第17話

81、『 目指すところ 』


 トオルの姿は廃坑の近くにあった。息を切らせ、しかし一歩一歩、坑道に続く道を歩く姿は、彼に知的障害があることを思わせないほど切実に映る。そしてその顔は今、蒼白に見える。時々苦しげに咳さえしている。もしここにマリがいたら、きっと心配して病院に連れて行こうとするだろう。そしてトオルは面映ゆりながら逃げ回るに違いない。それを見て、また麗華と猫ばあさんは笑い転げる。そんな愉快な光景が、トオルの頭の中にふと浮かんで、トオルの口から、優しげな唸り声が漏れ出る。

 トオルの意識には、坑道の入口がぱっかりと口を開いている。トオルの脳裏から先程のイメージは一掃される。寒い。それは気温のせいではなく、坑道の持つ不思議な力に対する、トオルの畏敬と恐怖から来るものだ。なるべくなら、あそこに行きたくはない。あの時もそうだったから…。


 四つ年上の兄は、ほぼ全てにおいて、トオルの手本だった。母が早くに死に、変わり者の父と、家業の自転車店をひたすら真面目に切り盛りしていた。障害を持つ弟の面倒を嫌がることもなく、周囲の者の時折口にする心ない言動にさえ、父を止めることさえあれ、自分が声を荒げることは一度としてなかった。そんな兄の唯一の楽しみは絵を描く事。油絵。いつの頃からか、兄は仕事をしながらボーッとしていたかと思うと、急に二階に駆け上がり、何かが憑いたかのように画筆をふるうようになった。そしてその筆が描き出すのは、きまって暗くも激しい、火山の噴火の絵だった。二階の四畳半の部屋には、そんな兄の描きかけの絵が、いくつも立て懸けてあった。トオルは兄の絵を見ると、いつも圧倒されて言葉を失くした。そして必ずと云っていいほど、後で熱を出した。その兄の絵を、父は執拗に嘲弄した。無理やり止めさせようともした。実際兄は仕事が手につかなくなっていたが、本当のところ、父はそんな兄が怖かったに違いない。トオルはそう思う。

 ある朝、兄はついに家を出た。と云うよりトオルと父が朝目覚めた時、すでに兄の姿はそこになかった。トオルはすぐに兄を探した。そしてふと最後に兄が描いていた絵の中にあった、炭鉱の坑道のことを思い出した。その頃、すでに炭鉱は閉ざされ、火はとっくの昔に消えていた。トオルは父に黙ってそこに行き、果たしてそこで何一つ荷物を持たず、ただその場に佇む兄の姿を見つけた。

「兄ちゃん…」

「来るな」

 思いがけなく兄の声は人が変わったかのように冷たく、尖っていた。「俺はもう、ここにいることはできない」

「…」

「向こうに行くんだ。これから」

 そう言うと、兄は足早に坑道の方に向かって歩き始めた。

「向こう?向こうに何があるんだ?」

「何でもある。そして、何もない」

 程なく二人は地の底に続く坑道の入口に立った。

「どうしてそんなところに行く?」

「もう見てしまったんだ。これから起こりうる全てのことを」

「全て…?」

 兄の足はそう云いつつも、しきりに小さく震えている。トオルは思った。兄は本当のところ、自分に止めてもらいたがっているのかも知れない。そしてそれができるのは今しかない。自分しかいない。

 トオルは兄の身体に取り着いた。そして力いっぱい表の光在る方に引き戻そうとした。兄の身体から一瞬抵抗が抜けた感触があった。トオルは兄の顔を見上げる。するとそれは兄の顔ではなくなっていた。ただ黒く表情が抜けた、目だけが見開かれ、こちらを静かに見据えている顔。その瞬間、トオルの身体から全身の力が抜けた。その場にへたり込むトオル。そしてその姿を見ている真っ黒な数人の男たちと、その間に当然のように並び立っている兄。やがて彼らは一人、また一人と坑道の中に降りていく。まるで自分の家に帰っていくかのように。トオルは兄の背中に、あらん限りの声を掛けようとする。しかし思うように声が出ない。それでもトオルは這い蹲るようにしながら彼らの後について行こうとする。一歩、一歩、そしてまた一歩…。やがてトオルの身体は打って変わってまばゆい光に包まれ始めた。

 眩い。そして身体が溶かされ、周りと綯い交ぜになっていくかのような、切ない恐怖感。嫌だ…。トオルは心の中で絶叫する。自分はまだ死にたくない。自分にはまだやらなければならないことがある。すると遠くの方から光の矢が飛んできて、トオルの額を貫く。

