運命の章 6話
夜の闇が深まる刻限。明保能阿久刀は愛馬を駆り、暁家の門前に辿り着いた。蹄の音が石畳を打つ響きが、静寂に包まれた屋敷に反響する。
門が開く前に、すでに気配を察していた者がいた。氷清子である。老婆の姿をした彼女は、灯籠の明かりを手に、正門に立っていた。その表情は、月光の下でも判然としない。だが、阿久刀には分かっていた。清子の心中に、どのような思いが渦巻いているかを。
「おかえりなさいませ」
清子の声は、いつもと変わらぬ穏やかさを保っていた。だが、その目が馬上の二人の少女を捉えた瞬間、微かに、ほんの微かに眉が動いた。
阿久刀は馬から降り、まずアティヤを慎重に抱き上げた。意識を失った少女の身体は、驚くほど軽い。まるで魂の抜けた人形のようだ。次いで、白亜色の髪を持つもう一人の少女――白帝を、碧天が背から降ろす。
清子は一歩近づき、二人の少女の容貌を確認した。そして、阿久刀の顔を見上げる。
「……禍をお家に持ち込むとは思いませんでした」
その声は静かだった。静かであるがゆえに、かえって重い。清子の言葉は、非難というよりも、深い憂慮の表明であった。
阿久刀は、その言葉を真正面から受け止めた。頭を下げる。
「……すまん」
謝罪の言葉は、簡潔であった。だが、その短い一言に込められた重みを、清子は理解した。阿久刀は、己が何を為したかを、十全に理解している。この二人の少女を屋敷に連れ帰ることが、どれほどの危険を招くか。明保能一族の、いや、暁家の存続そのものを脅かしかねない決断であることを。
それでも、阿久刀は連れ帰った。
清子は深く息を吸い、そして吐いた。老婆の顔に刻まれた皺が、月光の下でより深く見える。
「どうなさるおつもりですか?」
問いは簡潔だが、その中には無数の懸念が含まれていた。宗家への報告は。長老たちの反応は。界外の者を匿うことの罪は。そして何より、阿久刀自身の心の内は――。
「二人を部屋に運ぶ」
阿久刀の答えもまた、簡潔であった。迷いはない。その声には、揺るぎない決意が宿っている。
清子は従いつつも、念のためにと思い、低い声で提案した。
「その娘は土牢に入れるべきでは?」
阿久刀の目が、鋭く光った。その眼差しには、一片の妥協も見られない。
「部屋に、だ」
言葉は短く、しかし絶対的だった。阿久刀は足早に屋敷へと駆け込んでいく。その背中を見送りながら、清子は静かに溜息をついた。
碧天が、もう一人の少女――白帝を背に担いだまま、清子の傍らに立つ。清子は、その巨大な白狼を見上げた。
「……碧天様」
『なんだ?』
碧天の声は、いつもと変わらぬ超然としたものだった。
清子は、慎重に言葉を選びながら問うた。
「あの娘の首と、わたくしの首。釣り合いが取れると思われますか?」
この問いは、清子の立場を如実に表していた。彼女は、明保能宗家から派遣された家人である。暁家の動向を監視し、必要とあらば報告する義務を負っている。もしも界外の者を匿っていることが発覚すれば、阿久刀だけでなく、清子自身も連座して罰せられる。最悪の場合、処刑もあり得る。
それでも清子は、己の命と引き換えにしてでも、あの少女を始末すべきか否かを問うているのだ。
碧天は、金色の瞳で清子を見つめた。その目には、人間の営みを遥か高みから見下ろす、神獣の超越性が宿っている。
『ヒトはなにゆえ、それほど殺したがるかわからぬ』
碧天の言葉は、人間の本性に対する根源的な疑問であった。生きるために殺す。恐怖から殺す。忠義のために殺す。人間は、実に多くの理由で同胞を殺す。だが、碧天にはそれが理解できない。
清子は、微かに微笑んだ。皮肉な、自嘲的な笑みであった。
「人は忠義という狂心を備えております」
