め始めていた――彼女の優しさに、あてられたのだ。


 ……だが、既に朧介の手は汚れている。このまま生きていても……仮に呪詛がなくなったとしても、犯した罪はずっとついて回る。

 ならば……ここで死んでしまうのが、きっと正解だ。

 人はきっと、生きてきたようにしか死ねない。本当に、そうだと思ったのだ。

 雪田朧介という人間が死ねば、この先呪詛によって災厄が呼ばれる確率も減る。魔羅螻蛄のような凶悪な厄妖が導かれることもなくなる。日本が平和で安泰になれば、少なくともしばらくの間は、自分のような辛い人生を歩く人間も出ないはずだ。

 だから、これでいい。死に様としては正しいはずだ。

 それに、何よりも――


(シヅル……君にもう……迷惑も負担も……かけなくて済む)

 

 死を望まれ、心を閉ざし、自らの死を願った全ての人間……またその要因を作った者全てを敵とみなして生きてきた。復讐することだけを信念に、必要とあらば手を汚すことだって構いやしない。

 決して誰にも心を明け渡すことなく、たった一人で反逆し、誰からも望まれない「生きる」という道を、ただ復讐のために選んだのだ。騙されようが、利用されようが、最後に自分のためになるのならば、それでいいとさえ思っていた。

 死を望まれるならば、生きてやる。

 それ以外の感情はない。

 なかったというのに……。


 あの日、まるで一輪の花が落ちてきたかのように、彼女は朧介の目の前に現れた。可憐に舞い降りた姿は、今でも忘れられない。

 生きる価値などないとレッテルを貼りつけられた自分に、シヅルはそっと優しさを吹かせた。まるで陽の光を含んだ暖かい春風のように、慈しみを自分へと向けてくれた。

 生きて欲しいと、何度も願ってくれたその心が、雪田朧介にかけられている「生へ執着する」という……ある意味呪いのようになってしまった復讐心を解いてくれたのだ。

 だから、朧介は……酔を刺さなかった。

 復讐する心が、いつの間にかもうその形を留められなくなっていたからだ。


「……――、」

 ヒューヒューと、悲しそうに気管が鳴く。もう、多くは声になりそうになかった。

 血が固まって黒くなった指先が徐々に冷えていくのが自分でわかる。抱き起こしてくれているシヅルの、人よりも低いはずの体温が、今はもう温かく感じて心地が良かった。

 朧介殿、と呼ぶ彼女の声は震えていて、今にも泣き出しそうに聞こえる。シヅルの胸に頭を寄りかからせてゆっくりと見上げれば、視界は既に霞んでいて焦点が合わない。

 彼女の綺麗なあの顔と瞳が見たかった。だけど、どんなに努めても、もう目はほとんど見えなかった。

「朧介殿……死んではいけない……」

 生きることが、目的だったのでしょう。

 そう言ったシヅルが何か術を使って傷を治そうとしたが、それを朧介はシヅルの手を握り返すことで制した。

 自分の体のことは、自分が一番わかると……戦場で戦友に言われたことを思い出した。

 これは走馬灯なのか。戦友は銃撃され、助けようとした朧介に対して今際の際にそう告げた。あの時、彼に諦めるなと言っただろうか。

 だが実際に死へ直結するような傷を持ってみて理解した。自らが刺したこの心臓は、もう助からないと。それこそ、治癒術があったとしてもだ。


 殺さなくてすんだよ、口が勝手にそう動いた気がした。

 それでよかったんだという風に、シヅルが頷いた気がした。

 機能を失っていく肺に、せめて少しでも酸素が回るように大きく息を吸う。


「本当……は……だ、れかに……生きて欲しいと……言われ……たかったんだ」

 

 無意識に零れ落ちた言葉は、もはや言葉というには拙く、音というには心が入りすぎていた。自分でも見て見ぬふりをしてきたその本心が、意志とは裏腹に表へ染み出していく。

 いつかどこかの、見知らぬ寂しい場所で、自分はきっと独りで命を終えるものだと思っていた。生き続けて金を稼ぎ、人並みに良い生活をして、それなりに幸せになって寿命を全うしてやると……それが最高の仕返しだと思っていた反面、わかっていたのだ。本当はそんな日は来ないと。自分はきっと孤独で惨たらしく果てるのだろと、そう覚悟していた。そうなると、最初からわかっていた。

 わかっていたからこそ、たった一度でもいい……誰かに「生きて」と願われたかったのだ。

 己の魂を、存在を、人生を――肯定してほしい。

 そして……それはシヅルによって叶えられた。

 生を願われることがこんなにも嬉しく、涙が溢れそうなくらいに幸せになることだと、初めて知れたのだ。

 それだけで、もう満足だった。

「……シヅル……あったかいなぁ……」

 ぽつりと零せば、彼女の手が……冷えてゆく頬を撫でてくれる。微かなその温もりに心がとろけそうになれば、つられて両の目が溶けた。ほとんど見えない視界が滲んで、水面のように歪んでいく。

 頬を撫でてくれる華奢な手に、自らの手を添わせた。

 自分の体に、心に、魂に寄り添ってくれる強く暖かい魂を……すぐそばに感じる。もっと感じていたくて、まるで子供のようにシヅルの胸に頬を寄せた。

 もっと強く抱きしめてほしかった。だけど、声には出さない。出さなかったはずなのに、シヅルはまるでその思いを汲み取ったかのように、抱きしめる手に力を込めた。

 ぎゅっと回された手の強さが心地良くて、胸の奥がじんと熱くなる。瞬きをすればそれに伴って眦と目頭から更に涙が溢れた。顔を近づけたシヅルの横髪が落ちかかって、朧介の顔にかかる。ぼんやりとしか見えない中、手探りでその横髪をシヅルの耳にかけてやれば、ぽたりと温い雫が朧介の頬に落ちてきた。

 泣いてくれるのか。

 こんな俺なんかのために。

「………っ」

 ごほっと咳き込めば、気管が鳴くと共にまた血が吐き出された。息はもうほとんど吸えない。 

 シヅルに名前を呼ばれた気がしたが、もう耳がよく聴こえない。

 意識の輪郭が、なくなっていく。


 本当はずっと、欲しかったのだ。

 心を通わせられる誰かが。

 触れれば壊れてしまいそうに温かい、愛が。

 この命に、救いと――報いが。


「――ああ……」


 息を吐くようにして、やっとの思いで振り絞った声が、震えた。


「…………幸せだ」


 嚙みしめるように言えば、それ以上はもう声にならなかった。

 力が入らなくなって、朧介の首が垂れる。シヅルの胸に寄りかかっていた体が、より彼女の胸に沈むにつれて、何もかもが微睡みに変わっていく。

「――…………」

 戦場で散っていった戦友達は、痛みと悲しみと苦しさを抱いたまま死んでいった。

 母は、それこそ病に侵されたまま、その命を奪われた。

 自分だけが、こうして温かい中で死んでいく。

 申し訳ないな、と思いつつも、心はただ満たされていた。

 ありがとう、と。

 それが、最後に少しでも……彼女に伝わっているといい。

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