「…では、何処に行きたい?お前をどこか、好きなところに連れて行ってやろう」

 その声は、今まで聞いたこともないような、いや、一度だけ行った小学校の音楽教師のように、優しくトオルに問いかける。

 トオルは解け始めた自分の身体を弄るようにして、自分の希望を探る。やがて気持ちがひとつのところに行き着く。トオルは願う。

「家に、帰りたい…」

 そして次に目が覚めた時、トオルは自宅の座敷に倒れていた。畳の後が頬に付くくらい、彼は人知れずそこでそうしていたらしい。やがて父親がそれを発見し、彼をそのまま蒲団に寝かせた。その夜、彼はいつにない高熱を出した。医者が来て、父親に何やら話をしていた。普段は粗暴な父親も、その医者の前では普通だった。トオルはまた、意識を失った。もうどこも痛くも痒くもなかった。ただ、大きな喪失感が彼をやんわりと包んでいた。その日以来、トオルの兄の姿はこの水穂の町から消えた。町では一時、いくつかの噂が流れては消えていったが、トオルにはもはやそんなことはどうでもよかった。ただトオルはそれ以来、廃坑には決して近づこうとはしなかった。あの眩い光の中に、戻ろうとはしなかった。

 自分がもう後戻りできない、不治の病に冒されていることに気がつくまでは。


 その廃坑に向かって、トオルは一心に歩みを進めている。彼の直感は麗華の置かれた危うい状況を的確に掴んでいる。一時を争う。その意識はトオルをその根底から駆り立てている。今は自らあの眩い光の中に入っていくことも厭わない。いや、トオルはもはや気づいている。自分が何故、あの時あの光に身を任せなかったのかを。

 もう少しだ。急げ。力の限り、息の続く限り、歩き続けるんだ。その先に何かが、自分を待っている。

 すると突然、トオルの前に坑道が現れる。トオルは一瞬の時空を越え、そこにやってきたのだ。坑道がトオルをまさに飲み込まんとでもするかのように、その大口を開けている。そのうちに奥の方からひと筋の光が見え始め、やがて大きな列車のように音を立てて、トオルの正面に押し寄せる。光はあの時と同じようにトオルに問う。お前は何処に行きたいのか、と。トオルは今度こそ自ら前に進み、光の中に身を滑らせていく。光の筋は一瞬彼を貫き、やがてそれもろとも姿を消す。

 その後で、まるで炭鉱夫の力強いつるはしの鳴らす音のような金属音が、辺りに響き渡る。しかしそれを耳にする者はほんの僅かに過ぎない。それは水穂の田畑をかすめ、川を過ぎ、やがて山を越え、消えていく。

 誰かが今、それを鳥の声と思い違いして、空を仰ぐ。もちろんそこには何もない。




82、『 ため息 』


 丸山康雄は屋敷玄関の物音に気がついた。すぐに保安室に入っていた同僚、柄頭(えがしら)光一も顔を出し、

「おい、変な奴が来ているぞ」

 そう無愛想に言った。

 康雄は休んでいた黒皮のソファーからやおら立ち上がる。この屋敷に配属されてもう半年になろうとしているが、どうもこの内勤業務は肌に合わない。ここは広域暴力組織、M会の会長であり、大親分、青島慎一のプライベートハウス。外壁こそある程度の物々しさはあるものの、全体の造りは極めてありふれたもの。ただひとつ違うのは、ここには特注の地下室があるということ。それもかなり広めの。

 康雄は柄頭と共に防犯カメラのモニターを見に行く。なるほど一見して普通ではない男がそこに立っている。そして間断なく、この界隈ではそこだけいささか訳ありな頑丈さの門戸を、その拳で殴打している。

 やれやれ…。康雄はため息をつき、柄頭はポンと康雄の肩を叩いた。

「仕様がねえな」

 康雄は保安室を出た。


 康雄がここの見張り番になるということが決まった時、仲間の数人から挙ってやっかまれた。確かに青島と直々に顔を合わせ、話もする。うまく気に入られたら、組の一つも持たせてもらえるかもしれない。仲間うちではそんな話も出るほど。しかし当の康雄には別段それに対しての感慨はない。むしろ事あるごとに出世の機会を狙うライバルたちの目聡さに、心底興醒めすることの方が多い。そして康雄は思う。自分はつくづく古いタイプのヤクザなのだと。

 最近、ふと脳裏に浮かぶのは故郷の風景だ。S県水穂町。今は隣町に合併されて名前も変わったらしいが。もう随分帰っていない。今も家には父親が一人で暮らしているはずだが、お互いに連絡は途絶えている。自分が今年四十一だから、父親はもうとうに七十半ばを越えているだろう。

