第4話
16、『 振動 』
健至は軽トラックのハンドルを切りながら、足元のラックから音楽ソフトの束を弄る。時代遅れのMDカセット。確かソル・モリモトの曲があったはずだ。
縫製会社からの仕事帰り。健至は自宅でよりも車の中でよく音楽を聴く。どうしてだか分からないが、自宅の方より運転する車の方が、好みの音楽を聴く環境としては合っていると思う。それに第一、母親の小言を聞く必要がない。
あった。ソル・モリモト。その手のひら程の真四角のディスクをオーディオに差し込むと、ほどなく軽妙なエレクトロ・リズムが響き出す。彼が死んでもう何年になるのだろう?健至は頭の中で数えてみる。確か…三年。まだ四十になったばかりだったと思う。曲はほどなく次に変わる。彼の曲は総じて短い。そしてそのほとんどがインストだ。健至が彼の音楽に触れたのは、確かまだ故郷に帰ってくる前のことだった。
あの頃、健至は会社勤めをしながら映画のシナリオを書いていた。近くにその手の学校もあるにはあったが、仕事や自分の懐との兼ね合いで、ほぼ独学だった。ただ月刊で出されているシナリオ雑誌は毎月買って、初歩的なところはそれを読んで真似た。
書くのはいつも会社からアパートに戻ってきてから。時間はいつも一時間。もう少し余裕がある時もあったが、リズムを崩すと後が続かないと思って、タイマーを六十分に合わせてから夜、やおらボールペンを走らせた。
健至の書く物語には取り立てて事件は起きなかった。いや、あえて事件らしきものは描かなかった。そんな物々しい事柄を知りもしなかったし、また書きたいとも思わなかった。じゃあ、何を?健至はいつも衝動だけで書き始め、そしてすぐに筋は袋小路に入り込んだ。自分は何を書きたいのだろう?いや、そもそも何故自分はシナリオなんか書こうと思ったのだろう?考えあぐねると健至は手元のラジカセでFMラジオに耳を傾けた。そして気が晴れるまで言葉ではなく、音の世界に身を委ねた。
その夜は物語の行き詰まりが書き始めて早々に訪れた。仕事で煮詰まっていたせいもある。健至は例の如くFMラジオのスイッチを点けた。その瞬間、両の耳に不思議な風景が広がった。控えめながら明朗なリズムの中に、細かい音の震えが散りばめられたそれは、健至にとって初めて聞く音楽でありながらもどこかとても懐かしかった。健至はしばしその音の風景に身を浸すと、改めてペンを持ち直した。しかしすぐに曲は終り、続けてDJは音楽家の名前を紹介した。ソル・モリモト。健至にとって初めて聞く名前だった。もともと特に音楽に興味がなかった健至は、彼の音楽がロックなのか、イージーリスニングなのか、それすらも判別つかなかった。ただ、自然と気持ちに沿う音楽。そうとしか言えなかった。
健至が多少苦労してレンタル屋でソル・モリモトのCDを借りてきたのはその翌日のこと。それから健至にとってソル・モリモトの音楽は、夜シナリオを書く際の紙とペンのような、ごく当たり前にそこに在るものとなった。
車のフロントから健至は目を凝らした。吉田縫製の仕事は学生の頃の経験こそあったが、やはり長年のブランクもあって、覚えることだけで今は精一杯という感じだ。それで仕事帰りはいつもどっと疲れが出る。健至はゆっくりと車を脇に寄せた。そして車を降りると、
「どうか、しましたか?」
車道脇に倒れ込んだ格好の男に声を掛けた。そしてその男の顔を見た瞬間、健至は「しまったなあ」と思った。何だ、トオルか…。
「どうもしねえ。ここ、ひんやりして気持ちいいんだ」
トオルはあまり笑わない目で言った。彼はただ、地べたに寝そべっていたのだ。健至は「そうか。具合悪いわけじゃないんだな」、そう言うとさっさと立ち上がって車に乗りかけた。見るとトオルがこちらの方をじっと見ている。嫌な予感…。健至はドアに手を掛ける。
「オレも、乗る」
背後でトオルの声がした。何だって?
