二、【雨宿り】その②
「あっ、すごい!演奏ここまで聞こえるんだ」
霖鵜が文碧の離れに来るようになって、もう四日が経っていた。文碧は一日目、二日目、と髪を霖鵜に結われてから学んだのか、霖鵜がやってくる前に髪をひとまとめにして上げておくようになった。可愛くない!とすねる霖鵜だったが、文碧が豆菓子をやるとすぐに静かになって、大人しく文碧の手に軟膏を塗り込みはじめ、陰気だと言って開けさせた窓から、小さな雨音の隙間から琵琶の音が漏れ聞こえていた。
「芳梅の琵琶だね」
芳梅の姿を思い浮かべながら文碧はいった。一番初めにこの屋敷に来た真っ赤な蝶の顔を思い浮かべると、自然と眉根が寄って、窓の外に視線を投げた。ただ霖鵜は文碧が琵琶の音に聞き入っているのだと思って、目を丸くした。
「姉さんの琵琶、すっごい上手なのよ!近くで聞いてみたらいいのに、きっと感動するわ」
「蝶の女たちは私を気味悪がっているからね。それに芳梅は、私のことは嫌いだろうから」
霖鵜の言葉に文碧は苦笑いし、小さく咳をするので、霖鵜は不思議そうな顔をして文碧の手に視線を落とした。
「そうなの?姉さんすごく肌が綺麗だから。うつったら嫌なのね、きっと」
「……そうだね」
控えめに答える文碧。文飛に言われて霖鵜が来ていることは分かっているが正直この庵に人を入れるのは快くなかった。霖鵜は可愛げのある少女だが、幼気があるゆえ考えが読みづらく何を考えているのかさっぱりわからなかった。
「ねえねえ、じゃあ、私の歌も聞こえてる?」
琵琶の音を聞いていた霖鵜だが、手に軟膏を塗り終えると、顔を上げて文碧に尋ねた。文碧は話しかけられているのに少し間を置いてから気がついて、ゆったりと答えた。
「聞こえてるよ」
「ふふ、じゃあ、私が歌ったげる」
そう言って霖鵜は寝台から飛び降りて、部屋の中ほどまでかけていった。何の歌がいい?と無邪気に問いかけるが、文碧は何も答えず、小さく首を横に振った。
「だめだよ」
「どうして?」
「君の歌声は、文飛だけのものだ」
そう言って少し俯く文碧に、霖鵜は慌ただしく近づいていって、顔を下から覗き見た。変な顔、とボソリと言って文碧の気を引き、視線を合わせて子供らしい声で言った。
「いつも盗み聞いてるのに、そんな事言うのね?」
「ここに来ていると、バレてしまうだろう」
少し決まりが悪そうに言う文碧を見て、霖鵜は少し唇を尖らせて、困った顔の大根みたいだわ、とボソリといって、また文碧の気を引いた。そうして文碧が顔を上げたのを見計らい、霖鵜は室の真ん中へとパタパタと走っていき、堂々とした立ち姿で言ってみせた。
「歌声は、雨にかき消されるからいいの!」
「そうとはいってもね……」
あくまでも退かない姿勢を貫く文碧に、霖鵜はついに腰に手を当て大威張りの格好で、怒りっぽく言った。
「いいの!だまって聞いていてよ。旦那様ならそうしてくださるわ!」
その勢いに面食らっておし黙っている文碧をみて、ご満悦な様子の霖鵜は、そのまま室の真ん中で、茉莉花の歌を歌い始めた。
好一朵茉莉花(きれいな茉莉花)
好一朵茉莉花(きれいな茉莉花)
滿園花開香也香不過她(きれいな茉莉花庭中に咲いたどの花も、その香りにはかなわない)
我有心採一朵戴(一つとって仕舞いたいけど)
又怕看花的人兒罵(怒られてしまうかしら)
霖鵜の歌声は軽やかで、その声の清らかな様は雨音に似ていた。湿った土の香りを運ぶ風が雨の音を室に運び、霖鵜の美しい声を包み込むように響かせる。文碧は不意に、遠く昔に聞いた歌声を思い出した。秋口の冷ややかな風でなく、新緑色の若葉がようやっと色づいてきた頃、春と夏の間のほんの一瞬、鈴なりに映え揃ったまだ少し柔らかな葉を、眩しく光らせるように揺らす爽やかな風。そんな風を思わせる歌声だった。ただ今では、その歌声も、歌声の主の姿さえも、靄がかかっているようにしか思い出せず、ただ霖鵜の歌声だけがとうとうと降り注ぐ雨のように響いていた。
茉莉花開雪也白不過她(雪よりも白く咲いた茉莉花)
我有心採一朵戴(一つとって飾りたいけれど)
又怕旁人笑話(笑われてしまうかしら)
その瞬間、文碧の脳裏に長い黒髪が風に揺れる様がよぎった。
「きれいな歌声だね」
霖鵜の歌声を遮って、耐えきれず文碧は声を上げた。
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