六、「あたしと、つ…っ…」
それから一週間ぐらいは、特に何事もなく過ぎた。でも相変わらず声は出にくい。A5なんて余裕だったのに、かすれる。下手をするとG5ですら、思いっきりブレスして出しても、喉の奥が勝手に閉まってくる感じがする。あわわ…どうしちゃったんだろうボク…。まさかほんとに声変わりなの…。そんな不安を抱きながら週が明け、月曜日になった。朝、いつものようにお母さんにヘアブローしてもらう。お母さん、襟足にも丁寧にバリカンを当ててくれて、今朝もカンペキなマッシュルームカットの出来上がりだ。そろそろ登校時刻になる。
「あら?遥ちゃん、来ないわね」
お母さんが表情を曇らせながら言う。あ、確かにもう迎えにくる頃なのに。
「どうかしたのかな。みーちゃん、ちょっとラインしてみたら?」
「うん」
ボクはスマホを取り出し、遥とのライン画面を開けて指を走らせた。
『遥、どうかした?今日は先に学校行ってるとか?』
既読はすぐについて、リプライが返ってくる。
『悪ぃ、風邪引いちまった。ちょっと熱高ぇ』
あらたいへん、とお母さんの声。ボクの背後で画面をのぞき見ている。
「みーちゃん、それなら学校行く前に遥ちゃんに会ってあげたら?」
「うんそうだね」
ボクは再び画面に向かった。
『わかった。心配だからちょっとそっち行くね』
『いいのか?』
『うん』
『あんがと。待ってる。玄関開いてるから』
ボクは鞄を手にすると、お母さんに見送られて家の外に出た。遥の家はすぐ隣。十秒かからずにボクは佐伯家の玄関に立つ。ボクの家もまあまあ大きいけど、遥の家は豪邸だ。やっぱ両親とも医者だとお金持ちになるんだろうな。呼び鈴も押さずに(ボクは佐伯家には出入り自由だ。逆もまた然り)家の中に入る。
「おはようございまーす」
挨拶するけど誰も返事しない。お父さんもお母さんももう仕事に出ているんだろう。ボクはそのまま廊下を進み、階段を上る。遥の部屋は二階だ。広さは十畳ある。「Harukas Room」と小札が下がった扉をコンコン、とノックした。
「みゆか」
中から、いつもの遥の十分の一にも届かない声。
「うん。入っていい?」
「いいぜ」
扉を開ける。机も調度もカーテンもベッドもピンク基調でまとめられた、かわいい部屋だ。油に漬けたような、しっとりと落ち着いた匂いがしている。いつも威勢のいい遥にはちょっと不似合いかな。そんな部屋のベッドに遥が横たわる。寝乱れた闇色ロングが頬を覆っている。その頬が赤いし、目も充血している。かなりつらそうだ。
「あわわ!大丈夫遥⁉︎」
「すまねぇ…。ゆうべからゾクゾクしてきちまって…、見ての通りだ」
「熱何度あるの?」
「おぅ…、測ってみる」
枕元から体温計を取り出し、遥は脇に挟んだ。待つこと十秒。ピッピッと音。体温計をのぞき込むボク。表示は三十八度八分だった。
「あわ…、こんなにあるの。大変じゃん」
「でも…、インフルエンザじゃ…ねぇらしい。三、四日もすれば治るって、親父言ってた」
「あ、それはまだよかったね」
遥は弱々しい手でスマホを取る。そして悔しそうな声。
「スパモン復刻…金曜までなんだ。ビドーS絶対ぇ欲しいのに…こんなとこで寝てる場合じゃねぇ」
「遥、しょうがないよ病気じゃ。風邪治すのに集中しようよ」
「そうだな…」
遥はそう言って目を閉じた。眼球がちょっと落ち窪んでいる。そのせいか、すっかりやつれて見える。嫌だよ遥、なんか不安になるじゃん。
「あわわ…、遥…。早くよくなってね」
「ったりめぇだ…。遅くとも水曜には『ドラドラ』再開だ…水木金の三日でビドー取るぜ」
遥ったら熱のあるときですら、ボクがわからない話をする。でも、これでゲームの話すらできなくなったらって思うと、ボクももっと不安になる。
「あぁ、悪ぃみゆ、もう行け。朝練遅れるぞ」
「あわ…。遥、大丈夫?」
「ああ。たかが風邪だ。熱なんて今日中に下がるぜ」
「わかった。じゃあ行ってくるね」
ボクは遥の部屋を出た。玄関をくぐり、いつもの通学路に行く。隣に遥がいない。それが落ち着かない。心に小傷が開き、そこに十一月の木枯らしが吹きつける。遥の存在感の大きさを、改めて感じた。
「おはようなのクリボー。あれ、はーちゃんはぁ?」
朝練の音楽室に入ると、梢が駆け寄ってくる。ん、楓がいない。
「今日は風邪でお休みだよ。さっき様子見てきた。三十八度八分もあったよ」
「そっかなの…」
梢は寂しそうに、円くて小さな瞳を伏せた。
「今日さぁ、かえっちも風邪でお休みなのぉ」
「え、楓も?」
「うん…。かえっちいないの、寂しいなの…」
楓がいないのは寂しいな。…でも遥もいないんだけど。梢、遥がいないのは気にならないのかな。
「しょうがないよ。梢、今日は二人きりだけど、元気にやろうよ」
「そうだね…」
梢はなんとか表情を持ち直させて顔を上げる。
「ねえクリボー、ならさぁ、反省会終わったらお見舞い行こうなのぉ」
「あ、いいねそれ。じゃあどっち先に行く?遥んとこ?楓んとこ?」
ボクがそう聞いた一瞬、梢の顔に意味深げな、よくわからない色が走った。そして梢は、小さな口をいっぱいに開けて「すううううっ」と深く息を吸い込む。セーラーのお腹がふくらんだ。そして梢はこう言った。
「ううん、そうすると時間かかっちゃうなの。だから手分けするなの。梢、かえっちお見舞いするから、クリボーはーちゃんとこ行ってあげてなの」
え、梢なんでそんなこと言うの?と、ボクが言おうとしたとき、音楽室に顧問の錦木(にしきぎ)先生が入ってくる。梢に何も聞けないまま、ボクは隊列の中に並ぶしかなかった。
梢はその日、いつものちょっと甘えた、ストロベリーシャーベットのような声と、口癖の「なの」を満たしてボクといろいろ会話してくれた。二人きりなのは寂しかったけれど、それなりに梢と楽しく過ごす。でも、気のせいかな、梢の話の中に楓のことが多い感じがした。「聞いてなのクリボー、昨日ラインでかえっちたらねぇ」とか「やっぱあのかっちりワンレンボブ、かえっちらしくて素敵なのぉ」とか、そんな話をする。そう話す梢の瞳が、どこかきらめいて見えるのが不思議だった。
そうこうするうち、部活も終わり、二人で反省会もする。今日の梢はよく声が出ていて(身体は小さいけど梢は全身で必死に歌ってる)「くもみな」最高音のラも伸びやかだった。「すううううっ」と激しいブレスとともに、セーラーのお腹をふくらます梢。やっぱ腹式呼吸じゃないといけないのかな。やがて時計は六時になり、反省会も終わる。校門の前で梢と手を振り合った。
「じゃあねなのクリボー、はーちゃんの様子、また聞かせてねなのぉ」
「うん。楓のことも知らせて。じゃバイバイ」
夕闇に消えていく梢の小さな背中。梢ったら、二人で遥のとこも楓のとこも行けばいいのに…。ほんの少しのしこりが、ボクの胸に残った。
朝に続いて、再び佐伯家の玄関に立つ。さすがに扉は締まっている。ボクは鞄から合鍵(ボクは遥の家の鍵まで持っている。これも逆また然り)を取り出し、扉を開けた。玄関に入り、扉に施錠すると、階段を上がった。遥の部屋をノックする。
「遥、ボクだよ」
「おぅ、みゆか。入れ」
遥、まだ声に元気がない。部屋に入る。朝と同じように、遥がベッドに寝ている。顔も目も相変わらず赤く、髪は寝乱れていた。落ち窪んだ目玉がやつれている。
「あわわ…。具合、まだよくならないの?」
「ああ…。ゲホ、ゲホ…」
咳き込む遥。鼻をずずっとすすり上げ、ボクを見る。
「ざまぁねぇ。ゲホ…咳や鼻水まで…ずずっ、出てきやがった」
「あわわ、ひどいね…」
ボクは遥の枕元に座る。ゼエゼエ、と、破れかけた笛のような音が聞こえる。
「みゆ…、学校…ゲホ…どうだった?」
「授業はそれなりに進んだよ。治ったらノート見せてあげるね」
「すまねぇ…ゲホッ!ゲホッ!」
身体を大きくくねらせて、激しく咳き込む遥。
「あわわ!大丈夫⁉︎」
「ああ、いい…。ゲホ…部活は?」
「今日、楓も風邪で休みで…。梢と二人だったよ」
ボクは遥の頭に手を添えた。まだかなり熱い。そしてその手を動かし、髪をゆっくりと撫でる。
「手分けしてお見舞い行こうってことになって、梢が楓ん家、ボクが遥ん家に来てる」
「そうか…」
遥は目を閉じて、しばらく黙った。相変わらずゼエゼエと音。そして目を閉じたまま、少し顔を歪ませてこう言う。
「ダメだな…ゲホ…弱気に、なっちまって。一人で…寝てると…寂しくてな。みゆが…来てくれて…ゲホゲホ…よかった」
「ライン入れてくれればよかったのに」
「みんな…ゲホゲホ…授業とか…ゲホ、部活とかで忙しい…だろ。邪魔しちゃ悪ぃ…ゲホ…じゃねえか」
遥のその声は、いつもの元気なアニメ声とはかけ離れた、とてもか細い、文字通り蚊の鳴くような声になってしまっていた。遥…、早く治って。
「あわわ…、遥、ちょっとでも眠らないといけないよ。ボク、ここにいるから、安心して寝て」
「みゆ…」
「何も心配いらないよ、遥…」
持ち合わせている優しさを全部込めて、ボクは遥の闇色の髪を撫でる。
「すはあああっ、ねーんねーんーころーりーよー、すはあっ、おこーろーりーよー、すはあああっ、はーるかーはーいいーこーだー、すはああっ、ねんねーしーなー」
ボクがそう歌うと、遥は眠っていった…とはいかなかった。
「ううっ…ぐずっ」
熱で赤らんだその顔が、見る間に泣き顔になる。
「みゆぅ…切ねぇよぅ…はああああっ、あああ…ああああん…」
「よしよし、熱のせいだよ」
「みゆ!」
遥が布団から手を出し、ボクに差し出す。
「あわわ?」
「手…ううっ…握って、ゲホ…くれ」
「うん」
その白い手を握る。ちょっとゴツゴツした、骨っぽい遥の手。舗装されてない路面みたいな感じ、というと遥に悪いかな。
「みゆ…。ぐずっ…いつも優しいなお前」
「大事な遥だもの」
「みゆ、ううっ…人が弱ってっときに…ゲホ…優しくすんじゃねぇ…ぐずっ…反則、だぞ…」
見つめあう遥とボク。遥の大きな黒い瞳から、涙がじわっと流れ出ていく。え、ちょっとシリアスすぎるじゃん。照れ隠しにボクはクスリと笑う。
「あわわ…遥、なんかこんな手ぇ握りあってたら、遥死んじゃうみたいじゃない。ボク泣くシーン?でもボク役者じゃないから、すぐには泣けない──」
「みゆっ!台詞は要らねぇっ!」
遥が叫んでボクを遮る。その手が力の限りボクを握る。
「あわわ?」
「みゆ…、あたしと、つ…っ…」
声が止まる。「つ」の音のまま、遥の唇が固まった。
「つ?」
なお「つ」の口をする遥。何千字何万字もの言葉をこらえているようなその瞳。あわわ…遥…、なんでそんな瞳でボクを見るの?しばらくそのまま時が過ぎた。でもやがて、唇を崩し、ふーっと遥は息を吐いた。
「…なんでもねぇ。ゲホッ!熱に…うなされた。あたしどうか…してるぜ」
遥はボクの手を離した。
「ゲホゲホ…ちょっと…寝る。明かり、消して…くれ。みゆ、今日は…帰っていいぞ」
「あわわ…?ボク、そばにいるよ」
「いや…ゲホ…今日はもういい。また…来てくれ。ゲホッ!親父たち…帰ってるだろ…リビングで茶でも…ゲホッ、ぐずっ…飲んでけ」
なんかまだまだ心配なんだけど…。ボクいなくていいのかな。でも遥、病気がつらいから、かえって一人になりたいのかもしれない。それにしてもさっきの「つ」って、何だったんだろう。
「あわ…。わかった。じゃあまた来るね」
「ああ、あんがとよ」
ボクは部屋の明かりを消し、そっと扉を閉めた。
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