健至の中に拒否感が走る。トオルがこの車に?冗談じゃない。健至は即座に断る理由はないか考える。ドサッ。横を見ると、すでに相手はシートに深々と尻を乗っけていた。
「家に帰るのか?家まででいいんだな?」
健至は軽トラックを走らせながら半ば自棄になりながら念を押す。ちくしょう、遠回りじゃないか。なんでまた、こんな目に遭わなきゃならないんだ。
一人呟いてみて、健至の脳裏に忸怩たる思いが甦ってくる。中学生の頃、健至たちはよく自転車を乗り回してしたが、学校のすぐ近くにあったのが、トオルの実家『益岡自転車店』だった。あの頃は何でも改造モノが流行っていて、健至たち中学生も自分の買い置きの自転車に、何とか他人と違うハクを付けようと挙っていた。しかし健至たちが自転車屋の前を通る時にやったのは、主に店先で木偶の坊の如く突っ立っているトオルを、みんなして囃したてからかうことだった。当時でもトオルはすでに三十歳を越えていたろうし、実家を継いでいたトオルの兄は実に寡黙な男だった。だから健至たちを追い回すのは専ら、まだ若かった益岡のじいさんだった。
「なんだ、お前ら!うちのトオルを馬鹿にしたら、わしが黙っちゃおかねえぞ!!」
その怒声を背に、健至たちは嬌声を上げながら自転車を走らせたのだ。
そのガキの頃の悪さのツケが、今回ってきたのか?健至はトオルの汗臭い体臭に思わず鼻をこする。当の本人は真っ直ぐ車の向かう先を見据えながら、口元を何やらもぞもぞ動かしている。
トオルは何かにつけ大声で奇声を上げる。初めて健至がトオルを見かけた時には、まずその大声に泣き出しそうになったくらいだ。もちろんその声に深い意味はない。時に「祭りが来るぞ~」だったり、時に「本当になあ」だったり、ある時は「辛抱、辛抱」だったりした。それらが何の脈絡もなくトオルの口から繰り出されるので、健至たちは成長するうちに、トオルが自分たちとは半分違う世界を生きているということを徐々に認識せざるをえなかった。
「んんん、んん…」
トオルが鼻歌らしきものを歌っている。健至はふとそのメロディーが気になって、オーディオのボリュームをしぼりかけた。その途端、
「あああああああああああ」
トオルの激情が車内に木霊した。
「な、なんだよ」
健至は思わずハンドルに強くしがみついた。
「おとおおおおおおおお」
尚もトオルの声は続く。
「おとぉ?」
健至は訳が分からぬままボリュームを元に戻した。またモリモトの音楽が車内を包み込む。「何だよ、一体…」
見るとトオルの目はまた真っ直ぐにフロントガラスの向こうを向いている。しかしよく見るとそれは前を向いていると云うより、明らかに別の遥か何かを見据えているようだ。
「音楽、分かるのか?」健至は誰に言うでもなく問いかけてみる。するとそれに応えるかのように、またトオルの口元から奇妙な鼻歌が漏れ始める。その音楽はまったくモリモトの音楽とは別種のようでありながら、しばらくすると何気に同じ世界を共有しているようにも感じられる。
「おい、もうすぐ家だからな」
健至はトオルに何か念を押すように声を掛けるが、トオルはそれに応えない。自動車の車輪の回る音が振動となって伝わってくる。曲はソル・モリモトの数少ないボーカル曲、『黄昏の彼方』に変わっていた。
17、『 写真 』
相薫寺の住職、木村尚敬は今、スーパーカブに乗って信用金庫職員としての業務を遂行していた。今日は金曜。明日は休み。久々に何の予定も入っていない。
「じゃあ、今月分をお預かりしておきますね」
彼は小さく丸くなった老婆に聞こえるよう、少し大きめの声を出す。この家は老婆だけになってもうどれくらいになるのだろう?檀家なら大抵の物故は記憶しているが、こことはそちらの付き合いはなかった。
上がり框に置いたロゴ入りの白いヘルメットと茶色い仕事鞄。木村はそれらを手に取るともう一度、目の前の老婆に声をかけた。
「また来月お邪魔しますね。お婆ちゃん、体調には気をつけてくださいよ」
戸口を出てヘルメットを被ると、古い茅葺屋根の家の小庭をぐるりと回り込む形で、木村は停めてあったバイクのところまで戻ってくる。さて、あとは支店に帰っていつもの処理を済ますだけだ。多少時間はかかるが、遅くなることはないだろう。木村はほっと気持ちが軽くなるのを感じながらバイクに跨ろうとする。と、向こうから若い女がひとり歩いてくるのが分かった。誰だろう?
