第4話 摩耶とふたりで……

 家に帰ったときには七時近くなっていた。まったく、平穏無事を日々のモットーとする僕にはあるまじき一日だ。でも、僕と石動家が無関係とわかり、ようやくこの騒動から解放された気分だ。それにしてもだれが僕を石動家に誘いこんだのだ? 手紙の主を見つけたら絶対一言文句を言ってやらなくては。

 けれども、僕はあることに気づく。生徒手帳が見当たらないのだ。休日に外出するときはいつもリュック脇のポケットに入れておくのだけど、落ちてしまったようだ。火曜日に持ち物検査があるのに、どこを探しても見当たらない。

 その時着信音が鳴り、スマホには見慣れない電話番号が表示されている。

「こんばんは。私、石動摩耶。あなたが落とした生徒手帳を持っているんだけど。明日の夕方にでも会えない?」

 どうやら石動家で落としてしまったらしい。僕は摩耶に感謝しつつも、彼女と再び接点を持つことに若干のためらいを覚えた。郵送してくれればいいけど、それだと持ち物検査に間に合わないか。

 結局会うことになり、かもめ台駅で待ち合わせることになった。僕の家とは逆方向になるけど、生徒手帳を届けてもらう手前、文句は言えない。

 彼女が通う海鴎高校と、僕が通う緑風館高校は大きな川を隔てたところにある。偏差値は同じぐらいで、進学する際はみんな両方の学校を検討するが「橋向こう」に行く生徒は少ない。川が国境みたいな感じなのだ。

「じゃ、明日かもめ台駅で待っててね」

 摩耶の声は淡々としながらもどこか楽し気で、僕に会うのは嫌でないみたいだった。僕は妹意外の女子にあまり免疫がなく、もし石動摩耶にあったら何を話そうとかお茶でも飲んだ方がいいのかとか余計なことばかり考えてしまった。電話が切れたあとも、摩耶の声が耳に残り、僕の心は浮足立った。


 駅のベンチに座ってぼんやりしていると、学ランとブレザーのカップルが楽しそうに通り過ぎた。本当なら僕も誰かと二人で放課後デートをしている予定だった。それがどうしてこんな吹きっさらしの場所で、石動さんを待つ羽目になったのか。

 かもめ台駅は割り箸を無造作に組み合わせたようなデザインが特徴で、駅の掲示板には「無駄を楽しもう」という大学の演劇部のポスターが貼られている。無駄を愛せるなんて豊かな証拠だ。

「待った?」

 石動摩耶は額でそろえた髪をなびかせ、薄い表情で僕をじっと見ていた。指先も首筋も白く日本人形のようで、和服でも着せたら似合いそうだ。何を考えているのか読み取れないけど、少なくとも僕と会えたことを心から嬉しがっているようには見えなかった。

 スマホをポケットにしまい、摩耶に昨日の礼と詫びをした。突然家に押しかけて迷惑でなかったかと聞くと、表情を変えずに「全然」と彼女は答える。

 会話の糸口が掴めず、とりあえず服装について尋ねてみた。海鴎高校の女子はブレザーを着ていたが、摩耶はなぜかセーラー服だ。学校に叛逆していて、その意思表明なのだろうか。

「うちの女子は、セーラーでもブレザーでもどちらを着てもいいの。私はセーラー派。一応自由な校風ってことになってるから。実際はそんなに自由じゃないけど」

 僕の視線に彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、照れ隠しに髪を何度かかきわけた。相変わらず会話は途切れ途切れだったけど、気まずい空気はなくなっていた。

 摩耶は僕の生徒手帳をぱらぱらとめくり始める。人の手帳を勝手に読むのはどうかと思う。だけど彼女と会うのはきっとこれが最後だから、我慢しよう。

「藤原浩介君、緑風館高校二年生。顔は普通。成績も普通」

 手帳は校則と校歌が載っている以外、ほぼ白紙だ。摩耶は生徒手帳に書いていないことまで読み上げている。

「藤原君て普通を絵にかいたような男の子だね」

「いいじゃないか。望んでそういう生き方を目指してるんだ」

「きょうだいはいる?」

 雛乃のことなら何でも話せる。あまりべらべら話すと本人に怒られそうだからもちろん自重するけど、弁論大会で賞をもらった話とか、成績も学年でトップクラスであるなどの話を次々とした。そんな僕の話を摩耶はいつになく真剣に聞いている。なんだか僕より、妹に興味があるみたいだ。

「すごいんだね、雛乃さんて。一度会ってみたい気がする」

 雛乃ぐらい社交的なら、摩耶と話しても場がもつかもしれない。今度摩耶と会う機会があったら、雛乃を一緒に連れてくることにしよう。

 僕が「雛乃に伝えておくよ」と言うと、摩耶は体中にきらきら星をつけて喜びを表した。でも思い直したようにこう言った。

「でも私は藤原君に憎まれてるわけだし、もしかすると雛乃さんも私を嫌いかもしれない」

「雛乃はそう簡単に人を嫌いになったりはしないよ。結構誰とでも仲良くするタイプだしね」

 彼女の顔がさっとさくら色に変わり、これまでの不愛想な態度が一変して上機嫌だった。「はい、生徒手帳。なくさないようにね」

 手帳を受け取るとき摩耶の手が触れ、彼女にも体温があるんだなと当たり前のことに驚く。僕の中でようやく石動摩耶という人間が、実体を持って浮かび上がってきた。お人形さんではなかったのだ。

「ああ、今日は久しぶりに幸せな気分。家に帰ってビールでも飲もうかな」

 彼女が元気になったのが僕に会ったからなのか、雛乃に会えるかもしれないからかはわからない。でもビールにはまだ早いだろう、お酒は二十歳になってから。

「今日は会えてよかった。藤原君はもう私と二度と会いたくない?」

 僕が首を横に振ると摩耶は切れ長の目を細めた。まるで猫が撫でられているときのような表情だ。

「でも心の奥底で私が憎くて殺したいと思ってるんじゃない?」

 あれはでたらめを言っただけだ。僕は人をそれほど憎んだことなんてないし、これからもきっとそうだ。だから摩耶を殺したいなんて微塵も思っていない。

「もし、その理由を私が知っていたらどうする?」

 挑戦的な言葉を僕に投げつける。知っているも何も、口からでまかせなのだから知りようがないだろう。でも彼女がどんなことを言い出すのか気になってしまう。

「僕と君は昨日初めて会ったんだから、憎む理由も何もないよ。そうだろう?」

 僕の言葉に摩耶の顔から笑みが消える。そして悲し気な調子で、

「そうだね。昨日が初めてだったものね……。あはは」

 天を仰いでそう言った。

「じゃ、藤原君さようなら。ぜひ今度雛乃さんに会わせてね」

 僕は摩耶が横断歩道を渡って角を曲がるまで見送った。「殺したいほど憎んでいる理由」なんて僕にはないけど、あんまり彼女がそのことを言うものだから、家に帰ってからも考えてしまった。結局僕の十六年の人生で、人を憎んだことなんてないという結論になり自分でもほっとした。でも実はそれがあったとしたらどうする。憎んで、殺すのだろうか。

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