運命の章 4話

舎人に導かれ、阿久刀と碧天は釣殿を後にした。

廊下を進む足音が、磨き上げられた板の間に静かに響く。進むにつれて、空気の質が変わっていくのを阿久刀は肌で感じていた。湿度が増し、何か見えない力が周囲を包み込んでいくような、異様な圧迫感があった。

やがて二人は、庭園の最奥部へと到着した。そこは、主人の明確な許可なくしては決して立ち入ることのできない聖域――禁域であった。

「殿はこの先でお待ちでございます」

舎人の声には緊張が滲んでいた。ここから先は、たとえ宗家に仕える者といえども、特別な許可なくして踏み入ることは許されない。それは単なる規則ではなく、この場所に張り巡らされた術が、侵入者を容赦なく排除するからであった。

『用心深いことよ』

碧天は悠然と先頭を切って歩き始めた。神の化身たる御遣様にとって、人間の作り出した結界など取るに足らないものであった。

禁域に足を踏み入れた瞬間、周囲の景色が一変した。濃密な霧が立ち込め、まるで雲の中を歩いているかのような感覚に襲われる。これは人払いの結界――訪れる者の五感を惑わし、意識を朦朧とさせる高度な術であった。

「碧天、これは巫術か?それとも鬼道か?」

阿久刀は術の正体を見極めようとしたが、判然としなかった。巫女の巫術と祈祷師の鬼道、その両方の気配が混在しているように感じられたのだ。

『わからぬか?』

碧天の声には呆れと諦めが入り混じっていた。

「鬼道のような……巫術のような……」

『覚えい。これは鬼道よ』

「……混ざってるだろ?」

阿久刀の指摘に、碧天は意外そうに振り返った。

『それはわかるのだな』

「なんとなく不快感があるからな。肌がざわつくというか、胃の奥が重くなるような感じがする」

実際、この結界には巫術と鬼道が複雑に絡み合っていた。それは防御を幾重にも重ねることで、いかなる術者の侵入も防ぐための工夫であった。しかし、その複雑さゆえに、術に敏感な者には独特の違和感を与えるのだ。

「学ぶのも大変なんだぞ」

阿久刀は肩をすくめた。術の才能に恵まれなかった自分にとって、これらの神秘は理解の及ばない領域であった。剣の道に生きてきた者の、ある種の諦念がそこにはあった。

『やれやれ。ん?あそこにおるぞ』

碧天が顎で示した先に、一人の武人が立っていた。

霧が晴れると、そこには威風堂々たる壮年の男が待っていた。

明保能宗家の現当主、明保能十勝。その佇まいには、千年の歴史を背負う名家の当主としての威厳と、数々の政治的修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ深い陰影があった。

腰に佩いた刀は、当主の証である宝刀・月桂刀。透明な刀身の中に、永遠に枯れることのない月桂樹の花が封じ込められた、この世に二つとない刀であった。その美しさは見る者を魅了すると同時に、底知れぬ恐怖を呼び起こす。

「遅いぞ、弟よ」

十勝は腕を組み、不機嫌そうに睨みつけながら歩み寄ってきた。しかし、その厳しい表情の奥には、弟への深い愛情が隠されていることを阿久刀は知っていた。

「待たされたのは俺の方だ」

阿久刀は軽口で返した。兄弟の間だけに許された、気安い口調であった。

次の瞬間、二人は互いに歩み寄り、力強く抱擁を交わした。政治的立場や複雑な事情を超えて、そこには純粋な兄弟の情があった。

「元気だったか?」

十勝の声には、何年も会えずにいた弟への心配が滲んでいた。分家に格下げされ、監視下に置かれている弟の境遇を思えば、その心配は当然であった。

「兄上こそ。御身の多忙さに比べれば、疲れてなどいられないさ」

阿久刀の返答には、兄の苦労を察する優しさがあった。朝廷での政治闘争、他の諸名家との駆け引き、領地の統治――十勝が背負う重責は、阿久刀の比ではなかった。

十勝は碧天に向き直り、深々と頭を下げた。

「碧天様もご壮健でなによりです」

『うむ』

その時、耳をつんざくような大音声のいびきが響き渡った。

音の主は、池のほとりで仰向けに寝転がっている、碧天を一回り小さくした狼であった。遊天――明保能宗家の御遣様である。よだれを垂らし、四肢を投げ出して寝ている姿は、神の化身とは思えぬほど無防備で間の抜けたものであった。

