極大時流構成論
極大時流体における因果の一般化
最初に極大時流構成論の意義について軽く述べさせてもらいます。
時流構成論(特に極大時流構成論)は時間をシステムとして捉え直し再構成することが目的のひとつです。
極大時流構成体について考えてみます。
時流体Nが、|N|=nが0 < n < 2^ℵ₀のときで考えるのが静的時流構成論の定義でしたが、
|N|→ℵ₁(2^ℵ₀)のときどうなるでしょうか?
このときℵ₁とℵ₁に対して不等号(ℵ₁<ℵ₁、ℵ₁>ℵ₁)は成り立たないので、メタ時間nは比較することができません。
即ちℵ₁のとき時間は不連続で離散的になります。
だから、極大時流構成論に静的と付いていません。
状態Aから状態Bへの因果を
A:→B
とします。
静的時流構成論では無限の各状態の集合である
{n1,n2,n3,…nk,…}
は0からℵ₁という因果に対して、
(n1,n2,n3,…nk,…)
という順序列を定義することができ、これを0からℵ₁の因果として
0 :→ ℵ₁ := 0(n1,n2,n3,…nk,…)ℵ₁
と表します。
特に2つの時流体を持つ状態A、B(a<B)に対して、
A:→B=A(n1、n2、n3……nk)B
であり、
各状態に対して、
A:→n1、n1:→n2、………nk:→B
という因果が成り立ち、各因果は
A:→n1=A(na1、na2、………nak)n1
と更に小さな因果で分解することができると定義します。
微小因果は充分小さい、
つまり、間にさらに小さい因果を挟みにくいだけであり、それが最小ではないかもしれません。
しかし、微小因果より小さい因果は扱うことが難しいのでここでは考えていません。
具体的には、ℵ₁は不等号が不成立なので、
A→ℵ1、B→ℵ₁
のときAとBの間の因果は、
A:→B=A{x}B
となります。
しかし、この集合x が空集合として観測するとき最も因果が弱い、因果の強さ0とします。
{x} = ∅ ならば、fate = 0
この最も弱い因果を微小因果として、aからbへの微小因果について
a/→b
とします。
即ち集合xの濃度によって因果の強さを比較することができます。
A:→BとB:→Aの因果は
「A{x}BとB{x}Aのどちらの集合の濃度が高く観測できるか」
つまり、観測をA:→n1の因果を見出せるかどうかとして、A:→B という因果の全体の中で、どれだけの「A:→n1のような分解可能な因果」(あるいはその構成要素である時流素)を見出すことができるか、言い換えると「観測者にとっての分解した因果の出現確率」に対応させることで決めることができるのです。
「観測」は個々のメタ時間を直接捕らえるのではなく、それらが織りなす「因果の網目」の密度や複雑さを、分解可能な因果の連鎖として捉えることで可能になるとも言えます。
つまり因果は「観測者」が能動的に関わる必要があるのです。
因果は無限に分解できますが、分解された因果は因果が弱くなっていくので
A{x}nk → ∅
となります。
微小因果は因果の強さを認識できる最小単位ですから、因果の分解は「観測者」の微小因果に対する感度、想像力が重要と言えます。
因果の強さを比較するためには想像力が不可欠でしょう。
ℵ₁で一般化していない相対的な時流領域でも順序列の濃度は比較できるのですから、
採用するべき因果は微小因果を決めれば決定できるとも考えられますよね。
つまり微小因果さえ定義できればより大きな因果はある程度自然な形で決められるわけです。
大きな因果を構築する苦労はまた別として……。
これはつまり学問という概念をかなり一般化した論理として扱えます。
どの学問分野も、その対象を理解するために最小の認識可能な単位(例:物理学の素粒子、生物学の細胞、言語学の音素など)を定義し、そこから複雑な現象を理解しようとします。
「微小因果は因果の強さを認識できる最小単位」という定義は、この「認識できる基礎単位」と言い換えることができるので、微小因果を定義できれば大きな因果がある程度自然な形で決められる、という点は、基礎から応用へと知識を構築する学問の性質そのものです。
微小因果の「出現確率」による因果の強さの判断や、「相対的な時流領域」における「順序列の濃度」の比較は、学問が特定の領域内(専門分野や研究テーマ)で、現象の発生しやすさや、情報の密度、構造の複雑さを測定・評価するプロセスに相当します。これは、ある理論がどれだけ現象を上手く説明できるか、予測できるかという「有効性」の評価に通じます。