 いつから父親との確執が始まったのかは覚えていない。気がつくとその一挙手一投足が癪に障って仕方なくなっていた。家の内と外で露骨に違う物腰。単なる我儘としか思えない母親への理不尽ぶり。そして何より自分を年端の行かない子どもとしかみない、その横柄さ。その全てが鼻に付き、そして実際康雄はそれを内に外にぶつけてきた。そのうち周りが康雄をそれとして見るようになると、康雄の気持ちも尚更揺るがなくなり、それどころか、もっと強く、そして男として大きくなりたいと思うようになった。

 青島との出会いは、まだ康雄が二十歳そこそこのペイペイだった頃。その頃から青島は他の親分衆と一味も二味も違っていた。会長になり、七十七になった今でも、見かけはまだ六十そこそこと云った感じで、何より程良く締まった身体と、その機敏な動きには年齢を感じさせないものがある。出会った頃の青島は、尚更鈍く光るほどの存在感と、そしていざ事に向かう際の歯切れの良さが際立っていた。

 思い出がある。その頃、仲間うちでは身体に墨を入れるのが流行っていて、康雄もそれに対して特に吝かではなかったが、その盛り上がり方にはいささか気持ちの引くところがあった。ある時、組織の仲間の中で向こうっ気だけ突出した男がいて、そいつが康雄に向かって

「おめぇもどうだ、気前よく墨入れてみたら。それとも、親に顔向け出来なくなるか?」

 そうちょっかいを入れてきた。康雄は無視していたが、どうやら相手はそれが癪に障ったのか、顔を合わせる度に何かしら嗾(けしか)けてくるようになった。そしてある組同志の会合の時、その男の親分が、忘年会の座興で入れ墨の品評会をやろうと言い出した。康雄のいるS組は組織の中ではまだまだ力がなく、ここで組長に恥をかかすわけにいかない康雄は、組の先頭に立ち、いよいよ全身に墨を入れることを公言してしまった。その時だ。車停めに向かう康雄の横に、青島がスッと寄ってきて耳打ちした。

「よせよせ。つまらんことで親にもらった身体に傷をつけるもんじゃないぞ」

 隣にいた当時のS組親分も驚いたが、康雄はそれ以上に恐縮した。そして青島は続けて言った。

「丈夫だからこそ、できることもあるからな。その時まで身体は後生大事にしとけ」

 その言葉どおり、康雄は挑発を退け、そしてそれ以前に、相手の組は覚せい剤の一斉取り締まりを受け、大打撃のもと、一気に壊滅の途についてしまった。あとで聞いた話だが、康雄を煽っていた男は結局堅気に戻り、その際に背中の入れ墨が邪魔になると思ったのか、手術で皮を剥いだと云う。そして今、康雄は不思議な気持ちになる。背中に墨を入れた男が堅気に戻り、綺麗な身体のままの自分がまだこの世界で飯を食っている。


 幼馴染みの智香と会ったのは一週間ほど前だ。暮れも押し迫るはずなのにその旅館はがらんとしていて、そこで仲居をしていると云う智香は自分を見て一瞬ぎょっとした顔になった。だがどうやら相手が幼馴染みと気づいた訳では無さそうで、しばしお互いに睨み合う格好となった。

「よくここが…」

「蛇の道はヘビって云うじゃないか。しかし手間はかかった」

「何の用ですか、仕事中なんですけど」

「その割には暇そうじゃないか」康雄は冷たく返した。相手を見る。随分印象は変わっているが確かに智香だ。考えてみれば今まで気づかなかったのがおかしいくらいだ。水穂町、地元の女、年齢…。探る要素は他にいくらでもあったはずなのに。四十を過ぎてから自分の極道としての嗅覚に衰えを感じる。それは所謂シノギにおいてだけではなく、場合によっては生死にも関わるのだが…。

「あの人はどうなったの?」

「掴まえたよ」

 そう応えたが半分は嘘だ。真下は会長からの指示で自ら投降してきた。詳しくは知らないが後の事も既に話が出来上がっているようだ。会長からはただ「女と子どもを連れてこい」と言われただけだった。

 以前もそう云うことはあった。会長は何故か子ども絡みの事になると直々に指示を出した。そして自分が立ち上げた西海学園で早々に面倒を見るのだ。おそらく今回もそうなるだろう。だが…。

 康雄は人知れず息を飲む。母親、つまり智香の出方次第では会長はその親を亡き者にすることも厭わない。

「浮世のゴミを始末するのも自分たちの仕事だろう」

 非情にそう言い放つだろう。そしてそれは自分の身内についても同様な事は先ごろのS組人事改編を見れば明白だ。あれほど業界全体からもやり手として名を上げつつあった加藤を一言の元にその役から降ろし、人畜無害の学園運営のポストに追いやった。そして加藤も蒼白な表情を浮かべながらもそれに異は唱えなかった。つまり善悪は別にして、青木の組織における力はまだまだ盤石の態と云って差し支えないと思う。