「……あー……一度は起こしたのだがなぁ……」

十勝の顔に困惑と諦めが浮かんだ。主人の重要な会談にも関わらず、このありさまである。

『…………』

碧天は無言で遊天に近づくと、後ろ足で思い切り蹴り飛ばした。遊天の身体は見事な弧を描いて池に落ちた。水面に泡が立ち、やがてそれも消えて静寂が戻った。

『うつけものは失せた。話を始めるがよい』

「遊天様は平気なのか?」

阿久刀は心配そうに池を覗き込んだ。いくら御遣様とはいえ、溺れてしまっては――

『どうでもよい』

碧天の返答は素っ気なかった。遊天への軽蔑と呆れが、その短い言葉に凝縮されていた。

「はっはっはっ。まぁ大丈夫だろう」

十勝は豪快に笑い、腰掛け石に座った。阿久刀もその隣に腰を下ろす。

「今日は訪ねてくる者が多くてな。おかげですぐに会えなかった」

「みたいだな。待っている間、新渡戸十次殿と会った。話も聞いたよ」

「そうか。十次に会ったのか」

十勝の表情が曇った。

「あれも気苦労が絶えん。苦労をかけている」

「処刑されたのは戦友の子だと」

「ん?奴はそう言ったのか?」

「あぁ」

十勝は一瞬、何か言いかけたが、口を閉じた。

「……確かに戦友の子だが……まぁいい。奴も言いづらい事はある」

その言葉の裏に、何か複雑な事情があることを阿久刀は察したが、あえて追及はしなかった。

十勝は煙管を取り出し、火をつけようとしたが、なかなか火がつかない。湿気のせいか、あるいは心の動揺のせいか。

「それで、俺に何の話があるんだ?」

阿久刀は周囲を警戒し、声を潜めた。結界があるとはいえ、用心に越したことはない。

「碧天によると、高天様が倒れた、と」

その言葉に、十勝は驚愕して立ち上がった。

「なに!?本当か!?」

「経頼様も数日のうちに亡くなられるようだ」

「……なんて事だ……」

十勝は石に座り直し、深く考え込んだ。その表情は、もはや弟と語らう兄のものではなく、朝廷で長年政治闘争を戦ってきた老獪な政治家のものへと変化していた。

大炊御門経頼の死は、単なる一人の重臣の死ではない。朝廷の権力均衡が崩れ、新たな勢力争いが始まることを意味していた。そして、十三諸名家の一つである明保能家も、否応なくその渦中に巻き込まれることになる。

