水色のブレザー、真っ白なワイシャツと赤いリボン。

　それらを身につけた彼女は、眠気を残した切れ長の目をこすった。

　鏡の前で短い黒髪をハーフアップにする。鏡の中の自分と目が合うと、赤茶色の瞳を伏せた。

「おはよう、アルト」

「おはよ、ばぁちゃん」

　焼き立てのパンの香りをまとった祖母。彼女はオレンジのエプロンにチェックのバンダナを頭に巻いている。

　笑顔で声をかけた祖母────律子（りつこ）に対し、アルトは表情をピクリとも動かさずに返す。

　律子は気を悪くした様子もなく、目を細める。

「今日は早いんだね」

「うん、始業式だから」

　無表情のわりに心を開いている優しい声。アルトは足元に置いたスクールバッグを持ち上げた。

「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい、気をつけていくんだよ」

　麗音（れいおん）アルト。それが彼女の名前。パン屋を営む祖父母と一緒に暮らしている。

　アルトは幼い時に両親を惨殺され、笑うことも泣くこともなくなってしまった。

　そのせいで＂ポーカーフェイス＂と揶揄され、周りの人間に敬遠されがちだ。

　だが感情はいっぱいいっぱいで。常に何かを考えていた。今日は苦手な体育があって憂鬱とか、進路のこととか、苦手な同級生はどうしようとか。

　────苦手な同級生。華（はな）という、いつも笑顔を浮かべている少女。桃色の可愛らしい髪を持ち、アルトとは何もかも正反対だ。

　ぽつんとしているアルトに話しかけたり、班作りで余っている時に誘ったり。そんな華のことをアルトはうっとおしく感じていた。

　一人でいたいからそうしているだけ。班作りで余るくらいなら学校行事に参加しなくてもいい。

　潔いというか独りよがりというか。そういう行動を担任から嗜められても変わる気はなかった。

『四月から三年生だろ。中学生活最後の一年だ。友だちと思い出を作るラストチャンスだぞ』

　その教師は叔母の同級生で川添（かわぞえ）と言う。アルトのことを何かと気にかけていた。ちなみに二年連続で担任だったりする。担当科目は理科。

　今年の担任は誰だろうか。川添は＂俺は進路関係に強いから来年もお前たちの学年の担任になる可能性が高い＂と言っていた。

　今日も一人で登校したアルトは、にぎやかな校門をスタスタと通り過ぎた。

　クラスの振り分け表が張り出された昇降口の外。そこには一喜一憂する新三年生たちで人だかりができている。

　自分の名前を探そうと群れに近づくと肩を叩かれた。

「アルト、おはよう」

　振り向くと随分身長の高い女子がニコニコしていた。その後ろにはこれまた負けじと長身の男子が歯を見せた。

　女子の方は長い茶髪を一つにまとめ、耳の上で高くむすんでいる。男子の方は短くストレートな黒髪で、太い黒縁メガネをかけていた。よく見ると彼らの髪はほんのり緑がかっている。