「私は真下の件には無関係よ。あんたら極道にとやかく言われる筋合いはないわ」

 智香は幾分すれた言い方をした。良くない兆候だ。会長はこの手の物言いを一番嫌う。そう思った時康雄は大きく咳き込んだ。この部屋は冷える。暖房も入っていないようだ。自分の身体が微熱を纏っているのが分かる。

「上の者がお前たち親子の面倒を見る用意がある」

「どう云う事?」

「決まっているだろう。代わりに真下の借金をあんたが払うんだよ」

「何で私が…」

「真下がどうなってもいいのか?」

「どうなるって云うの?」

「奴は組の金に手をつけた。株だ。随分荒稼ぎして一時は組もその恩恵に与っていた。しかし所詮は素人、損切りができなかった。最後は使い込みだ」

「それで組は真下を消そうとしてるのね」

「ところがそう話は単純じゃない。組は常に金づるを探している。奴が落とし前をつけるんなら今度の不始末は目を瞑ってもいいとまで言っている」

「落とし前?」

「そう、それがつまりお前たちのことだ」

 そこで康雄は襟元に忍ばせている盗聴マイクをオフにする。一時の事だ。ごまかしは利くだろう。咄嗟の判断だった。

「智香。時間がない。俺を覚えているか?」

 そう言うと智香は怪訝そうに表情を変え、そして間もなく口を押さえる。

「丸山君?あんた丸山君なの?」

「声が大きい。下に仲間もいるんだ。いいか、真下の事は一旦忘れろ。今問題なのはお前たち親子のことだ。真下は自分が助かる為にお前たちを組に売った。そしてそのことがM会会長にまで知れてしまったんだ」

「それってどう云うこと?」

「S組はお前を風俗で働かせて、娘には別の使い道を考えていた。要は児童ポルノだ」

「そんなバカな…」

「それが今の極道だ」康雄は言った。「しかし安心しろ。会長が知った以上は組の連中も勝手な真似できない。だが」

「だが?」

「その代わりお前に逃げ道はない。死ぬまで風俗行きだ。会長もおそらくその事には口は挟まんだろう。つまりお前の選択肢はないんだよ」

「冗談じゃない」智香は小さく言い放つ。「丸山君、何か他に手はないの?後生だから私を助けてよ。私はただの部外者だよ。男と逃げただけなのに」

「だからこうして話をしてる」

 康雄は応えながら思う。これが本当にあの近藤智香か。田舎町で『中国人』と囃されながら、それでも家族とつつましく生きていた彼女は既に半分極道に身を染めつつあった自分にとって何故かとても清廉に思えた。いや、今もその面影はある。それが…。「いいか、後に残されている手は一つだけだ。自分の身代わりを用意するんだ。そして子どもと一緒にS組に明け渡すんだ」

「身代わりって、そんなのすぐにバレるわよ」

「知り合いの医者がその手のことに長けている。もともと風俗にいた女を使うこともできる。連中は金になるなら顔くらい幾らでもいじらせる」

「丸山君…」不意に智香が名前を呼ぶ。康雄は一瞬その目に自分が映った気がする。「あんた、本当に極道なんだね」

「何を、今更」

 そう応えながらも康雄は心中穏やかではない。何故だ。自分でもよく分からない。

「とにかく今は子どもは諦めろ。悪いようにはしない。上手くいけば学校にも通わせてもらえる」

「そんなこと…」智香は低く嗤う。「もうどうでもいいわ。それに」

「何だ?」

「私にも考えがある」

 康雄はその智香の顔を美しいと感じた。


 玄関に続く敷石を踏み越えながら康雄は思う。自分は本当にこの世界に向いているのだろうか?最近そんなことばかりを考えている。年のせいかもしれないが、このところ身体の調子も良くない。大したことはやってないのに疲ればかりが残る。もしかしたら…。ふとそんなことまでが頭を過る。予感と云ってもいいかもしれない。俺にはもう、あまり残された時間はないのかも。その時一瞬智香の顔が浮かんだ。

しかし、それならそれでいい。この世界に一旦足を踏み入れた人間として、考えてみれば当たり前のこと。そしてそれがここ、青島の屋敷であるならば尚更、この上ない本望ではないか。

