第6話 脳の理解を司る部分
異世界に来て一週間。この世界のあらましも大体分かり、これ以上唸ることなど無いと思っていた。しかしそれは間違いだったようだ。
広志は今、大きなソファに腰かけている。右にエレナ、左にローザ、そして目の前のソファには……イサム。
「なあエレナ、どうして広志はさっきから顔を覆って動かないんだ?」
「さぁ……何故でしょう。勇者様にも分かりませんか?」
「元勇者だからって全知全能だと思わないでくれよ」
ポンポンと繰り出される会話に、広志はまたもや唸り声を上げる。未だに脳が受け入れを拒否、というか、処理できずにいる。
まさか、イサムさんが勇者だったなんて。
ゆっくり顔を上げると、イサムがパチパチと瞬きした。
「お。大丈夫か広志」
「ええ……まあ……。まさかイサムさんが噂の勇者様だとは思いませんでした」
こめかみをこする広志を見て、イサムは吹き出してくすくすと笑い出した。困惑していると、笑いの波が引いたのか、イサムは微笑を浮かべる。
「そりゃそうだよな。勇者って言うと、もっとこう、かっこいい衣装を身にまとってたり、正義感でメラメラ燃えてたり、そういうのを期待するよな、普通」
そんなことない、と言おうとして、口ごもった。本音を言えば、少し、期待していた。そんな自分がなんだか悪人のような気がして、広志は思わず目をそらす。
広志の複雑な心境を汲み取ったのか、イサムは苦笑いして頭をかく。
「参ったな。そんな顔させるつもりじゃなかったんだが。ま、そんなに気にするなよ。勇者っつっても元だ。今じゃ王宮でシェフまがいなことしてるただのオッサンだ」
イサムの表情は至って普通だった。広志は少しずつ安心し、何十分も放置されていたぬる紅茶を口に含む。その味にデジャヴを覚え、広志は首を傾げた。
「何かこの味、飲んだことあるような……」
「ああ、ヒロシ様がウチにいらっしゃった時に出した紅茶です。この茶葉は隣国の特産品なんですよ」
「へぇ、そうなんですね」
紅茶には詳しくないので、美味しいのかどうかは判別できない。元の世界では紅茶など飲んだことがなかった。幼い頃からウーロン茶育ちで、ジュースはあまり好きではなかったのだ。
けれど、羽田さんと出会ってからは、コーヒーをよく飲むようになった。彼女の研究のお供として、頻繁にお使いに駆り出されていたのを思い出す。まるで半分奴隷のように鼻で使われていたけれど、頼まれたことを終わらせればお礼を言ってくれたし、俺にもコーヒーを淹れてくれた。確か彼女が好きだったのはエチオピア産で……。
そこまで考えたあと、胸に重苦しい感情が覆いかぶさる。
羽田さんに会いたい。元の世界に戻りたい。
この世界で過ごしていくうちに、抗うことを忘れてしまっていたようだ。そんなのダメだ。何が何でも帰らなきゃ。
広志はゆっくりと嫌なモヤモヤを吐き出すように、静かに深呼吸した。雰囲気の変かに気づいたのか、三人が揃って広志を見つめている。背筋を伸ばした広志は、イサムと目を合わせて口を開いた。
「イサムさん。俺に使命があるのは分かっています。でも俺は、元の世界に彼女がいるんです。帰らなきゃいけないんです。なので、お願いします。どうか、帰してもらえないでしょうか」
深々と頭を下げ、もう一度「お願いします」と繰り返す。ローザは相変わらず何を考えているか分からない間抜け顔で、エレナは呆気にとられているのか、小さな目を見開いている(それでも依然小さいのだが)。
イサムは分かりやすく困り顔になり、鼻をつまんでため息をつく。やはり、ダメなのだろうか。目を伏せ、溢れ出そうな涙をこらえようとズボンを強く握りしめる。落胆する広志に、イサムは天井を見ながら短く息を吐いた。
「なあ広志、どうして俺が魔王を成敗したあとも異世界で暮らしてると思う?」
「はぇ?」
イサムのその急な問いかけに、広志はキョトンとする。
そういえば何故だろう。というかそもそも帰るのが相場なのか? ラノベとか、そういうものを読んだことが無いので分からない。異世界に召喚された勇者は、使命を果たしたら帰るのだろうか? かろうじて覚えている異世界系は、大抵「召喚」ではなく、「転生」なので、帰るとか帰らないとかいう話にならない。
うんうん唸って考えてみるものの、これといった答えは出てこない。諦めた広志は頬をかいて顔を上げた。
「すいません、分かりません……」
「そうか。まあ良いだろう。答えられるかどうかは関係ないからな」
イサムは軽く首を回して音を鳴らすと、軽く唸りながら広志を見据えた。
「教えてやるよ。なんで異世界でずっと暮らしてるのか。……答えは簡単。帰る
……ああ、羽田さん。どうすれば良いんでしょうか。私はもう二度と貴方の元に帰れないのでしょうか。いつか行こうと約束した、ちょっと高めのプラネタリウムも、もう行けないのでしょうか。
目の前が真っ暗になる。グラグラ視界が、頭が揺れる。脳が受け入れを拒否、というか、処理できずにいる。
ああ、神様、これから俺は、一体どうすれば良いのですか……?
異世界絶対童貞宣言! 木口はむ美 @hami-hamu
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