第16話 本当に何者だ

「何度言えばわかる!? 客をここに紹介するなって言っただろう!!」


天時教言あめゆきのりときの声には多少の厳しさがあったが、それでも冷静さと礼儀を失うことはなかった。


「花婆ちゃんの店に客を紹介する、何が問題あります?」


「婆ちゃんの店は、正式な営業許可を持っていない。万が一、噂が広がれば、危険なことになる。」


「とはいえ、関係者各位が余計なことを口外しなければ、何ら問題は発生しないと思います。」


「そんな単純な話じゃない!お前の軽率な行動は、花婆ちゃんに迷惑をかけるだけだ!」


「貴殿の言動こそが花婆ちゃんの営業に支障をきたしているように見受けられます」


ミルと天時教言あめゆきのりときのやり取りを、白髪の男は静かに見つめていた。

彼の唇の端が、わずかに上がる。


その時、厨房から料理を運ぶ花婆ちゃんが現れた。

彼女の目に入ったのは、灰猫と金色の猫が取っ組み合いをしているような光景。

その横には、白い猫が一匹。

仲裁する気などなく、楽しそうに傍観しながら、時折一方に加勢して、火に油を注いでいた。


「さあさあ、喧嘩はその辺にしとくれ。料理が冷めちまうよ。」

花婆ちゃんは笑みを浮かべながら、二人の口喧嘩を止めるよう、声を掛ける。


その声を聞いた白髪の青年は、すぐに立ち上がり、料理の運ぶを手伝った。

しかし、肝心の二人――ミルと天時教言あめゆきのりときは、まるで聞いていない。

むしろ、花婆ちゃんの言葉に対して、二人はまさかの異口同音で答えた。


「花婆ちゃんは少し黙っていてください!」


一瞬、場が凍りつく。


花婆ちゃんの目が軽く瞬き、少し驚いたような表情を浮かべる。

だが、彼女は怒ることもなく、ただ困ったように笑っている。


そんな光景を見た白髪の男は、何も言わずに二人の背後へと回り込んだ。

ミルと天時教言あめゆきのりときが言い合いを続けている、その一瞬の隙をついて――


――ゴツン! ゴツン!


白髪の男は、遠慮なく二人の頭を連続で叩いた。

「……今、花婆ちゃんに迷惑をかけてるのは、君たちだ。」


「痛っ……!」

ミルナタリは頭を押さえながら、苦い表情を浮かべる。


天時教言あめゆきのりときは一瞬沈黙し、やがて小さく息を吐くと、「……自分の責任です。」

低く、反省を込めた声で、そう呟いた。


その瞬間、ピリついていた空気が、すっと和らぐ。


ミルは痛む頭をさすりながら、不満げに白髪の男を睨んだ。

「……先ほど私の傷を治療するとおっしゃっていましたよね?ですが、今ので新たな負傷が加わったのですが?」


白髪の男は、ふっと微笑む。

「答え、問題ない。どうせ全部まとめて治すんだから、このくらい気にするな。」


──このくらい?

いやいや、師匠の一撃より痛いんですが?!


ミルは心の中で盛大にツッコミを入れた。

本当ならこのまま文句を言いたいところだったが、目の前にいる、白髪の男はあまりに淡々とした表情を見ていると、なぜか文句を言う気も失せてしまう。

結局、ミルは深いため息をついた。


――まあ、いいか……


そんな空気を和らげるかのように、花婆ちゃんが料理を運んできた。

テーブルの上に並ぶ料理は、どれも温かみのある色合いで、湯気がほのかに立ち昇っている。


「若い者同士、仲良くするもんだよ。こんなことで喧嘩して、婆ちゃんを困らせるんじゃないよ。」


彼女は微笑みながら、柔らかい声で言葉を続ける。

「さぁ、座って一緒に食べな。」


天時教言あめゆきのりときは、一瞬別の席に移ろうとしたが、花婆ちゃんの言葉を聞き、渋々ながらも頷いた。


――花婆ちゃんが言うなら、仕方ない。


ミルもまた、内心では「ええっ……」と叫びたかったが、花婆ちゃんに言われたら拒む理由はない。


花婆ちゃんは満足そうに笑うと、天時教言あめゆきのりときの前に新たなカップを置き、優しく花茶を注いだ。


「みんな顔馴染みだろ? たまには一緒に食べるのもいいもんさ。」


――いやいや、花婆ちゃん。

この気まずい空気のどこが『いいもんさ』なんですか?!


