九月十三日に――
一真の後をついて玄関に行くと、和歩が立っていた。
「帰るぞ、瑠可」
「お前、結婚しても、式が終わったら、
『帰るぞ、瑠可』
とか言って、連れて帰るんじゃないだろうな」
そう言った一真に、
「なんの話だ」
と和歩は問う。
「瑠可は俺と結婚するんだ。
九月十三日に」
もう式場も予約してある、と言う。
いや、あの、ところどころは嘘ではないのだが。
「……九月十三日?」
と和歩は訝しげだ。
その方が結婚うんぬんより気になって、焦る。
「か、帰りますっ!」
と叫んだ瑠可は、慌ててリビングに鞄を取りに戻った。
瑠可は和歩と並んで夜道を歩く。
少し気まずく、ちょっと遅れ気味に歩いていたら、和歩が歩みを遅くしてくれた。
「ねえ、なんで迎えに来てくれたの?」
と言うと、
「お前が外泊なんかしたら、母さんたちが心配するだろ」
と言う。
うん……と言いながら、瑠可はまた遅れ気味になる。
和歩はペースを落としながらも、今度は横並びにはならなかった。
こちらを見ないまま訊いてくる。
「お前、佐野と結婚するのか」
「しないよ」
「……あいつ、するって言い切ったぞ」
妄想か? と訊いてくる。
いやいや、さすがに、そういう言い方はどうかと。
「先輩は優しいから、あんなこと言ったんだよ」
和歩が足を止め、振り返った。
「私、先輩の働いてる結婚式場を予約しに行ったの。
だから、先輩が結婚してくれようとしたの」
「ちょっと待て。
意味がよく飲み込めないんだが」
昔から頭の良かった和歩にとって、事態が飲み込めないことなど、そうなかったろうが。
この妹の奇天烈な行動は、時折、理解できないようだった。
「結婚しようかと思って。
それで、式場を予約に行ったの。
そしたら、その日までに頑張ろうかって気になるでしょ」
和歩は阿呆か、とも言わなかった。
こちらも、その顔を見る勇気もなかった。
「だって、和歩が出て行くって言うから。
ずっと一緒だって言ったじゃない、あのとき」
もうこれから、ずっと一緒だよねって、小さな手を握り合った、あのとき。
「和歩がずっと泣いてて。
言ったじゃない、私が。
これからは、もうずっと一緒だよねって。
ずっと、側に居てくれるって和歩も言ったじゃない」
あの遠い昔。
ずっと一緒に居たいと願った自分を。
今は呪いたい。
ほんっとうになにも考えてなかったなー、と思うが。
まあ、子供なんて、そんなものか。
「俺は……ずっと居るよ。
お前の側に」
「居ないじゃん。
結婚したら、奥さんや子供の方がよくなって。
そっち、べったりになるに決まってる。
和歩が出て行くって言うんなら、私が先に出て行くもん。
置いていかれるの、嫌だからっ」
「……瑠可」
俯き、じっとしてる自分の前に手が差し出された。
「ほら」
と和歩が言う。
あのときと同じに。
あれが悪夢の始まりだった。
そう思いながらも、また、私はその手を取った。
二人で手を繋いで歩き出す。
「瑠可。
なにも心配するな。
誰もお前から離れていったりしない。
側に居る」
「嘘ばっかり」
嘘じゃない、と星を見上げて、和歩は言った。
「じゃあ、結婚しても、奥さんじゃなくて、私の側に居てくれる?
子供よりも、私の側に居てくれる?」
「わかったわかった」
「駄目でしょーっ。
そんなお父さんーっ」
「酔ってんのか、お前は……。
お前がそうしろって言ったんだろ」
「そんなに飲んでないもん。
佐野先輩と、二人で、ワインを二本しか開けてないもん」
「……佐野がどの程度呑んだかによるな」
と呟く。
「あいつ、そんなに強くないから」
と言うが、それは貴方基準じゃないですか、と思った。
瑠可は、まだ眠くなったりもするが、和歩は表情も変わらない。
「おにいちゃんはさー。
いつから、そんなになったの。
昔は泣き虫でさ。
よく私に殴られたりしてたじゃん」
「それはお前が妹になったからだ」
「そうなの?」
瑠可が二度と泣かないように、と言う。
いや、駄目だろう、この兄は、と思った。
こんな兄が居たら、他の誰も好きになれない。
こんな人が側に居て、ずっと守ってくれていたら。
例え、それが、佐野一真でも。
「おにーちゃん、おんぶして」
は? と和歩が振り返る。
「おんぶして。
そしたら……」
その先の言葉は、和歩には聞こえないように言った。
そしたら……
貴方を諦めるから。
「しょうがないな」
と呟き、和歩はその場にしゃがんだ。
少し迷って、その背に乗った。
和歩は立ち上がろうとして、一瞬、止まった。
「まさか私が重いとか?」
「言ってないぞ、そんなこと」
「佐野先輩なら、重い素振りも見せないような」
「……振り落とすぞ」
と言われたが。
一真がそうすると思うのは、彼が女性なら誰にでもやさしいからだ。
ただ、それだけ。
和歩の頭に頭を寄せると、首の辺りから和歩の香りがした。
落ち着く、その香りはもう少ししたら、きっと変わってしまう。
綾子と結婚して、家を出たら、使うシャンプーも石鹸も、洗剤もきっと変わってしまうだろうし。
食べ物が変われば、和歩自身の匂いも変わってしまうだろう。
結婚した和歩と会っても、きっと、それはもう自分の知る彼じゃないと思うだろうな、と瑠可は思った。
今だけだ。
こうして、和歩が側に居てくれるのは。
和歩に好きだとか言ってみればよかったのだろうか。
いや、それは無理だ。
私はあの家族の中に居たかった。
お父さんとお母さんと、和歩と、あの空気の中に居たかった。
和歩を男性として愛するというのは、あの家族の輪の中から自分が離脱することを意味する。
私は和歩より、『家族』を選んだんだ。
その結果がこれだ。
だから、後悔なんかしちゃいけない。
「もう降りる」
だから、家が近づいたとき、瑠可は言った。
お母さんたちに見られたくないから。
自分がこんな未練がましいことをしていることを。
和歩はそっと降ろしてくれた。
そうっと二人で家に入る。
お母さんたちが心配するからと和歩は言っていたが、親たちはあっさり寝ているようだった。
まあ、親なんて、そんなものか、と思う。
実際、会社の飲み会なんて行ったら、もっと帰りは遅くなる。
一真が余計な電話をしなければ、和歩も特に心配はしていなかったかもしれない。
「おやすみ」
と行った和歩を廊下で自分の部屋のノブに手をかけ、振り返る。
「ねえ、和歩」
「ん?」
「綾子さんとデートとかしてるの?」
いや、していて当たり前なのだが、何故かそう訊いてしまう。
そんな暇なさそうに見えたからだ。
普段の仕事ぶりなんかを見ていると。
土曜も日曜も、綾子と出かけている風にもない。
だから、彼女の存在に気づかなかったのだ。
「……忙しいから」
と案の定、和歩は言った。
「ああ、でも、あさっては会うかも」
「そうなの」
「二人で行ってきなさいって、西島さんのお父さんが食事券をくれたから」
「そうなの」
ま、そうなの、以外に返せる言葉はないな、と思いながら、おやすみ、とノブを回したとき、和歩が一歩、こちらに近づいた。
ノブを掴む手の上に手を重ね、瑠可を見つめる。
だが、和歩はすぐに目を伏せ、言った。
「おやすみ、瑠可」
「……おやすみ」
和歩の方が先に部屋に入り、扉は閉まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます