卒業論文

佐原マカ

卒業論文

「大谷さんはすごいねぇ、もう卒論ほとんど完成してるじゃん」


 胸を張りながら、アイドルが描かれた少し汚れたシャツを着て、眼鏡をかけた川村さんが、噯気あいきをしながら私の席に近づいてくる。


 その圧に一瞬、気圧けおされ、体にまとわりつく裏起毛の感触を急に意識させられるような感覚に陥るがこの実習室は、そもそもとても暑い。


「なんでそんなに進んでるんですか、やっぱり真面目だから?」と川村さんが笑った瞬間、胸の中で何かが散り、音を立てた気がした。その音を無視するように、私はさらに笑顔を大きくする。


 私はまだ何も話していない。仕方のないことなのかもしれない。ただ、距離が近すぎるし、口が臭い。嫌な気持ちを伝えるには言葉にしなければならないが、それを君に伝えたところで、きっと届かないだろうと思うと、また口をつぐんでしまう。


 前頭葉の奥に大量にタイピングされたテキスト群がこびりついているようで、こそばゆい感覚に苛まれる。夜、自室で炊く金木犀のお香の香りを思い出しながら、何かを吐き出すように深呼吸をすると、その香りが自分の中のどろどろしたものを薄めていくような錯覚に囚われた。そして、また無意味な言葉を空気中に放つ。


「いや、多分川村さんの卒論の内容より簡単だからだと思うよ」


 そう言いながら、私は川村さんが本当にそれをどう受け取るのかには興味がなかった。ただ、こう言えば満足するだろうという言葉を選んだだけだった。


 声を発したので、椅子も揺れる。最近届いた、座り心地を重視した高価なゲーミングチェア。しかし、実習室にある机とは相性が悪く、首を傾けたり体を揺らすたびに、腰、肩、首に嫌な重さがじわりと蓄積していく。


 一瞬、この椅子を蹴り飛ばしたい衝動に駆られたが、その光景を想像したら、自分の蹴りが思ったより軽々しい様子や、同じ研究室の人たちの冷めた目線が脳裏をよぎる。気づけば、黄色い線の内側で踏みとどまり、平静を取り戻していた。


 隣の席では、院生が窓を開けてiQOSを吸っている。その独特の匂いがふわりと漂い、私の意識は外へと引っ張られそうになる。そうやってぼんやりしていると、その視界の端で、川村さんが金魚のようにパクパクと口を動かしているのが見えた。そういえば、昔飼っていた金魚に似ているな、なんて思いながら眺めていると、会話をしていたらしいことを思い出した。


 私はまた、場の雰囲気からどうとでも受け取れるような言葉を放った。それを聞いて、みんなで心地よい雰囲気に包まれた。


 この場が無事に成立した瞬間だった。「よかったね、よかったね」と心の中でつぶやきながら、一つの思い出が増えた。心の奥に小さな違和感が芽生えた気がしたが、それをすぐに理性で踏みつけた。私はそういう風にして、いつも自分の中の雑音を消してきたのだ。こうして歳を重ねるたびに、私はみんなから「優しい人」だと思われる。だけど、それは誤解なんだよって訂正する隙間もなく、ちゃんと我慢がプラス1された。


 「私が優しいのは、君のことなんてどうでもいいからなんだよ」って、卒業式で高らかに叫んでやろう。そんな夢ばかり見る今日この頃、あのときと同じように家の庭にすべてを埋めたくなる。

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卒業論文 佐原マカ @maka90402

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