その言葉には、深い諦念が含まれていた。清子自身、忠義という名の狂気に囚われている。宗家への忠誠。明保能一族への献身。それらは、時として人を狂わせ、己の命すらも軽んじさせる。
碧天は、鼻を鳴らした。
『ふむ。ますますわからぬ。先程の問であるが、阿久刀に問うがよい。お主の主人は阿久刀だ』
碧天の言葉は、清子に選択を迫るものであった。清子の忠誠は、宗家にあるのか。それとも、阿久刀にあるのか。
清子は、しばし黙考した。夜風が、老婆の姿をした彼女の衣を揺らす。そして、深く溜息をついた。
「……様子を見ることにいたします」
その声色は、無情の冷たさを帯びていた。清子は、決断を先延ばしにしたのだ。今は、事態の推移を見守る。そして、必要とあらば――その時は、己の立場に従って行動する。
碧天は、それ以上何も言わなかった。人間同士の忠義や義理といった概念に、神獣は関心を持たない。白帝を背に担いだまま、碧天は屋敷へと入っていった。
清子は、屋敷の使用人たちに命じた。
「門を閉じよ。そして、今宵は何人たりとも出入りを許すな」
使用人たちは、主人の厳命に従い、重い門を閉ざした。鉄の軋む音が、夜の静寂を破る。
暁家は、今宵より、外界から隔絶された。
客間には、すでに布団が敷かれていた。東雲が、阿久刀の命に従って準備したものだ。
「お師匠様、布団を敷きました……」
東雲の声は、不安に震えていた。彼女は、客間の入口に立ち、阿久刀の様子を窺っている。
阿久刀は、東雲の呼びかけに答えなかった。いや、聞こえていないのかもしれない。彼の全ての意識は、腕の中に抱いた少女――アティヤに注がれていた。
慎重に、まるで壊れ物を扱うように、阿久刀はアティヤを布団の上に寝かせた。そして、その顔を見つめる。
じっと、じっと、見つめ続ける。
薄めの褐色の肌。紫色を帯びた黒く長い髪。整った顔立ち。そして、その全体から醸し出される、凛とした気品。
あまりにも似ている。
「……紫」
阿久刀の唇から、亡き娘の名が漏れた。掠れた、震える声だった。
明保能紫。阿久刀の愛娘。血は繋がっていないが、心は確かに繋がっていた。聡明で、優しく、誰からも愛された少女。その紫は、今はもうこの世にいない。
だが、目の前にいる。
いや、違う。これは紫ではない。紫とは違う、別の少女だ。理性が、そう告げる。
だが、心が、そう信じることを拒む。
「本当に良く似てる……生まれ変わりのようだ」
阿久刀の手が、ゆっくりとアティヤの額に伸びる。指先が、その肌に触れようとした瞬間――
「お師匠様!」
東雲の鋭い声が、阿久刀を我に返らせた。東雲は駆け寄り、阿久刀の手を掴んで引き離す。
「この者は界外の者です!触れては駄目です!」
東雲の声は、悲痛なまでに必死だった。彼女の目には、涙すら浮かんでいる。
阿久刀は、東雲の手を見下ろした。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「平気だ。碧天も病んでいないし、文句も言われていない」
阿久刀の声は、穏やかだった。だが、東雲はその穏やかさの下に潜む危険を感じ取っていた。これは、阿久刀が冷静さを失っている時の兆候だ。
「それでも駄目です!長老方が知れば黙っていないです!」
東雲は必死に訴える。だが、阿久刀の心には届かない。彼の視線は、再びアティヤへと戻っていた。
「この子は……紫だ」
その言葉に、東雲は愕然とした。
「……お師匠さま……」
師匠であり、父であり、兄である阿久刀。東雲にとって、この世で最も尊敬し、慕う人物。その阿久刀が、今、明らかに正常ではない。
紫とアティヤを混同している。いや、混同というよりも、アティヤを紫だと信じ込もうとしている。
東雲の胸に、強い不安が湧き上がった。己の持つ咒刀が、阿久刀を惑わせているのではないか。何か、目に見えぬ力が、阿久刀の心を操っているのではないか。