　アルトはしばし無言で対峙した後、首を曲げた。

「あ……。誰」

「あたし！ ハルヒ！ 幼稚園の頃に一緒だったの覚えてない？」

「俺はミカゲ。この春に転入したんだ。久しぶりだな」

『アルト！ あーそぼ！！』

『ハルヒ、アルトはバスのじかんだっていってるだろ。またあしたにしろ』

『じゃああたしもバスでかえる！』

『オレたちはむかえがくるじゃん』

　思い出すのは幼稚園に通っていた頃。幼いながらも顔立ちがはっきりとしていて、かわいくてかっこいい同級生。二人は髪色も雰囲気も違うが、顔のパーツがいくつか似ている。

「双子の……」

「そうそう！ 似てないけど双子の！」

　ハルヒは明るい笑顔でアルトの手を握った。

「本当に久しぶり！ 会いたかったんだよ……！」

「何も言えないままお別れだったからな」

　姉の横でミカゲは肩をすくめているが、口角は上がっていた。

「そっか……。そうだったね。私も会えて嬉しい」

「アルト……？」

「ちょっと……驚きすぎちゃったか？」

　声に喜びがにじんでいるが、彼女の表情筋はピクリとも動かない。

　十年ほど前はよく笑い、よく動き回る明るくて元気な女の子だった。そんな彼女はまるで────

「無表情なんだよ、そいつ。ポーカーフェイスってヤツ」

「え……？」

「転入生さんたち、話しかけるだけ無駄だよ」

　割り込んできたのは一人の男子。制服のネクタイを緩め、ジャケットの袖を捲り上げた彼は卑しい笑顔を浮かべていた。

「アルトに再会を喜んでくれる友だちがいるなんて驚きだな～。いっつも一匹狼ぶってるもんな」

「肇（はじめ）……」

　アルトの声が強ばる。不穏な様子にハルヒはだまりこくったが、ミカゲは二人の前に出た。

「おい、肇って言ったか」

「なんだよ……」

　成長期の中学生男子の中でも飛び抜けて長身のミカゲ。彼に凄まれて肇は後ずさった。

「俺らはアルトと親友だ。アルトのことを悪く言うヤツは許さん」

「きっ、気持ち悪いだろ！ 声に表情が伴ってないヤツなんて！」

　肇の強がった怒声に周りがざわつき始めた。こちらを見ながらひそめた声でささやき合っている。

　居心地が悪い。注目されていることが。アルトは頭を押さえるとうつむいた。

　いつもこうだ。肇や華が絡むとロクなことにならない。

「どうしたの！？」

　勇猛果敢にも群れをかき分けたのは桃色の髪の少女。肩を覆う長さの髪を二つに結んでいる。彼女は肩を激しく上下させていた。

「肇、アルト……と、えっと……」

「華、またコイツと同じクラスだぜ。今年こそはポーカーフェイスと関わらずに過ごせよ」

　状況を飲み込めていない華は、肇の言葉に眉を下げた。

　心の底からそう思っているような、悲哀に満ちた目で彼のことを見つめる。

「そんなこと言っちゃダメだよ」

「うっ……」

　今にも泣き出しそうなうるんだ瞳。肇は彼女の発するオーラにあてられて狼狽えた。きまり悪そうに口をへの字に曲げ、ジャケットの袖をそろそろと戻す。

　救世主である女神の登場に周りが沸き立つ。この場にいる誰もが胸を撫で下ろしたようだ。

「お前はアルトに優しくしてんのにコイツは無視するじゃん……。どうせ今年もそうなるよ。華はそれでいいの？」

　肇は不貞腐れた子どものような声で足元を睨んだ。

　華は微笑むと何度もうなずき、アルトに顔を向ける。

「いつかアルトと仲良くなれると思ってるの。時間がかかってるだけだよ、私は平気」

　"ね？"と彼女は天使の笑顔を浮かべた。それだけで空気に花が咲いたような。新学期を迎えた彼らを祝うように咲き誇る桜さえ霞むほど。

　ギャラリーたちは尚も優しさに包まれて顔を綻ばせた。

「────は？」

　この場にいるすべての者を凍らすような氷の声。誰もが冷ややかな手で心臓をギュッと掴まれたような気がした。

　それどころか聞いた者の耳を引き裂き、咲き乱れる花々を切り刻む刃のような鋭さを持ち合わせている。

　その声の正体はアルト。華が発する春の暖かさをかき消すように、真冬の凍てつく冷気を呼び戻す。