この辺の者は、移動は専ら自動車を使う。買い物も、病院も、子どもの送迎にも。だから平日の真昼間に道を歩いていると、普通に目立つ。それに、近づいてくる相手は少し足を引き摺る、独特の歩き方をしていた。
「こんにちは」
すれ違い様に挨拶してみた。相手は声こそ出さなかったが、キチンとこちらに頭を下げた。その横顔に見覚えがあった。
「藤城さん?」
木村がそう声をかけると、相手は半分気づいていたかのように、驚きの無い表情を向けた。
「やっぱり藤城さんだ。僕です、木村です。写真部で一緒だった、坊主の倅の木村です」
そう言った後で、木村が思わず大きな声になったのを恥じ入っていると
「ああ、木村くん。お久しぶり」
藤城マリはようやく頬を緩めた。
「本当ですよ。もう丸十年ぶりじゃないですか?」
「木村くん、銀行員さんになったんだ」
「あ、はい。S信用金庫です」
「もう、大人だね」
そういうマリの顔は当時のままだった。
「藤城さんは変わりませんね。今日は何です?また、撮影散策ですか?」
そう言ってはみたが、マリは手ぶらだった。
「ううん、唯の散歩。写真はもうやってないわ」
「そうなんですか?」
「木村くんは?」
「大学ではまだやってたんですがね。親父が急に倒れちゃいまして、それどころじゃなくなっちゃって」
木村は頭を掻こうとして、爪でヘルメットをカリカリと鳴らす。
「聞いたわ。面白いお父さんだったのに、残念だったわ」
「懐かしいですね。覚えてます?うちの本堂でやった夏合宿」
「覚えてるわ。いつの間にかお父さんが宴会を持ちかけてきて、気がついたらベロンベロンになりながら、高校生の私たちに仏の道を夜っぱら説明してくれたっけ」
「そうですよ。僕はこっ恥ずかしくて、あの後親父と大喧嘩したんですよ。『もう絶対坊主にはならない』ってね」
「そうなの?」
「でも、倒れられたら仕方ないですよね。結局あとを継ぐことになっちゃって。全く上手くやられましたよ」
「木村くん、長男だったもんね」
「そうそう、マリさん。これ覚えてますか?」
木村はバイクの後部シートのコンテナから、ひとつのケースを取り出した。そして中を開いてマリに見せた。
「あ、どうしたの?これ」
マリには見覚えのある、小型のニコンだった。
「藤城さんが卒業した時、僕にくれたんですよ。『次期写真部部長、そして未来の相薫寺和尚さんに』って」
「そうだったっけ」
「あれから僕、これでずっと写真撮ってたんです。今じゃすっかりお守り代わりですけどね」
「そう」
マリの頬は綻んでいた。
「この前、橋本先生にも会いましたよ。来年定年なんですよ、先生」
「そっか、もう、そんなになるんだ…」
そこでしばしの間が空いた。木村は何気にカメラを元の場所に戻すと
「今度うちにも遊びに来て下さいよ。僕、春には子どもが生まれるんです」
「本当に?おめでとう」
「まだちっとも実感湧きませんけどね。て云うか、マリさんとこうして話してると、自分の身の上が全部夢みたいに思えますよ」
木村は笑った。
「あなたのお父さんが言ってたのは本当だったわね。『一生これ、夢のごとし。如何に生き、これ、如何に死すか』」
「覚えてますね~。僕も時々思い出すんですよ。生きてた時は『全く、この酒好きの生臭坊主め』って、親父のことを思ってましたけど、あれはあれで仏の道を歩いてたんだなって」
「ええ、そうよ。本当に素敵なお父さまだったわ」
マリは言った。
突然、地域の要所要所に設置された有線放送が、大音量で鳴り始めた。次期県議会選挙告示の知らせが、幾分風に流されながらもそこいら一帯に響き渡った。
「じゃあ、僕これで」
辺りが静まるのを待って、木村はやおらバイクに跨る。
「マリさん」
「何?」よく見ると、やはりマリは以前より随分痩せて見えた。
「写真、また撮ってくださいよ。僕、マリさんの撮る写真、好きだったなあ。親父もね、そう言ってたんですよ」
