第6話 〈過去〉危険な兆候

 拳が、幼き日のジャックの顔面を捉えた。よろめき後退りながらも、顔と胴を守る防御態勢を維持する。


「上等上等、いい根性だぞ、クゾガキ」

 グローブを嵌めたヨモギが、肩を回しながらジャックを褒めた。煙草のヤニで黄色くなった歯で笑う。

「でもそれじゃだめだ。ちゃんと殺す気でこないとな!」

 右カーフキック! ジャックが激痛に顔をしかめる。

「それと! 奇襲は気配を殺せ。ばればれだ」

 背後から攻撃を仕掛けたヒメコに裏拳を見舞う。



『そこまで、訓練を終了する』

 様々な状況を再現可能な訓練ルームのスピーカーから、タカミ主席研究員の声が響くのと、ヒメコの細い体が倒れるのは同時だった。


「ふん、タイミングが悪い」


『ヨモギ隊長、後ほど訓練のレポートをくれたまえ』


 ヨモギはスピーカーに向けて了解と言うと、視線をジャックに戻した。

「そういうわけで、もう終わりだ。そんなに怒るな」

 右腕サイバネアームでジャックの拳を抑え込みながら、拳を下ろすように促す。しかし、ジャックは聞こえていないのか、ただヨモギを睨みつけるだけだ。獣のような唸り声まで発している。

「そんなに大事なら、もっと上手く守れるようになるんだな」

 軋みを上げるサイバネアームに若干の焦りを覚えながら、ヨモギはポケットからリモコンを取り出してボタンを押した。ジャックの首の枷に電流が流れる。苦痛にうめき声をあげてジャックがうずくまった隙に、ヨモギは訓練ルームから足早に去っていった。


 入れ替わりに数名の警備員が訓練ルームに入り、ジャックとヒメコを取り囲んだ。その手には槍のように長い電磁警棒が握られている。彼らは姉弟に部屋から移動するよう促した。


 ジャックがヒメコを助け起こす。早く行けとジャックの背後に立つ警備員が小突いた。少年は唸り声をあげ、周囲を威圧する。

 ヒメコがジャックに守られながら、アキハマとホワイト医師の待つ別の部屋へと歩き出す。


 部屋に入ると、すぐにホワイト医師が姉弟のチェックに移った。

「後はこちらでやる。通常業務に戻ってちょうだい」

 ホワイト医師による診察の間に、アキハマが警備員を下がらせる。

「しかし……」

「黙りなさい。あなたたちのせいで彼らに無用なストレスがかかる。これは所長肝いりのプロジェクトなのよ。それとも、この子たちに何かあった時に責任が取れると?」

 副所長の強い言葉に、警備員はおとなしく姉弟をアキハマたちに引き渡し、持ち場に戻っていった。



「きつく言いすぎじゃないか?」

 診察を終えたホワイト医師は、アキハマの横に並び横目で言った。

「構わないわ。そもそも、あんな物々しい連中に警備をさせること自体反対なのよ」

「今自分で言っていたじゃないか。彼らは所長肝いりだって、それなら厳重にするのは仕方ないだろう」

 アキハマは何度か深呼吸をすると、笑顔を作り子供たちのほうに振り返った。ヒメコが不安な表情でアキハマを見ている。

「さあ二人とも、一緒にお部屋に戻りましょう。今日のご飯はなにかしらね」

 明るく振舞いながら、子供たちの手を引いて子供たちの部屋まで移動を始めた。

 その背中をホワイト医師も追いかける。


 子供たちと楽しそうにおしゃべりをしているアキハマの横顔と、先日の鬼気迫る表情のギャップに、ホワイト医師は子供たちの出自にまつわる話がすべて夢か質の悪い冗談なのではないかという気すらしていた。


「おかあさん。今日は一緒に食べられる?」

 ヒメコがアキハマに問うた。しかし、期待のまなざしにアキハマは困り顔で首を横に振る。

「ごめんね。お仕事が忙しくてね。時間が取れないの」

 その言葉は事実だった。数多くの実験立ち合いとレポート作成。会議への参加などで、ヨコハマドセンタン研究所の研究員は立ち止まる暇などなかった。中央部に密集したラボエリアと、その周囲をぐるりと巡る低レベルエリアを、彼らはマグロめいて常に回遊していた。


 ヒメコの残念そうな顔に、アキハマは胸がちくりとした。本当であれば、子どもたちとの時間を優先したかった。しかし、過剰ともいえるアキハマの子どもたちへの入れ込みように、以前、施設所長のカダスマおよび企業上層部から自重の苦言を受けた事もある。関わりを控えねば、別の部署への異動になりかねない。アキハマは揺れる感情を御しながら、子どもたちへと別れの言葉を伝え、急ぎの仕事に戻った。


「時間を取ったらいいじゃないか。向こうには遅れると伝えておけば、少しくらい……」


「だめよ。目をつけられてる。わかるでしょ、彼らは実験動物としか思っていない。まして、それに愛着を持つ人間なんて考えられないとすら思っているでしょうね」

 苛立ちを誤魔化すため、冗談めかして言うが、その目には怒りが浮かんでいる。


 ホワイト医師にはそれが良くない兆候に思えた。ここ最近、アキハマが不満を口に出す頻度が増していた。ほかの同僚相手には上手く隠してはいたが、強いストレスを抱えていることは、医師であるホワイトの目には明らかだった。少しでもストレスを緩和しようと子どもたちとのふれあいを提案してみたが、まさかストレスの原因が当の子どもたちに関わることだったとは予想外だと、ホワイト医師は自身の思慮の浅さを恥じた。


「当たってごめん。そうね、仕事が落ち着いたら、四人でご飯を食べることにしましょう」

 アキハマはホワイト医師の背中を叩いてウィンクをした。

「ありがと。やっぱり馬が合う。あなたみたいなまじめな人、好きよ。まあ、あの子たちには負けるけど」


「からかわないでくれ」


「ほほほ、どうかしらねえ? さ、お仕事お仕事」

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