訳あり龍皇に白き虎 ~池で水浴びをしていたおっさん、聖女になる~
魚野れん
上 ひとりぼっちの白虎獣人、龍と出会いて……
龍を見たのは初めてだったが、目の前の存在は特に素晴らしいものだと本能が訴えている。そのままずっと眺めていたいくらいだ。
だが、今はそれに感動している場合ではない。なぜなら俊熙は水浴びの真っ只中だからだ。雌ではないし、別に見られて困るような肉体もしていない。だからといって、誰かに見せて喜ぶ趣味もなかった。
「ど…………どちら、さん?」
視界の端に水浴び中でかさの減ったみすぼらしい姿の白虎獣人が池の表面に映っている。目の前の存在と同じ空間にいてはいけないような気持ちになった俊熙は、池に身を沈めた。
水が揺れるのに合わせて体毛がふよふよと踊る。優しく引っ張るようなそれが俊熙の動揺を宥めようとするかのようだ。
相手も俺に驚いているのだろう。しばらくの沈黙の後、大きな口が開いた――が、その口から吐き出された言葉は俊熙の求めているものとは違った。
「それはこちらの台詞だ。ここは私の池なのでな。……お前が先に名乗るべきだ」
池に立て札などは見当たらない。ならば、ここは誰のものでもないはずだ。俊熙はそう言ってやりたかったが、相手は龍である。そんなことをしようものなら丸呑みにされておしまいだ。
それに、龍が“自分のものだ”と言うのならば、きっと本当に
絶対的強者との遭遇に我を出す気すら起きない。生前、師匠も言っていた。龍にだけは逆らうな、と。
この世界で、龍は特別な存在だ。
龍は、この世界の理そのものだとも言われている。この龍が何を司っているのかは分からないが、少なくとも俊熙が生きていられるのは、龍たちが世界を維持してくれているおかげらしい。天候やら何やら様々な事象に関わっているのが龍だと師匠に教えられた。
そんな強大な力を持つ龍に、俊熙が立ち向かったところで、お手玉のように扱われて潰されるだけだ。たとえ、この世界で強者の方に分類されるであろう白虎であっても、龍からしてみれば子猫のようなものだろう。
それ以外にも理由はある。龍であるという時点で皇族筋の誰かだからだ。能力的にも優れ、更に権力もある。龍は残虐な性質を持たないと師匠から教えられたものの、彼が逆らうなと言うのならば、そうなのだろう。
それに、俊熙のような、誰の子とも分からぬ――それもずっと山奥で誰とも交流せずに生きている獣人が近づける相手ではない。これは異常事態なのだ。
異常事態ということは、何が起きるか分からないということだ。つまり、下手をすれば死が待っている――可能性だってある。身寄りのない身であるからして、もはや誰かが心配するから、だとか誰かが悲しむから、などという理由はないが、まだ死にたくはない。
俊熙は四十を過ぎたところなのだ。もう少し人生を楽しんだってバチは当たるまい。
そんなことを高速で考えた末、ここは誘導されるがまま、柔軟に動こうと決めた。
「
「…………ずっと?」
「そうだ。だから、この池が誰かのものなんて知らなかった……申し訳ない」
俺は頭を下げ、忠誠の礼をとる。水中での礼は全く様にならないが、致し方ない。全裸で歩き回る方が不敬だろうし。
「…………
「御意」
梓豪……聞いたことがある。師匠から聞いたに違いないが、師匠は死んでしまった。今さら皇家の誰だとも聞けず、俺は背を向けた龍を確認して池から上がるのだった。
「騙された!」
「………………騙してはいないが」
文句を言う俊熙に対し、梓豪は否定した。だが、騙すような真似をした自覚があるのだろう。梓豪はすうっと視線を横に移動させて俊熙から逃げた。
これまでの短い時間で、梓豪が理不尽な扱いをするつもりがないのだと覚った俊熙は、遠慮なく彼の美しい顔をじいっと見つめた。