木村はそう言うと、マリの返事を半分聞かないまま、セルモーターをスタートさせた。そして十メートルほど走ってから、上半身だけ振り向かせ、マリの方に片手を振ってみせた。すると、マリがそれに応えて、小さく手を上げたのが木村にははっきり分かった。
エンジンの回転音がまるでハミングのように下から響いてくる。木村は思い出していた。あの夏合宿の後、父親と大口論したきっかけは、父親のささいな言葉からだった。合宿で部員が撮り溜めたフィルムを自室で現像していた時のこと。
「やっぱりマリさんの写真はいいなあ」
木村は部長であるマリの写真を眺めていた。そこに父親が不意に部屋に入ってきた。
「あ、これ、この前の合宿で撮ったやつ」
木村は父親に写真の束を手渡した。父親はパラパラ、写真を捲りながら時折気になるところで手を止め、じっと鑑賞していた。
「どう?やっぱり部長のは、他とは違うだろう?」
するといつもは饒舌な父親が黙ったままだった。
「俺のは、どうよ。実験的に逆光も使ってみたんだけどさ」
「お前…」
「何?」
「お前、このマリちゃんって子が、好きなんだろ」
「は?」
木村は驚いた。この親父、何をいきなり言い出すのか。そう思った。
尚も父親は言った。
「光がどうこうって云うより、写真はやっぱり撮りたいもんをしっかり撮る。それに限るんじゃないか」
そう言うと、父親はそのギョロ目を息子に向けた。
見透かされた。その瞬間木村は思った。高校の文化祭で初めて写真部の展示会を見てから、木村はいつの間にかずっとマリの写真を、いや、マリそのものの姿を追っていたのかもしれない。それが、他でもない父親に見透かされた。全身の血が逆流するのが分かった。
父親の用は檀家回りに付いてこいというものだった。しかしその時の木村はそれどころではなかった。途端に不機嫌になって、その申しつけを訳もなく拒否した。そして間もなくすったもんだが始まり、木村は父親の手から荒っぽく写真の束を奪おうとして、床一面にそれらをばら撒くことになった…。
バイクが支店の駐車場に着いた。ほとんどの外回りがもう帰ってきている様子。そろそろ午後三時、銀行は窓口を閉める時間。
あの時、父親は自分の撮った写真を本当に見分けていたのだろうか?
支店長と同僚たちに挨拶しながらデスクに戻ると、そこには亡き父親と、家族の写真があった。どれもずっと前に木村がニコンで撮ったもの。
「それじゃあ、今日の業務報告から。簡単にお願いします」
まだ四十半ばの支店長がそう言った時、上着のポケットの中の携帯が鳴った。気づかれないようにそっと手に取り、画面を見た。メールだ。
「横町の上田さんのお父さんが亡くなりました。連絡下さい」
妻の麗美からだった。
あちゃ~、またこれだ。せっかくの週末だったのに。木村は思わず舌打ちして、
「木村くん、何か?」
支店長の神経質そうな声が掛かった。デスクの父親の写真が何だかほくそ笑んでいるように木村には思えた。
木村は明日の今時分、その父親譲りの法衣を着て、もう一つの職務に勤しんでいるはず。彼は心の中でそっと故人に手を合わせた。
もう、マリのことは頭になかった。
18、『 食卓 』
茶の間のテレビでは、日本人の平均寿命の延びと出生率の低下、そして初産婦の高齢化が話題になっている。聞き飽きたニュース。そう思って老父は不意に途方に暮れる。それは近所でもすっかり『変わり者』との評判が定着した一人娘のことではなく、ニュースのフリップに描かれた寿命カーブを見ての自分の余生の長さに圧倒されてのこと。
今年六十三歳。満期定年で運輸関係の営業職を辞してからこの方、彼は自由と空白の違いを目の当たりにしていた。あと二十年?
七時起床。七時半朝食。八時散歩。そして帰宅してからの自分は空白そのもの。
「何か趣味でも持てばいいのに」
自分のことは棚にあげて妻が朝食のテーブルで助言する。よく言うよ。三十年以上、仕事仕事で来た人間に今更何を始めろと言うんだ?彼はその言葉の代わりに焼皿の上の秋刀魚を箸で痛ぶる。それとも三十年?