東雲は、遅れて部屋に来た碧天に目を向けた。神の遣いである碧天ならば、何か言ってくれるはずだ。だが、碧天は超然としたまま、何も言わない。
「お師匠様はお疲れなんです……お部屋でお休みください。お願いです」
東雲の声は、懇願に近かった。このままでは、阿久刀は取り返しのつかない過ちを犯してしまう。そんな予感が、東雲を苛む。
碧天も、ようやく口を開いた。
『東雲の言う通りだ。一眠りしろ』
神獣の言葉は、絶対的だった。阿久刀は、ようやくアティヤから視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかった。少し休む」
おぼつかない足取りで、阿久刀は自室へと向かう。その背中は、どこか痛々しいまでに孤独に見えた。
部屋に、東雲と碧天だけが残された。
東雲は、深く息を吐いた。全身の力が抜けていくような感覚に襲われる。そして、表情を苦悩に歪めた。
「どうして……今になって……こんな」
東雲の視線が、寝台で眠るアティヤに向けられる。その顔を見るたびに、東雲の胸は締め付けられるように痛む。
明保能紫。
姉妹同然の親友。東雲にとって、この世で最も大切だった少女。その紫を思い出させる、この異国の娘。
「むらさき……教えてよ……わたし、どうしたらいいの……?」
東雲の呟きは、誰にも聞こえない。ただ、夜の闇が、その嘆きを呑み込んでいった。
碧天は、無言のままその場を離れた。白帝を別の部屋に運ぶためだ。
東雲は、一人、客間に残された。アティヤの寝顔を見つめながら、東雲の心に、ある決意が芽生え始めていた。
危険な、危険な決意が――。
阿久刀の私室は、簡素であった。武人の部屋らしく、装飾は最小限に抑えられている。壁には咒刀が掛けられ、書棚には兵法書や史書が並ぶ。そして、小さな卓の上には、一枚の肖像画が置かれていた。
明保能紫の肖像画である。
阿久刀は、布団に横たわることもせず、その肖像画の前に座った。膝を抱え、じっとそれを見つめる。
雪のように白い肌。青いとも黒いとも見える不思議な髪。そして、聡明さと優しさを湛えた瞳。画家の腕は確かで、紫の面影が見事に捉えられていた。
「……紫」
阿久刀の唇が、再び娘の名を紡ぐ。
思い出が、堰を切ったように溢れ出る。紫が初めて咒刀を握った日。初めて馬に乗った日。初めて学問の書を読み解いた日。そして――最後に、阿久刀の腕の中で息を引き取った日。
あの日、阿久刀の世界は終わった。
いや、終わったはずだった。
だが、今宵、運命は再び、阿久刀の前に紫の面影を差し出した。アティヤという名の、異国の少女の姿を借りて。
「なぜだ……なぜ、今になって……」
阿久刀の問いは、誰に向けられたものでもなかった。神に問うているのか。運命に問うているのか。それとも、己自身に問うているのか。
答えは、返ってこない。
ただ、夜の静寂だけが、阿久刀を包み込んでいた。
やがて、阿久刀の瞼が重くなり始めた。疲労が、ようやく彼を捉えたのだ。意識が、ゆっくりと闇の中へと沈んでいく。
だが、完全に眠りに落ちる直前、阿久刀は気づいた。
己の心に、何か異質なものが絡みついていることに。
それは、蔦のように、蛇のように、阿久刀の心を締め付けている。優しく、しかし確実に。そして、阿久刀の思考を、特定の方向へと誘導している。
「……これは……」
だが、その認識も、眠りの波に呑まれて消えていった。
阿久刀は、深い眠りへと落ちていった。そして、その夢の中で、彼は見るのだ。紫の笑顔を。そして、アティヤの顔を。二つの顔が重なり、混ざり合い、やがて一つになる悪夢を――。
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