龍の姿から転身して人型を取った彼は、やはり龍の身にふさわしい体躯をしていた。もともと身長の高い俊熙よりも更にまた、頭一つ分よりも高い。
目の前で居心地悪そうに視線を逸らし続ける長身の雄。美しい芸術品のようなそれを、俊熙はじっくりと観察した。
龍だった時の鱗の色と同じく不思議な色の髪を長く伸ばし、ゆるりと上半分をまとめている。結っていない部分、艶のある長髪は後ろへと流されており、さながら清流のようだ。
絹で作られた着物も見事だし、まとめた髪を整えている布地の織りだって、素人目にも上級品だと分かる。
芸術品が芸術品と組み合わさって、これ以上ない値打ち品となっていた。
俺は、どうして突然こんな上級品観賞する権利を与えられたんだ? ――いや、この権利は当然だ。なんたって、俺はどうやら
「で? どういうことか、いい加減に説明してくれるんだろうな」
俊熙は池を出てからの流れを振り返る。池を出て身だしなみを整えていると、俊熙は急に囲まれた。近衛が到着したらしい。物騒な人々に囲まれて落ち着かない気持ちだったが、師匠の名を聞かれて答えると、なぜか待遇が良くなった。
形式的なものだから、と言ってくる梓豪を信じて『禁池に無断で侵入した』として連行された俊熙は、宮廷に着くなり「聖女様」と呼ばれて目を剥いた。
聖女とは、皇帝の番の敬称だ。どういうことかと振り返れば、梓豪が「私が皇帝だ。未来の妻よ」と龍の姿のまま宣った。
そのまま、説明なくあれよこれよと世話をされることになった。俊熙はよく耐えた。――他者との交流が滅多になかったからこそ、緊張で大人しくしていただけだったが。
そうして全身をくまなく洗われ、丁寧に毛並みを整えられ、高そうな服を着付けられた俊熙は、ようやく梓豪と合流できたというわけだ。
今、理由を聞かねばいつ聞くのだ。俊熙は、自分の今後を左右するであろう相手の言葉を待った。
「……一般常識は師から学んだのだろう?」
「そうだ」
探るかのような問いかけに、俊熙は短く答える。これが自分が聖女にさせられそうになっている理由ではないだろう。
「ならば、大臣の名は分からなくとも、さすがに龍皇が禁池にて聖女を見初めるという話は知っているだろう?」
「あー、確かにそんな話があったような……? で、俺がうっかり
ふざけたつもりだった。俊熙は、これを「好みの異性を見つける為の方便」だと思っていたからだ。
「その通りだ。おまえ、私の妻になれ」
「はぁっ!? 俺、いい年したおっさんなんだけど!? っていうか、あんたも雄でしょうが!」
だが、俊熙の読みは悪い方で当たっていた。まさか、この龍男色なのか……! 俊熙は、思わず警戒した。警戒したところで、圧倒的弱者である俊熙がかなう相手ではない。
それでも、他者とそういう関係になることを生まれてこの方意識したことのなかった俊熙からすれば、どんな形であれ――それが異性間だろうが同性間だろうが――突然役割を押し付けてくるような相手の提案は歓迎できるものではなかった。
俊煕は思わずぐるる、と喉を鳴らした。その様子に彼が本気で嫌がっているのだと理解したらしい梓豪が両手を上げて負けを表現する。
梓豪の揺れる袖から心地よい香りが鼻孔をくすぐってきて、俊煕は自分の気分が和らいでいくのを感じた。っていや、和んでどうする。
俊熙は軽く頭を振った……が、やはり好みの香りが漂ってきて思考が和らいでいく。
「すまない。私の都合を先に話すべきだった。とりあえず、ここに座って話をしよう」
俊煕が好い香りに誘われるようにして椅子に腰掛けると、美しい龍は己の事情について、細かく語り始めた。
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