　冷たい空気とは反対に、彼女の赤茶色の瞳が赤みを増した。

「誰がいつ頼んだ？」

　何も言葉を発さずとも彼女の怒りが伝わるのに、声で殺気をばら撒かれた。

「ミカゲ……」

「あぁ……」

　双子たちはこの数分の間で何度も冷や汗が噴き出すのを感じた。正直、ホラー物を見るより恐ろしい。

　幼馴染のこんな姿は見たことがない。久しぶりの再会で笑わない彼女にも驚いたが、こんなにも冷酷に成長しているとは思わなかった。

　華は誰もが恐れるアルトに屈さず胸の前で手を組む。花からこぼれた朝露のような涙が頬を伝い落ちた。

「アルト！ ひとりぼっちはやっぱり寂しいよ！ いつも悲しそうな顔をしているのはそのせいでしょう？」

「悲しい顔……？ ポーカーフェイスがどうやって悲しむって言うの？」

「笑えないからこそ、だよ。笑えないのは悲しいからでしょう？」

　アルトは頬をさわった。何年も働かせていない表情筋。

　封印されているのだ、自分の表情は。もはや動かし方が分からない。

　幼い頃は無邪気に笑っていたなんて信じられない。祖父母にアルバムを見せられても、知らない誰かの思い出をのぞいているようにしか思えなかった。

　うつむいて黙ったままのアルトに、華は涙を拭いて笑いかけた。アルトに近づいて頬を包み込もうとしたがパシン、と乾いた音が響く。

　アルトが手を払いのけたのだ。静かに見守っていたギャラリーも思わず息を呑んだ。

　顔を上げたアルトは相変わらず無表情だが怒気をまとっている。風に吹かれた髪は怒りで浮いたよう。

　その瞬間、小さくなっていた肇が拳を握ってアルトの前に立ちはだかった。

　怒りを込めた息を吐き、歯を剥き出しにしても彼女は動じない。いつもと変わらない顔で肇を見上げた。

　気づくとアルトが地面に転がっていた。前髪が目元で乱れ、頬が赤くなっている。ハルヒは口元を手で押さえると息をのんだ。

「アルト！」

「アルト……。てめっ、はじめぇ！！」

　アルトが殴られたことにより、大半の女子が悲鳴をあげて群れから離れ始めた。男子たちも声にならない声を上げ、一部は職員室へ駆け出した。

　ミカゲは肇の胸ぐらを掴み、ハルヒはアルトが身を起こすのを手伝った。

　瞳を震わせていた華も手伝おうとしたが、その必要はなくなった。

「大丈夫……じゃなさそうだね」

　声変わりをした男子にしては高めで柔らかい声。頬を押さえるアルトのことを、声の主は軽々と持ち上げた。

　新たな登場人物にギャラリーは沸き立ったが、彼の一言によって静まった。

「ごめん、通してくれないかな」

「タイム……！ どういうつもりだよ」

　ギャラリーが左右に分かれて道ができ、その前で彼は振り向いた。

　黄色がかった茶色の猫っ毛、綺麗な二重の瞳。彼は丸目を優しく細め、腕の中のアルトを見つめる。

「人助け、かな」

「そいつは助ける価値ないだろ！」

「殴った人が言うこと？」

　顔は優しいが声は怒りを抑えているようだ。肇が何も言わなさそうだと判断すると、華のことを見下ろした。

「華。きっとアルトも言いすぎた、って思ってるよ。ごめんね」

　申し訳なさそうにタイムは眉を落としたが、華は赤い目で首を振った。

「分かってる。アルトは本当は優しい女の子だって分かるの」

　華の微笑みにタイムは目を細め、うなずいた。

　双子はタイムとアルトの後を追っていた。

　タイムは校舎に入っていく生徒が多い中、彼らに背を向けて歩いていく。周りに不思議そうな視線を向けられても堂々と。

　そして校門にたどり着くと、ためらいなく門をくぐった。

「あのタイム？ って人、出てっちゃうぞ！？」

「てかアルトとどういう関係！？ イケメンのお姫様抱っこうらやましい……」

「お前は何を言ってんだ」

「君たち」

　小声で言い合っていると前から話しかけられた。ビクッとして顔を上げると、タイムがこちらを見ていた。

「アルトを家まで送るけど……。一緒に来る？」

　返事は確認するまでもない。二人は校舎を背に駆け出した。