「ほら、お父さん…」
すると魚好きの妻は夫の秋刀魚の皿を自分の方に引きよせ、その身を実に綺麗に解体し始める。
朝の散歩も決して心地良くてやっているわけではない。持病の高血圧予防の為、半ば致し方なくだ。
「こんなはずじゃなかったのになあ」
気がつくといつもこの言葉が自分の頭を占めている。そしてそれを立証する項目が代わる代わる彼の脳裏に浮かんでは消えていく。その最たるものはやはり娘のことだったが、このごろそれにもいささか飽いている。正直どうにでもなれと思う。生まれた頃はただただ可愛かった娘も、今では言葉も交わさない。交わしたとしても『やり取り』にまで発展することはない。独り言以上、挨拶以下の親子の会話。何もかも変わってしまった。彼は考え始めて、それから少し反省する。いや、それは娘のせいだけではなかろう。それに三十代から五十代半ばまで、仕事にかこつけて家に居付かなかったのは他でもない自分なのだ。『家庭は男の港』などと、今時歌の文句にもならない言い訳を自分は本気で信じてきた。そんなものだと自分に言い聞かせてきた。周りの父親たちもそうだったし、世の中そのものがそれを要求していたのではなかったか?そしてその結果、都合の悪いことには見ないふりをするのが上手くなった。流れに任せていけばそのうち汚濁も水に清められる。そう暢気に、頑なに思い込んで生きてきたのだ。
二階から階段のきしむ音が聞こえた。娘かと思うと、違った。ようやく今年成人を迎えた下の息子。専門学校に通っている。
「お前、姉ちゃんは?」挨拶代わりに声をかける。
「あ?知らないよ。散歩とかじゃない」
「何だ。近くに居て気がつかんのか」
「つかないよ。あんな気持ち悪い奴」
息子は吐き捨てるかのように言う。しかし老父は咄嗟にその言葉に返せない。
「お姉ちゃんになんて言い方するの?ほら、さっさと食べちゃいなさい」
妻が後を引き取った。
「だってさ、見た目にもう変でしょ。この辺の小学生からはとっくに『貞子』扱いだよ」
「貞子?何だ、貞子って」
老父は咄嗟に聞き返す。
「お化けのことですよ。テレビか映画の」
何故か妻が応えた。
どうしてあいつがお化けなんだ?そう言おうとして頭にある光景が過った。最近週に二、三度夜寝付けないで、仕方なく食卓の椅子に座り冷酒を口にふくむことがある。ある晩もそうして時間を持て余していると、背後で何かが軋む音がするので振り向くと、そこに娘が立っていた。
思わず声を上げそうになってようやくのことで押し留めた。それほど娘の佇まいにはこの世とは異質のものが漂っていた。百七十センチを越える、女にしては長身の身体に、向こうが透けて見えそうな白い肌。そしてこちらを見ていながら何も語ってこない二つの目。幽霊だ…。思わずそう口ごもったのは他でもない自分ではなかったか?
「恥ずかしいったらありゃしねえよ」
息子の言葉で我に返った。
「お姉ちゃんはほら、今人生のリハビリ中だから」
「だったら家でじっとしてたらいいじゃん。あの感じでどこそこ徘徊しまくられたら、こっちが迷惑先番だよ」
「さ、ご飯食べちゃいなさい。今日どっか出掛けるんでしょ」
「うん、友だちとF県まで。父さん、車借りるよ」
「あ、ああ」
老父には何故かその時、自分の老後と今の娘の姿が重なった。あてどもなく彷徨う腰の曲がった将来の自分と、幽霊に見誤うばかりの娘。まるで、お似合いではないか…。
「さ、私は今日こそ溜まってた洗濯物と草むしり、片付けなくっちゃ」
テレビではもう別のニュースにこともなげに話題を移している。妻はまだ朝食をパクつく息子をよそに、さっさと食卓の片付けにかかっている。その姿が夫にはとても生き生きとして見えた。
19、『 会議 』
瀬本将雄はコンビニ・チェーン、『グリーン・マート』S県ブロックの店長会議の席にいた。総勢三十人余り。先程から会議は順調に煮詰まりつつあり、開始からすでにもう三時間が経過していた。将雄は腕時計を見ながら、残りの時間を逆算してみる。一応夕方五時終了が常例だから、あと一時間足らずの我慢だ。
将雄は周りのほぼ男ばかりの集団の顔ぶれを眺めながら、今更ながらに自分が今の仕事に就いていることに驚いている。元々、地元で酒屋をやっていた父親が、コンビニ業に転換したのが高校最後の年。そしてその跡を継いで店長になったのが今からちょうど十年前、二十六の時だったから、数えればいつの間にか人生の半分をコンビニと付き合ってきたことになる。そう思うと、将雄は何だか無性に居ても立ってもいられない気持ちになる。
「中国ブロックでは社長の鶴の一声で、一大キャンペーンをやることになったみたいですよ」