 康雄は門戸の前に立ち、通用口に回ると一応の用心をしつつ、その扉を開けた。

「あれ?」

 確かにさっきまで、あの奇妙な風体の男が立っていた。ふらふら身体を揺らしながら、しきりに戸を叩く男。そう云えばあの男、どこかで見たような気がする。

 その時だった。母屋の方から柄頭の声が上がった。

「しまった」

 瞬間、康雄の身体は異常を察知し踵を返して駆け始めた。

今、青島会長は…、地下室だ。ゆうべから例の子どもの面倒を一人で見ている。

康雄はその入口の方に、即座に進路を定め直した。




83、『 厄介 』


 柄頭は眼前で起こった光景に、思わず目をしばたたせた。同僚の丸山が出ていった後、ふと背後に気配を感じ振り返ると、そこにゆらゆらとねじ曲がる白と黒の空間の渦があった。

「何?」

 そう思うが早いか、その渦は瞬く間に形を取り始め、そしてその男が現れた。気が付いた時は遅かった。柄頭はその男に首根っこを掴まれ、締め上げられていた。

 妙だった。確かに相手は自分の背丈を越える大男ではあるものの、所詮は見るからに素人、一人でもどうにでも対処できるはず。しかしそれができない。何か、別のものをこの男からは感じる。例えるならば熱の集合体、または圧倒的な意思の力…。

 ヤバい…。柄頭は覚悟する。この男は厄介だ。それにしても丸山はどうした?そろそろやってきてもいい頃だ。それともすでにやられたのか?意識が遠のいていく。昔、まだ学生だった頃、何かにつけて喧嘩をし、思いがけなく相手にイイやつをもらった時の気分だ。ああ、この感じ。女とヤッテる時よりもイイじゃないか…。

 次の瞬間、柄頭の両の手はだらんと床に向かって垂れた。そして男は柄頭の痙攣する身体をゆっくり横たえると、目の前のモニターに映る、もう一人の男の姿を捉えた。




84、『 運命 』


 近藤遥香が水穂から二十キロほど離れた、国道沿いの道の駅に立ち寄った時、背後から掛ける声があった。

「あら」

 相手はタクシーの運転手、確か橋本とか云う男だった。

「こんにちは」

「ゆうべはどうも、お世話になりました」

「こんなとこに一人で。大丈夫なの?」

 橋本は買ったばかりらしい、瓶入りの牛乳を飲んでいる。

「ええ。今までも私のところには、特に何もありませんでしたから」

「じゃ、あんたの事はまだ相手には割れてないんだね」

「…多分、そういうことだと思います」

 遥香は応えた。二人は建物脇にあるベンチに座った。

「双子っていうのも大変だね。何だろ、相手のこと分かり過ぎちゃうってこと?」

「そうでもないですけど。ただ普通に心配なだけです。私たちにはもう親や親戚もないですから」

「中国から来たって言ってたっけ」

「ええ、子どもの頃に」

「日本語って、すぐに覚えちゃうの?」

「いえ、やっぱりそれなりに苦労して」

「だろうね」

「はじめは学校の授業なんかチンプンカンプンなんです。日本の学校、随分進んでたし、言葉が分からないから、ただ教科書と先生の顔を眺めてるだけ。でも助かったのは、姉とクラスを一緒にしてもらえたから、どうしようもないときはお互い離れたところから顔を見合わせたりして…」

「ああ、そうなんだ」

「姉はいろいろ私の面倒を見てくれました。私も姉の迷惑にならないようにして。やっぱり私たち、目立ってましたから。ようやくそんな生活に慣れたのは、高校を卒業する頃でしたね」

 遥香は目の前の、川の流れる田園風景を見ながら言う。

「あんた、結婚は?」

「いえ、まだです。仕事してたら、今時出会いなんてそうありませんからね」

「そんなことないだろう。あんたみたいな美人」

「ええっ?」

 橋本の言葉に、遥香は思わず声を上げる。

「そんなことないですよ。それに性格が地味ですから、つまらないですよ、きっと。私なんかじゃ」

「そうかな。そういう人が良いって人もいると思うけど」

「そうですか」

 遥香は応えながら思う。この橋本と云う人、さすがタクシーの運転手というだけあって、話が上手い。それに聞き上手でもある。自分のことを赤の他人にこんなに話すなんて、どれだけ振りだろう?

「しかし、なんでまたあんたの姉さんは、何とかっていう悪い男に引っ掛かったのかね」

「ご主人が亡くなって、姉はずっと一人で頑張ってましたから。仕事を掛け持ちしたりして」

「そうなんだ」

「やっぱり疲れてたんだと思います。私もしばらく会ってませんでしたから、詳しいことは分かりませんけど」

「水穂って、中国から戻ってきた人、何人かいるんだよね。お互い助け合ったりしないのかなあ」

「私の親たちが生きてる頃は、それなりに交流もありましたけど、今は日本人と変わりませんね。所詮は他人なんですよ」

 遥香の言葉を、橋本はやはり言葉少なに聞いている。遥香は橋本の目をふと見つめる。一見すると暢気で眠たそうな目だが、時折その中に深い情と、そして底知れない絶望が垣間見えるよう。でも、何処かで見たことのあるような…。

 そうだ。遥香は心の中で合点を打つ。あれは家族で日本にやってきて間もない頃の、亡き父親のものと瓜ふたつだ。遥香は自分の記憶の中の像を探る。家族全員がほとんど言葉も分からず、六畳と四畳半の二間の家で、わけも分からぬまま暮らしていたあの頃。時折父親が深いため息と共に見せたあの眼差しに、橋本の目はそっくりだ。どうしてなのだろう?

「あの…」

「ん、何だい?」

「橋本さんて水穂の生まれなんですか?」

「そうだよ。年の離れた兄貴もいるよ。どうして?」

「いえ。何だか、話してるとつい地元の人じゃないのかなって」

「ああ、よく言われるよ。俺は兄弟の中でも末っ子で、しかもどうしようもないくらいミソっかすだったからなあ」

 橋本はそう言うと一人で高らかに笑った。良い笑顔だ。遥香は思った。

「それに、こっちに帰ってきたのは十数年振りなんだ。前は東京とか、大阪とかさ、プラプラしてたから」

「そうなんですか」

「だからね、その姉さんに付き纏ってた男とあんまり変わらないわけよ。ああ、何だか切ない話だなあ」

 橋本は牛乳を飲み干した。「さてと」

「仕事ですか?」

 遥香は声を掛ける。

「ああ、今日はちょっと厄介な常連さんから呼ばれててね」

「そうなんですか」

「ま、嫌いじゃないからね、車の運転。あんたも帰り道、気をつけてな」

「はい、有難うございます」

 橋本はそう応える遥香に背を向け、近くにあったダストボックスに牛乳瓶を差し入れる。ゴトッと、鈍い音がした。

「じゃ、またね」

 遥香は会釈する。そして橋本の姿は駐車場の隅に消えていき、やがてエンジン音と共に白い車が国道に向かって出て行った。

 何だろう、あの人…。遥香は思う。まるで長い冬の雲間に一瞬こぼれては消える、陽の光のような。そして次の瞬間、彼女は自分の中に不意に差し込むものを振り払うかのように立ち上がり、

「やっぱり、街で長く暮らしてきた人は違うのかもね」

 そう嘯いてみる。

 さて、自分ももう帰ろう。あと片道二時間の距離。遥香は一度大きく背伸びをする。それにしても、麗華は一体どこへ連れていかれたのだろう?一瞬途轍もなく暗い想像が脳裏を掠める。

「あ」

 その刹那、遥香の意識に障るものがあった。

 橋本さん、これから仕事だって言ってたけど、タクシーじゃなかった。どうして?

「ハルカ…」

 突然の背後からの声に振り返った時、遥香の身体は小さく震えた。そこにもう一人の自分が、立ち尽くしているかのように思えて。




85、『 趣味 』


 さて、どうしたものか?少なくとも今の自分にできることはない。健至はそう思う。しかし…。

「おい、健至」

 健至が振り向くと、そこには吉田が立っていた。吉田縫製の玄関。

「お前、大丈夫か?」

「ええ、すっかりいいですよ」

「そうか。悪かったな、急に呼び出して」

 珍しいこともあるものだ。健至は思う。吉田からの急な呼び出しなんて、今更気にもしないが、吉田がそのことで詫びを口にするとは。

それでなくても昨夜からの出来事で、神経は妙に昂ぶり続けている。家でも結局ほとんど眠れなかった。こんな時に限ってマルオからも何の連絡もない。多分ヤツは家に帰るなりバタンキュウしているのだろう。自分のせいではないのだが、悪いことをした…。

「今日はな、お前に会わせたい人がいてな」

 吉田の声で、健至はまた我に帰る。

「はい」

「ちょっと来てくれ」

 誘われて事務所まで歩いていくと、中に人影が見えた。無論森専務ではない。

「加藤さん」

 吉田から名を呼ばれて振り向いた背広姿の男は、健至を見てまずにっこりと微笑んだ。健至も思わずそれに笑顔で返したが、正直戸惑いは隠せなかった。

「初めまして、戸田さんですね。私、加藤と申します。どうぞ、お見知り置きを」

 相手はよどみなく挨拶した。それはまるで外国語のように、健至には聞き慣れないものに思えた。

「どうも…、こちらこそ」

「吉田社長から伺いましたが、戸田さんは水穂炭鉱によく行かれるそうで」

「いえ、そう云うわけでは」

健至は即答した。「先日、たまたまそこに行って…」

「ガス吸って卒倒してたんだよな」

 横から吉田が口を挟んだ。「昔からあそこは自分たちの遊び場みたいなものでしたが、何分廃坑してからもう五十年近くなりますから」

「ええ、そうでしょうね」

「健至、お前今度あの廃坑をビデオで撮影するのか?」

「いえ、決まってませんけど。吉田さんに許可も取らなきゃいけないと思って」

「それは別にいいけどさ。加藤さんが是非撮影に参加させて欲しいってさ。マルオには俺から言っとくからよ」

「え、どういうことです?」

 健至は二人を交互に見ながら聞き返す。

「実はね、私、企業再生コンサルタントをやってるんですが、旅回りが多いんですよ。ホントにいろんなところに行くんです。日本の津々浦々。そのうち変な趣味ができちゃいましてね」

「趣味、ですか?」健至はまた、相手の圧倒的な笑顔に負けそうになる。

「そうなんです。私ね、廃墟が好きなんですよ」

「廃墟…」

「そう。廃れたビル、ホテル、工場、それから洞窟なんかもね」

「何だか、心霊スポットみたいだなあ」

 横から吉田が笑いながら言う。

「よく言われますけど、私、その類は全く関心ありませんから。あくまで造形ですよ。もう人が寄り付かなくなったモノのね」

 加藤の表情は苦笑いに変わる。きっとこの二人は今までも度々顔を合わせ、瀟洒な世間話を交わす間柄だったのだろう。健至はふと森専務からの頼まれ事を思い出す。

「どうか、社長の様子に注意してやって下さい。今あの人の近くにいられるのは戸田さん、あなただけだ」森は年齢を感じさせない真っ直ぐな目で健至を見据えた。健至はそれに黙って頷くしかなかった。

しかし、この男…。健至は相手の顔を盗み見る。歳は幾つなんだろう?表情がコロコロと変わり、しかも童顔だから今ひとつはっきりしない。

「いや、吉田さんから貴方とお友達のことを聞きましてね。なんでもビデオ撮影の下見に行って倒れられたとか。災難でしたね」

「ええ、まあ…」

「毎月管理会社の人間にチェックさせてるんですけどね、さすがに奥にまで入り込む奴はいませんからねえ」

「そこですよ。吉田さんはそう仰るけどね、そう云う場所が好きな人間は意外と多いんだ。するとね、分かってはいても、つい仕切りを跨いででも入ってみたくなる」

「じゃ、加藤さんも?」

「ええ、何回お巡りに注意されたか分かりませんよ」

 そう応えながら、加藤は健至の方を、まるで盟友に再会したかのように見る。

「でね、戸田さんの話を聞いて、是非一度お会いしたいなって思いましてね。こうやって正月早々やって来たってわけなんです」

「そんな、自分はただ…」

 健至は突然の、予想外の邂逅に狼狽を隠せない。

「いや、趣味ってのはね、面白いもので、最初は自分すらその傾向に気づいていないものなんですよ。衝動って云ったらいいのかなあ。偶発的なものがいくつも組み合わさって、ある日突然自分の中で結実するもんなんです。そしてようやく気がつく。『ああ、自分にはこんな世界があったのか』って」

「うーん…、分かるような、分からんような」

 吉田はそう言ってニンマリと笑ってみせた。「で、どうだ。今日はお前、暇か?」

 問われて健至は内心いぶかしむ。暇も何も、実際ここに来て話を聞かされている段階で、自分にはもう選択の余地はないだろうに…。

「まあ、ですけど」

「じゃ、今からこの変わり者の加藤さんを案内してくれよ」

「え、先輩は?」

「馬鹿、今日は正月三日だぞ。所帯持ちにはまだいろいろやらなきゃいけないことがあるんだよ」

「すみませんね」

 吉田の言い草に、何故か隣りの加藤が謝った。

「いえ…、じゃあ、今から」

「ええ、是非お伴させて下さい」

 加藤は本当にまるで子どものような笑顔になった。

 やれやれ…。いつもの事とはいえ、今日は一体なんて日だ。これじゃ、今朝の事件どころじゃなくなるぞ…。

 健至は加藤と事務所を出ると、そのまま自分の車へ向かう。すると

「ああ、戸田さん。私が運転しますよ」

 加藤は脇に停めてあった、白のセダンに乗り込むところだった。

「はい、分かりました」

 健至は思わずその方へ小走りになりながら、一瞬病院にいるであろう、藤城マリのことを考えた。




マリ ~ 疼き ~


 マリは猫ばあさんを家までタクシーで送って行った後、一旦自宅に戻っている。思いがけない朝帰り。

「少し眠るから」

 何か言いたげな両親を尻目に、マリは心中は済まないながらも早々に背を向け、自分の部屋に籠る。途端に昨夜のことが甦ってきて、身体じゅうが小刻みに、まるで機械仕掛けのように震えて止まらなくなる。あの時、自分は何が起こったのか全く判断できなかった。そして気がついた時には、屈強な男たちに幼い麗華を奪われていた。