『アルト。一回家に帰ろうか』

『た、タイム！？』

『ほっぺた腫れてるよ』

　アルトはタイムの腕の中で揺られながらドギマギしていた。

　何を隠そう、彼は初恋の相手なのだから。

　引っ越した先の保育園で出会った時から好きだった。同じ小学校に通い、中学校も同じで嬉しかった。

　他の男子よりもかっこいいからとか、パーフェクト人間と呼ばれるほど誰よりも勉強やスポーツができるからとか、ではない。

　笑った顔と声に惹かれた。アルトにはない柔らかな笑顔。向けられるだけで、優しい日差しのもとでお昼寝をしているような幸福感に包まれる。

　柔らかく優しい声はくすぐったい。聞こえる距離が近ければ近いほど。ボリュームが小さければ小さいほど。

　ふれるたびに鼓動が飛び跳ねるだけでなく、懐かしさと安心感を覚えた。

　彼からの"一人なら一緒に組む？ 俺も余っちゃった"という、アルトを誘う言葉は嫌じゃなかった。

　やがて自宅が見えてきた。外にたてかけられている木の看板には"ベーカリーREION"と書かれている。

「いらっしゃ────アルト？ タイム君？」

　控えめな鈴の音と共に開かれたドア。同時に焼きたてのパンの香りに包まれる。

　小さな店内には数種類の菓子パンや総菜パン、食パンが陳列されていた。

　ミカゲがドアを押さえると、タイムはアルトのことを立たせた。前に出ると律子に向かって会釈をする。

「すみません。アルトがケガをしてしまって。お家の方が近かったので連れてきました」

「まぁ大変……。ありがとうね。大丈夫なの？」

　タイムは学校での騒動でのことは話さなかった。

　ミカゲとハルヒは初めて入った店を珍しそうに見回している。

「見ない顔ねぇ？ アルトのことを送ってくれたの？」

　律子は双子たちに笑いかけた。二人はタイムにならい、そろって頭をペコッと下げる。

「は、はい！ はじめまして！」

「俺たち、春休みの間に引っ越してきたんです」

「二人は私が幼稚園に通っていた時の友だちなんだ」

「あら、そうなの！ よかったわねぇ。これからもアルトのことをよろしくね」

　二人は顔を見合わせてはにかんだ。子どものように嬉しそうな顔はそっくりだ。　

　アルトはパン生地をこねている祖父、弦二郎（げんじろう）に見守られながら律子に湿布を貼ってもらった。幸い痛みは引いていた。

　タオルに包んだ保冷剤を頬に当て、アルトたちは二階のリビングへ上がった。

　リビングのソファに腰かけると、アルトは目の前の三人に頭を下げた。

「新学期早々、変なことに巻き込んでごめん……。二人は転校初日なのに……」

「びっくりはしたけど……。アルトも色々あったんだろ」

　ミカゲの気遣う声にアルトは俯く。

　自分は優しくされるような立場ではない。あの場で明らかに悪者だったから。

　何も答えられずにいると、ハルヒが明るい声を上げた。

「そんなことよりさ！ アルトのお家ってパン屋さんなんだね！ うらやましいなぁ」

「よかったらそのパン屋のパン、食べてみない？ 焼き立てよ」

「食べたーい！」

　律子がお盆にマグカップと、紙袋に入ったメロンパンをのせて現れた。ハルヒの反応に顔に皺を刻んだ。

　それぞれの前に置くと、お盆を胸に抱いて口を開いた。

「ウチはね、かつて刀鍛冶の一族だったそうなの。廃刀令によって生活用品専門になるんだけど、戦後にパン屋を始めて私たちが二代目なの」

「えー！？ 廃刀令ってことは……明治時代から！？」

「アルトって実はお嬢様なのか……」

「違うわよぉ。今は普通のお家。土地も何も持ってないわよ」

　律子はそれだけ話すと、”そろそろあんぱんが焼き上がるから”と厨房へ下りていった。

　その後ろ姿を見送ると、ミカゲがぽつりとつぶやく。

「おばあちゃん……早く学校に戻りなさいどころか、パンとココアくれたな」

「昔からそう。私が強制的に入らされた部活をサボっても何も言わなかったもん」

　アルトは頬の痛みが引いてきたのか、痛がる様子もなくメロンパンをかじった。