第4話 「女の人が出来たのね」結衣は静かに出て行った

 別れよう、などと言えば、結衣は怒って泣き喚くだろうか?・・・

亮治はずっとそう思っていた。その愁嘆場が嫌やで、一日延ばしに別れ話を延ばして来た。

 一緒に暮らし始めた頃は、浮ついた処の無い、冷静で沈着なしっかり者の結衣を自慢にも誇りにも思った。職人の連れ合いには打って付けの女だ・・・と。二人で初詣に出かけたり花見に行ったりした時には、亮治は胸を張って心地良い気分で周りの人間を見返した。

 だが、いつの日からか、亮治には結衣が何処にでも居る平凡な何の面白みも無い女に見え出した。特に陰鬱という訳でもなったが、華やぎも艶も無いある種の暗さが亮治の胸の中で大きく拡がって行った。

何故そうなったのかは解らない。ただ、ひょっとして、昔惚れていた麗華への憧れが時を経て頭を擡げて来たのかも知れなかった。

 然し、麗華との肉体の繋がりが出来た今、亮治は疾しい思いに苛まれていた。だから、何かの弾みで麗華とのことが結衣に露見して、彼女が亮治を責めてくれれば勿怪の幸いなのに、とさえ思っていた。だが、結衣は何も気づかないようだった。従って、亮治は別れ話を持ち出す契機がなかなか掴めなかった。何も知らない結衣にいきなり別れ話を持ち出せば、間違い無く酷い愁嘆場になるだろうことは亮治には判っていた。彼はなかなか踏み切れなかった。

だが、、亮治にはもう後がなかった。泣こうが喚こうが話すしか無い処まで追い詰められていた。 

 口を切ったのは、家に帰って、食事を摂る前だった。

結衣は泣かなかった。大きな声も立てなかった。彼女は小さい声で訊き返した。

「女の人が出来たんだね」

「・・・・・」

気圧されたように亮治は頷いた。冷静な結衣がこれから何を言い出すか、亮治は身構えた。

結衣は亮治から目を離すと、ふっと溜息を吐いた。

「気付いていたわよ・・・親方のお嬢さんでしょ?」

「そうか、それじゃ、言うこと無い、って訳だな」

結衣は亮治の言葉に構わずに続けた。

「わたしね、ずっと前から、何日かこういうことになるんじゃないかと思っていたの」

「・・・・・」

「だから、仕方ないわよ、その日が来たんだから」

 結衣は項垂れると、暫く身動ぎもせずにじっと座っていたが、やがて立ち上がってリビングの奥の部屋へ入って行った。亮治が見ていると、彼女はスーツケースを取り出して数枚の衣類やスカートや下着類を中に入れ、それから洗面所へ廻って化粧道具や洗面具をショルダーバッグに詰め込んだ。戻って来た元の場所で、結衣は亮治に軽く頭を下げ、そのまま玄関ホールへ歩いて行った。弾かれたように亮治は立ち上がった。

「何も、今、出て行かなくても良いんだよ」

「・・・・・」

結衣は靴を履きながら首を横に振った。

「行く宛は有るのか?」

「・・・・・」

「おい、結衣!」

ドアを出て行く結衣に亮治は鋭く問い掛けた。

「どんな女なのか、聞かないのか?」

結衣はちらっと振り向いたが、何も言わずに、ただ微かな笑いを遺して、そのまま出て行った。

なんだ?自棄に呆気無いじゃないか・・・

 ダイニングに戻ると、亮治は食卓の前にぐったりと腰を下ろした。ぐさりとやられたような気分が残っている。結衣が出て行ったのではなく、此方が見捨てられたような気がした。これで形が着いた、という安堵の気持は全く無く、虚ろなものが胸に満ち渡った。

卓上には二人分の食事が向き合って並んでいた。亮治はそれをぼんやりと眺めながら思った。男と女の暮らしって言うのはこんなものなのか?向かい合って飯を食っている筈だったのに、もう他人になっちまった・・・

 食事を摂る気にはならなかった。

今頃は麗華があの待合へ行っているだろうと思ったが、駆けつける気にはならなかった。何故か、麗華との間に在ったこれまでのことが、他人事のように白々しく味気ないものに思えて来た。

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