第一章:めぐりあい

第一幕 はじまり

 どこか知らない場所、野原一面が火に包まれていた。燃え上がる炎は暗い夜の空をも赤く照らす。木々は燃え落ち、辺りには生物の気配一つない。そんな場所に謎の影が一つ揺らめく。それは人のようであるが大きすぎる。女性のようであるが男性の影にも見える。

 その影はじろりとこちらを見た。ニッと裂けたような口が何かを言ったが、聞き取ることが出来ない。

 誰だ、お前は一体……。炎に肌が焼けそうになる感覚に喉の奥が干上がる――。


「――雪田さん」


 ハッと目を開ければ、目の前に女の顔。狭い和室で横になっていた朧介を見下ろすようにして胸の辺りを揺さぶっていた。起こしに来たのだとすぐに理解する。

「雪田さん、休憩中にすみませんが……ちょっとおさわりが」

「承知した。すぐに行きましょう」

 立ち上がり、壁に掛けてあった上着を白いシャツの上から羽織る。夏の終わりとはいえ、夜になるにつれて気温は下がる。寝ていたせいで少し乱れていた黒髪を手櫛で軽く整えれば、いつものショートヘアに戻る。七三の割合で分かれた前髪が伸びてきて、少しだけ鬱陶しい。

「あの、雪田さん。魘されていましたが……」

「ああ、たまにあるんです。お気になさらず」

 言えば女はそれ以上追究してこなかった。和室を出て導かれるように日本家屋内を歩けば、やがて一番奥の客室が見えてくる。そしてその部屋の前で、番頭に引っ捕まえられるようにして男が一人廊下に座り込んでいた。

「雪田、こいつ摘まみだして捻っておけ。過度に女に触りやがる、営業妨害だ」

 おら立て、と番頭が男を立ち上がらせれば、思ったよりも上背がある。日本では珍しく一八五センチ以上もある番頭より、この男は数センチ低い程度だ。朧介自身も一七五センチと決して低い方ではないが、つい目線が少しだけ上に行く。

 朧介は無言で男の襟を掴んで引きずるように歩き出す。男は後ろ手に縄で縛られており、反撃してくる様子は見られない。そのまま裏口に続く勝手口を開けて、暗く狭い路地に男を放り出した。バランスを崩して転んだ男を見つつ、自らも出て後ろ手に扉を閉める。

 男の目の前に立ちふさがるようにしてやれば、男は逃げられないとすぐに理解したのか、まるで怒られた子供のようにしゅんと首を垂れて座り込んだまま、動かなくなった。

「人気者におさわりとは、あんた勇気あるな」

 男の前にしゃがみ、顔を覗き込みながら言えば、少しだけ視線をこちらに寄越した。ポケットから煙草を取り出し一本咥えて火をつける。一瞬明るくなった後、紫煙がたゆたう。

「あの、悪かった。ちょっと……魔が差した」

 もごもごと口を動かし、申し訳なさそうにする男の顔に、朧介がため息を吐くようにして煙を吹きかけた。勿論、そういう誘いの意味ではない。小馬鹿にしたくなったのだ。

「まぁ、あの人気の嬢を指名出来るんだ。金には困ってないんだろう?」

「え? えっと……」

「はは、ハッキリしないのな、あんた」

 言いながら手縄を切って煙草を勧めてやれば、一瞬ぎょっとして顔色を窺った後、恐る恐る一本摘まみ上げた。口に咥えたところに火をつけてやる。男も同じように深く煙を吸って、どこか安心したように大きく吐き出した。

「……あんた、オレの事殴らねぇのかい?」

「殴らないね。あんたは話が出来きそうだ。忠告すりゃ理解してくれるだろう? 無駄なおいたはしない主義なんだ。ここにはもう来ない方がいいぜ。番頭が顔を覚えているだろうからな」

 男が意外そうな顔をして目を少し丸くした。上背こそあるが、顔立ちはまだ二十代のそれに見える。かきあげたワイルドショートにベージュの開襟シャツと鼠色のズボン。そしてなぜか法被のようなものを羽織っている。ここに出入り出来るということは貧乏というわけではないだろうが、着ている物からは金持ちの匂いはしなかった。不思議な奴だと思う。

「俺がいれば此度のように逃がしてやれるが、あいにく俺は一つの場所に長くは留まれねぇんだ。そろそろおいとまさせてもらう頃合いだから、次はねぇぜ」

 紫煙を吐き出しながら言えば、男がぼそりと問う。

「……ひょっとして、ルンペンなのか?」

「ルンペンじゃあ、ねぇよ」ため息交じりに答える。

「オレみたいな客をこうやってつまみ出してどうにかする役目ってんなら、あんた用心棒だろ? ってことは……此度の大戦の復員軍人いきのこりだったりするのか?」

復員いきのこりだなんて、俺はただの死に損ないだよ。幸い……背中にしかでかい傷はないからな。こうして仕事にはありつけてる。向き不向きは知らんが」

 その言い方だと、あんたは戦争には行ってねぇんだな。そう言ってやれば、男はどこか罰が悪そうに、運が良かっただけだよと言った。

 実際のところ、戦後に復員した男達が様々な理由を付けて用心棒等の職を食いぶちにしている場合は多かった。朧介の場合は本職というわけではないが、腕が鈍らないようにするには適職だっただけだ。それ以外に深い意味はない。

 立ち上がって、髪の毛をがしがしと掻き回してから煙草を深く吸って紫煙を吐いた。短くなった煙草が、そろそろこの時間の終わりを告げている。

「そろそろ行きな、番頭が戻ってきたら面倒だ。さすがに監視の目がある時は、俺もあんたにそれなりの対応をしないといけなくなる」

 吸殻を地面に捨てて靴で踏みつければ、男も壁に煙草を押し付けて火を消した。二人の間にあった微かな光が消えて、煙草の匂いだけが残る。

「ありがとう。この恩は、いつか絶対返すからな」

「いいから、行きな」

 しっしと追い払うように手を動かせば、男は一度深くお辞儀をして路地を颯爽と走っていった。大きいくせに足が速いなと、どうでもいいことを考えながら再び家屋内に入る。

 そのまま廊下を突っ切って、番頭の座る受付に行き、後始末をしたと報告する。番頭は全く疑った様子もなく、そのまま来店した客の対応に戻った。

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