『十勝よ。遊天からは聞いたか?』

碧天の問いかけに、十勝は眉間を指で押さえた。

「………どうしても起きないのでな」

『うつけものめ』

碧天は腹這いになり、深い溜息をついた。重要な情報を伝えるべき御遣様が、この体たらくでは話にならない。

「実は五日後に京師から特使が到着する予定だ」

「特使?」

阿久刀は違和感を覚えた。通常、このような重大事には勅使が派遣されるはずだ。

「突然、朝廷から報せが届いた。経頼殿の事なのだろうか……」

阿久刀は懐からマッチを取り出し、兄の煙管に火をつけた。小さな炎が、二人の顔を一瞬明るく照らし出す。

十勝は深々と煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。紫煙が夕闇に溶けていく。

「……うまい。お前もどうだ?」

「俺は煙が嫌いだ」

二人は顔を見合わせて笑った。子供の頃から変わらない、他愛のないやり取りであった。

「ならなぜ持っている?」

「兄上のためだ」

その言葉に込められた意味を、十勝は理解していた。必ず会える日が来ると信じて、弟は兄のためにマッチを持ち歩いていたのだ。

「さて……こうして心配しても仕方ない。まずは特使を出迎え、首府の諜報方と連絡を取らねば……」

十勝は煙管を叩いて灰を落とし、咳払いをした。そして、どう切り出そうか迷うような表情で口を開いた。

「ところで、東雲は息災か?」

その歯切れの悪い口調から、阿久刀はすぐに兄の意図を察した。

「あぁ」

「連れてきたのか?」

「いや。家の留守を任せた」

「そうか……それは残念だ。久々に……顔を見たかったんだが……」

阿久刀は内心で溜息をついた。兄はまた東雲の縁談を持ち出すつもりなのだ。

東雲は年頃であり、いずれ阿久刀の後を継ぐことになる。明保能一族の血を引く者として、子を成し家を残す責務がある。十勝としては、東雲に相応しい家柄の婿を見つけ、分家とはいえ明保能の血統を確実に継承させたいのだろう。

しかし、阿久刀はまだ東雲を自由にしてやりたかった。彼女はまだ若く、これから学ぶべきことも多い。何より、亡き紫の記憶と重なる東雲を、まだ手放したくなかった。

「兄上。あの子はまだ――」

言いかけた阿久刀の言葉は、突然の水音に遮られた。

『おはよお』

池から遊天が頭を出した。のそのそと這い上がると、ブルブルと身体を振って水飛沫を飛ばした。阿久刀と十勝は容赦なく水を浴びせられたが、遊天は全く気にしていない。

「……お元気そうで、遊天様」

阿久刀は苦笑しながら挨拶した。

『阿久刀くんじゃないかあ。甘いものは持ってるかい?』

遊天は四つん這いになり、尻尾を振りながら期待に満ちた目で阿久刀を見つめた。

「残念ですが、今日は持ち合わせがありません」

「それより遊天。高天様のことだが――」

十勝が問い詰めようとすると、遊天は不思議そうに首を傾げた。

『んん?かれは還ったよ。言ったよね?』

「俺は聞いてないぞ……まったくお前は……」

十勝が説教を始めた。これもまた、いつもの光景であった。主人が真剣に叱っても、遊天は欠伸をしながら聞き流している。

「ご当主様」

結界の外から、側役の声が響いてきた。

「そろそろお時間です」

「わかった。すぐに行く」

謁見の時間は終わりを告げていた。阿久刀と十勝は立ち上がり、禁域を出ようとした。

その時、十勝は弟の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。

「……阿久刀」

その声音には、先ほどまでとは違う緊迫感があった。

「我々の信条は変わらん。いついかなるときも"神秘"と共に生きるとな」

阿久刀は無言で頷いた。

「この先、どうなろうとそれだけは見失うなよ」

十勝の言葉には、深い憂慮が込められていた。高天の死、特使の来訪、そして朝廷の不穏な動き。これから起こるであろう激動の中で、明保能一族が守るべきもの――それは御遣様との絆であり、千年続いてきた神秘との共生であった。

界外からの技術や思想が少しずつ島に流入し、神秘を否定する者たちも現れ始めている。そんな時代にあっても、いや、そんな時代だからこそ、神秘と共に生きることの意味を忘れてはならない。

十勝は阿久刀の肩を力強く叩き、先に禁域を出て行った。

阿久刀は一人残され、夕闇に包まれ始めた庭園を見渡した。

「…………」

『十勝め。なにやら予感を感じておるか』

碧天の鋭い洞察に、阿久刀は静かに答えた。

「……変化、か」

時代の歯車が動き始めている。それは避けられない運命なのかもしれない。しかし、変化の中でも守るべきものがある。それを見失わないこと――兄の言葉は、そんな覚悟を求めていた。

阿久刀と碧天は、重い足取りで隼人殿を後にした。まるで西の空に残照が燃え、まるで世界が血に染まっているかのように思える。それは来るべき動乱の予兆なのか、それとも新しい時代の産声なのか。

今はまだ、誰にも分からなかった。

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