 トオルは今朝、何処に向かっていたのだろう?結局、あのまま姿を見失った。マリは仕方なくベッドに倒れ込む。

 まただ…。また、私は同じことを繰り返している。蒲団に顔を埋めながら、マリの胸には不吉な流れ星の群れのように、様々な思いが交錯する。麗華のこと、猫ばあさんのこと、そしてトオルのこと…。ひょっとして、彼らに忌わしい運命の風を送っているのは、他でもない自分自身ではないのか。そんな気さえしてくる。そうだ、そして私は結局、自分を守ることを選ぶ。選んで全てから距離を置き、そのことを見ないようにする。それが通り過ぎるまで。誰からも忘れ去られるまで。現に今もこうやって、家族の心配をよそに、自分は小さい殻に閉じ籠っているのだから…。

 一方でマリは今、自分の中に激しい疼きを感じている。それは自分を根底から揺るがしかねない、暗くそれでいて熱い、大きなうねりを孕んでいる。そしてそれを感じるこの刹那、何故かマリの脳裏には、あの駆けつけてきたコンビニ店員、戸田の顔が思い出されている。どうしてあの人の顔が?

 それは、多分…。マリの意識は結論づけようとして、一瞬激しく無意識からの抵抗を受ける。そして躊躇する。しかし、それは隠しようがないほど、自分の中で明白なこととして既に浮かび上がっている。

 突如としてマリの身体は奥底から熱くなり、陰部からは留めようのないくらいの欲望が流れ出す。誰か自分を犯してほしい。粉々になるまで道具にして辱めてほしい。破壊し尽くしてほしい。塵芥になり果てるまで…。マリの身体はもはや、全身でそう叫び声を上げている。

 衝動。マリは混乱する。自分の中にある途轍もない矛盾と陰悪に。私は自分を見失っている。しかし、それでも今までよりせめてマシなのは、そのことを自分自身が理解しかけていることだ。

 マリは以前職場にいた時、自分が陰で囁かれていたことを思い出す。

「地味に見えて、ああいうのが男を惑わすんだよね…」

 そうか…、自分は他人にそう映っているのか?そして嘲笑われているのか?マリにはそれまでの自分の二十年が、全くの徒労に思えてきた。もうほとんど気にしなくなった片足の不自由さも、カメラのファインダーで追い続けた外の世界も、突如としてマリに背を向け、逆に重く圧し掛かってくるようだった。

 だとしたら、あの事件も他でもない自分自身が招き込んだこと…。マリはそれからまもなくして職場を去る決心をした。むしろもう一時も早く、そこから姿を消したかった。いや、この世界そのものから、消え去ってしまいたかった…。

 もう、逃れることはできないのかもしれない。マリはベッドから突然起き上がる。だったら…。

 トオルの後を追おう。マリは思う。あの、戸田と云う人と一緒に。そうすれば麗華も、戸田も、そして自分の運命すらも変えられるかもしれない。そうだ。きっと全てはそれに向かって動きつつあるのだ。

 そして部屋の脇にある縦型の姿見で自分の全身を見る。それでも飽き足らず、上着を脱いで下着姿になり、更にすれすらも剥ぎ取るようにして全裸になる。高い背、ほどよく盛り上がった乳房、そして今や染みが浮かび上がるほど湿った下半身。運命は私を再び犯そうとしている。でも、このままでいるよりはよほどいい。私はそうしてもう一度死ぬ。そしてまた生まれ変わる。そうだ、私はひょっとして死に場所と、生まれ変わりの場所の両方を探し続けていたのかもしれない。

「マリちゃん。あなた、大丈夫?」

 母親の声。今、彼女が娘のこんな姿を見たら、おそらく十中八九卒倒する。マリは手早く箪笥の中のパジャマに着替えると、部屋のドアを開ける。そこにはもうだいぶ年を感じさせるようになった母親の顔がある。

「大丈夫よ。ご飯はあとで食べるから、もう一、二時間、寝かせて頂戴」

 きっぱりとした口調で応える。

「そう、だったらゆっくりお休み」

 母親はそう言うと、ドアを静かに閉める。その瞬間、マリの心が少し痛む。ごめんね、お母さん。心配ばかりかけて…。

 そしてマリは改めてベッドに潜り込む。今は眠ろう。忌わしき自分が、忌わしいものたちと対峙するために。今はただ、眠っておこう。

 目を瞑ると、まもなく意識が揺らいだ。次に目が覚めた時、私はどこにいるのだろう?

 薄れゆく意識の中で、マリはそう思った。

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