ミルは心の中でツッコミを入れたが、もちろん言葉にはしない。


「言は、いつもの通りだろ?」


「ええ。お願いします、花婆ちゃん。」


天時教言あめゆきのりときは軽く頷き、礼儀正しく答える。


花婆ちゃんは穏やかな笑みを浮かべながら、厨房へと戻っていった。


再び訪れた静寂。

テーブルの上には、色鮮やかな料理が並び、香ばしい匂いが漂っている。

だが、そこにいる三人のうち、二人はお互いに目を合わせることなく、ぎこちなく視線をそらし続けていた。


そんな中、白髪の男はふと二人を見渡し、そして料理を見て――わずかに苦笑した。

彼の顔に、少し困った表情を浮かべている。


――気まずい。


本来であれば、ミルと天時教言あめゆきのりときほどの観察眼があれば、彼の微かな表情の変化に気づくはずだ。

しかし、二人とも今は意識的に視線を逸らしているせいで、その小さな仕草を見逃していた。


――さて。


白髪の男は、意を決したように口を開く。


「食事の前に……まずは約束を果たそう。君の傷の治療を。」


白髪の男は静かに立ち上がると、ミルの傷口へと手を伸ばした。

指先から、淡く透き通るような白い光が滲み出る。

それは単なる光ではなかった。

よく目を凝らせば、その光は無数の極小の文字が集まり、構成されていることが分かる。

その文字たちはまるで生きているかのように、柔らかく揺らぎながら流れ、

やがてミルの身体を巡り、傷口の周囲へと収束していく。


そして、奇跡が起こった。


ミルの傷口が、目に見える速度で塞がっていく。

切り傷も、擦り傷も、皮膚が自然に再生するかのように、元の形を取り戻していく。

痛みすら、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。


この光景を見て、心奪われない者がいるだろうか。

この瞬間、白髪の男はまるで異界から訪れた精霊のようだ。

彼の表情は相変わらず淡々としている。

しかし、その静謐な佇まいは、どこか捉えどころのない神秘的な雰囲気を纏っていた。


霧のように掴めない。

だが、確かにそこに存在する。


彼の動きに、洗練された所作はない。

だが、自然体でありながら、どこか軽やかで、まるで高貴さすら宿しているように見えた。


治療が完了すると、まるで空気そのものが、まだその余韻に浸っているかのような錯覚に陥る。

誰もが、この静けさを破ることをためらった。


白髪の男はゆっくりと手を引き、最後の微光が指先から消えていく。


しかし、それでもなお、彼の周囲には俗世のものとは思えぬ、淡い光の残響が漂っているようだ。

紅い瞳に映るのは、店内の暖かな灯り――

にもかかわらず、その視線にはどこか人間離れした冷然が宿っていた。


そして――


「治ったよ。」


ただ、それだけ。


まるで何事もなかったかのように、彼は淡々と告げた。


現実に引き戻されたのは、その一言だった。


ミルは反射的に自らの腕を見下ろした。

確かに、傷は完璧に癒えている。

痛みもない。

もしも衣服に破れた跡がなければ、本当に怪我していたのかすら疑わしくなるほどだった。


「……本当に、治ってる……?」


呆然とするミルの隣で、天時教言あめゆきのりときは眉を寄せ、鋭い眼差しを向ける。


彼の職業的な直感が、ただの「治癒魔術」として片付けるには、これはあまりにも異質すぎた。


「……これは、一体何の力だ? 治療師の魔術ではない。お前は何者だ?

見たところ、本国の人間ではないようだが……異国の出身か?」


その声には、警戒と探求の色が混ざっていた。

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