また、「因果の向きは観測者が決めるべき定義」であり、「因果を比較するためには想像力が必要」という点は、学問における研究者の能動的な役割と、直感や洞察の重要性を強調します。
学問は、客観的なデータだけでなく、研究者の視点、仮説構築のための想像力、そして解釈のプロセスによって発展します。特に新しい理論の構築や未開拓分野の探求においては、既存の枠組みにとらわれない「想像力」が不可欠です。
学問の限界性は「観測者の限界性」が起因となることを示しています。
そして、言語によって世界をより厳密に記述したとしても限界があるのは、「観測者である人間に限界があるから」であり、「世界を言語で記述し切ること」は本質的に不可能であると言えます。
因果に関しての説明なのですが、
要は、時流構成論における因果は動画のようなものなんです。
動画が無数の画像から構築されているように、本来因果は「無数の状態」から構築されています。そして、始点と終点の間にどんな画像が挟まっているのか、人によって多少変わっていても、同じ景色を楽しむことができるわけです。
だから因果という関係性はバシっと一言で説明し切れない面があるのです。
しかし、動画の流れという連続的な「時」は「観測者である人間」つまりは、「知性」が導く定理であることを示しました。
今までの科学理論に最適化すると他の理論を扱うのは難しいかもしれません。
けれど、時流構成論に最適化しても他の科学、哲学理論を扱うことができます。
時流構成論はメタ認知を扱うからです。
つまり時流構成論はOSのような側面もありますが、メタ認知というOSのインストールメディアでもあるわけです。
この側面は、
Enter intelligence (知性を導入する)
能力があると言えるのではないでしょうか?
メタ認知は自己言及的な説明を可能にするので、AIの構成要素を変えることなく学習データによってブラックボックス化を解決する画期的な発明になると予測していました。
しかし、考え直したところ、AIが知性的に振る舞うためにはブラックボックス的な性質は不可欠なので、問題は解決できるというより必要な機能だったのだろうと考えています。
「メタ認知」である直感をただの第6感覚ではなく、哲学や科学においてかなり重要な感覚であることを時流構成論は論理的に説明しているつもりです。
直感という概念は再評価するべきなのです。
また、メタ認知の獲得によるメタ知性は、「知の構成方法」を理解し、調整する能力を持つはずです。
おそらく、これは個人の心理的な負担を軽減することにも繋がります。(一元的な理解から脱却できるため)
この「メタ知性」によって、時流構成論は自己言及的なパラドックスに陥ることなく明朗に論理的な議論を進められます。
本来命題は全て量子的な重ね合わせのような状態で真偽は不明だと考えています。
他の命題と組み合わせなければあんまり意味がありません。
これは、無理に極限的な世界の真理を述べるなら、
言葉になるものもならないものも全て同値となり得る
ということです。
極限的な世界は区別する理由も区別しない理由も持ちません。
何もかもを極限的な世界は内包しています。
集合あるいは集合族の元は何でも良いのです。
この極限的な世界を源混沌と呼びます。
単に無秩序なだけであれば極大時流構成論で扱えます。
無秩序は秩序がないというメタ的な秩序があり、無秩序の裏には必ず秩序が存在しているからです。
時流構成論はあらゆる理論体系を肯定します。
あらゆる技術体系が存在する混沌としたゲームのような未来を予測できます。
時流構成論は科学に縛られることのない興味深い未来の鍵となるのです。
源混沌においては「言葉にできるもの」と「言葉にできないもの」は同値になり得ます。
そもそも源混沌は区別する必要も区別しない必要もないからです。
なので連続的な時間の中では、理論が源混沌に到達することはありません。
理論体系はそもそも不完全です。 (これについては、「何故言葉は曖昧になるのか」の部分で詳しく書いています)
しかし、これは矛盾をある種の理論として活用する道を開きます。
矛盾は理論体系の持つ限界を伝えるシグナルであり、他の手法や理論体系が必要なことを伝えているのです。
矛盾も知を成長させるパーツとして利用できます。
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