第三幕 巣くわれた者
「…………」
気がついた時には、朧介は刃を持った手を地面に下ろしていた。殺されると確信していたのか、圧し掛かられたままの酔が大きく目を見開く。
殺せなかったのではない、殺さなかった。それを自らの意志で選んだのだ。
「殺しても……結局は何も、変わらねぇよな」
ざあざあと降る雨の音が、全て過去に流れていく。
今まで、死ねと望まれたことに対して反発し、自らをこんな人生に落とし込んだ男を殺すために生きてきた。だがそれは、過去に囚われてばかりで前に進んでいない事だと気がついた。
復讐の念に駆られて動いているうちは、自分に新しい未来など来ないと……そう気がついたのだ。本当に人生を変えるためには、過去を捨て、未来を生きるしかない――。
何よりも、そう願ってくれる存在に出会ってしまった。
「シヅルの言う通りだ。あんたを殺しても……俺はきっとまたその罪を抱えて生きていくんだ。それは、過去に囚われたままと何も変わらない。過去に執着して復讐を望んでいる間は……俺は本当の人生を歩くことは出来ない。だからもう……終わりにする」
生かそうとしてくる人達のためにも、終わりにしなくてはいけないんだと。
そう呟けば、朧介の尻の下で仰向けに転がった酔が吐き捨てるようにして、笑う。
「何を世迷言を……知らなかったとはいえ、戦後貴様はもう何人も手にかけただろう! どうせ生きていても普通の人間のようには生きられない!」
朧介の足によって固定された両腕を、力任せに動かそうと躍起になりながら叫ぶ。
「貴様にとっては死こそ正解だ! 貴様が死ねば――」
――魔羅螻蛄も消滅し、この国は救われる。
「――は?」
一瞬、雨音が止んだかのように、辺りが静かになった気がした。
耳には酔の言葉だけが棘のように刺さる。だが、何を言っているのかがいまいち飲み込めない。確かに体が呪詛に蝕まれているせいで災厄を呼ぶ体質ではある。魔羅螻蛄が寄ってくる可能性もあるはずだ。だがどうして、自らが死ねば魔羅螻蛄が消滅するという話になるのか。
「……何、言ってんだ」
口が回らず、上手く言葉が紡ぎだせない。
「まだ、わからぬか」
酔がニヤリと口角を上げた。
「教えてやる……雪田朧介、貴様の魂には、魔羅螻蛄の核が隠れ潜んでいる‼」
「な、に……」
「酔! よせ! それ以上は……っ」
前方からシヅルの慌てた声が飛んだが、意識はもはや酔の言葉にしか集中できない。魂に核が隠れ潜むとは、どういう事か。魔羅螻蛄の心臓が、自らの心臓に巣くっているということなのか。
錫杖で残りの人間をどうにかしようと、シヅルが動く気配を前方に感じる。だが、顔をあげられない。シヅルの方を向くのが、怖い。
「恐らく魔羅螻蛄は、貴様が戦場で死にかけた時にでも憑りついたのだろう。呪詛の気配に身を隠して、我ら祓屋に気がつかれないように力を蓄えつつ、今日まで日本を脅かしてきた!」
「俺の魂に……魔羅螻蛄の核……」
「魂が体から取り出せなかったのが何よりの証だ。魔羅螻蛄に巣くわれた宿主は、やつの核を守りきるために魂が外には出てこない!」
鍾乳洞でもそうだっただろうと、酔が笑う。そんな馬鹿なと思う反面、確かに酔の言う通り、鍾乳洞で出会った大入道の目を見たはずなのに魂は奪われなかった。加えて先ほど酔が発動した術……あれは朧介の体内から魂を剥奪する術だったはずなのに、またしても魂は奪われなかった。
「……本当に……俺が……」
地面に落ちた手から短刀が滑り落ちる。ズキズキとこめかみが痛み出すのを、思わず手で押さえた。視線は、自然と自らの心臓に向く。
(ここに……魔羅螻蛄の核が……)
人間である朧介からすれば、魔羅螻蛄なんぞ得体が知れない。ただ何か良くない存在だと言うことはわかる。人々を陥れ、この日本に災厄を降らせる妖怪……その核が、今自分の体の中にある――。
思えば、あの日。
未開の孤島で死を覚悟した夜……意識を失う寸前に、何かが覆いかぶさって来たのを思い出す。鳥のような、人のような、得体の知れない黒い影は、朧介に何と言ったか。
「――し、」
――『シヌニハ、オシイ』
どくりと、まるで正解だと言うかのように、心臓に激痛が走った。
「呪詛を抱えたまま生き残った貴様は最初から始末する予定だったが、魔羅螻蛄の核をも宿しているとなればその必要性はより強くなる! 確実に心臓を貫かせてもらう!」
ズキズキと痛む胸を掴んだまま動けないでいる朧介の体を、酔が反動を使ってひっくり返した。そのまま朧介の体の下から抜け出したかと思えば、地面に落ちたままになっている短刀に手を伸ばし、ぬかるんだ土もろとも掴み上げる。
「死ね! 雪田朧介‼」
鈍く光った刃に、朧介の表情が映り込んだ。
操られた人々をいなしきったシロクとシヅルが駆け寄るが、間に合わない。
刃が、朧介の心臓目掛けて走る――
「――惜しかったのぉ、もう満期じゃ」
それは、突然顕現した。
苦しくなった体をくの字に折り曲げた瞬間、背中を突き破るようにして現れたそれは、巨大な鳥の姿になり辺り一帯に炎を吐き出した。
朧介の一番近くにいた酔が叫ぶ間もなく炎に呑まれる。一瞬にして人の形はもろく崩れ去り、後には蛋白質の焦げ付く独特の異臭が立ち込めた。
シヅルとシロクは間一髪その炎をかわして背後に飛び下がる。黒くも見えるその深く赤い炎は、周りを取り囲むようにして大きな炎の壁を作った。酔に操られていた人々がその場にバタバタと、まるで糸が切れたように倒れる。それは、術者である酔が絶命したという事実を証明していた。
大きな鳥の姿は、人型へと変わる。
おおよそ人間の女性のような成りに背丈、臙脂の着物を花魁のように着崩した妖艶な姿になったそれは、吹き荒れる炎を背後に、にやりと笑った。
「なかなかに、住み心地がよかったぞ。雪田朧介」
足元に転がる朧介の髪の毛を掴み上げて囁き、手を離す。全身から何かが抜け出したかのように力が入らず、朧介はまるで人形のようにうつ伏せに地面に落ちた。
「こやつに核を住まわせて貰ったおかげで、本体は日本各地を好きに飛び回れた」
「……朧介殿から、離れろ」
シヅルが錫杖を消し、日本刀を出して構える。
「ほぉ……やはり免妖、あくまで
よかろうと笑って、長い爪の生えた手で口元を隠し、言った。
「最恐の厄妖である
雨ですら抑えることの出来ない炎が、夜の闇を消してしまう。
ぼんやりと残った意識だけを頼りに、朧介はただその姿を地面から見上げることしかできなかった。
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