ずんぐりむっくり体型の、実直そうなブロック長が切り出した。今日のテーマはこの業界全体を覆っている景気の冷え込みを、どう乗り越えるかにあった。『グリーン・マート』そのものが業界では後発、しかも地方発の弱小チェーンだから、社長の年度初めの所信表明にあった『オリジナル性溢れる店舗経営』は、謂わば社運を賭けた指示と言えなくもなかった。しかし現実には、この会議の席でも店長間に歴然たる温度差がある。まずは総勢の三分の二を占める直営店の店長たちと、将雄たちのような少数派、オーナー店店長たちの意識の差だ。これまでもこの二派が同じ会議の席で話し合うこと自体に無理があるということは、そこかしこから囁かれていたが、元々地方のいち商店から前社長が一代で築き上げたコンビニ・チェーンだけあって、その良くも悪くも『家庭的』な気風は今まで見直されることはなかった。
しかしその『家庭的』がまだ世間である一定の魅力でありえたのは、その失われつつある家庭の温もりとやらを懐古したがる人間が依然多数派であった頃の話で、今ではそれそのものが幻想であることは誰しもが知っていること。それが現段階での『グリーン・マート』の致命的行き詰まりに水面下で繋がっていることは、普通に暮らしている者ならすぐに分かろうというものだが…。
「オーナー店からは何か意見はありませんか?」ブロック長が話を振ってきた。「えー、瀬本さん」
将雄は思いがけなく当てられて、学生の頃のように目を白黒させる。そして仕方なくその場に立った。マイクが回ってくる。
「あの、オリジナル性と云ってもいろいろあると思うんですよね。実際以前のコンビニのオーナー店は、店長のオリジナル性がかえって経営を悪化させた例がよくあるわけで、そもそもオリジナルであることが本当に良いことなのかどうか…」
そこまで言いかけた時、参加者の中から不毛なため息声がそこかしこに漏れ出た。大半は直営店側からだった。将雄はたちまち鼻白み、
「でも、大手のようにどの店舗も決まり切った商品、マニュアル通りの接客対応と云うのも確かに味気ないですからね。そこのところ、もう少し考えてみたいと思います…」
何とかそこまで言い切って着席した。マイクの電源をノイズを気にしながら切る。
やれやれ、何やってんだ、俺。将雄は額に滲んだ汗を人知れずハンカチで拭いた。
「お疲れ様でした」
夕方午後五時。ブロック長の挨拶で、目立ったアイデアもないまま、会議は締めくくられようとしている。出席者たちに一様な虚無感と解放感の入れ混じった空気が流れ始めた時、将雄と同じオーナー店の側から挙手が起こった。
「ちょっといいですか」
見ると、もう初老の男性だった。ブロック長は笑顔で発言を促した。
「最後にこれだけは言っておきたいんですが、私らオーナー店は、はっきり言って今度の『グリーン・マート』さんの方針には特に異論もなければ、要望もありません。ただ、店を構えさせてもらってる以上、やはりお客には来てもらいたいし、利益も上げたい。その一番下のごくごく当たり前のところで話し合いたいんです。直営店の皆さんは上からの指示も気になるところではあるでしょうが、私たちは別に『グリーン・マート』という会社の為だけに商売をやってるんじゃない。そうでしょ?」
見ると直営店の者たちもそれぞれ思うところがある様子。すると、男性は不意に将雄の方を向いた。
「さきほどの、瀬本さんでしたっけ。あの若い方が言いかけられたのもそういうことじゃないかと思うんです。本当に『オリジナル』を押そうと思うんだったら、その『オリジナル』そのものを一度疑ってみる。これは意外と新しい視点じゃないでしょうかね」
そう言うと男性は着席した。将雄は急に自分の発言が取り上げられたことで、多少どぎまぎしながらも内心は嬉しかった。そうだよ、そうだ。きっと自分が言いたかったのはそういう事なんだ…。
「面白い意見が最後に出ましたけど、皆さん、いかがですか。これ、ちょっと考えてみませんか?」
心なしかブロック長の目が光っている。「遠方の方もいらっしゃるんで、あと、半時間だけ延長で」
出席者に異論はなかった。将雄もこの際、何かひとつでも店に持って帰りたい。珍しくそんな気持ちになっていた。
会議室のブラインドからの西日が、将雄の肉が付きかけた背中をじんわりと温めていた。
20、『 ため息 』
早朝のコンビニ。山口美也子はため息をついている。最近また太った。そのせいでため息にも身体の揺れを直に感じる。
もともと無精肌だった山口が、コンビニ『グリーン・マート水穂本町店』で働くようになったきっかけは、家計の為と云うより、自分を何とか追い込む為だった。二年前、下の娘が高校に上がった春、姿見で自分の体型を見て言葉を失った。いつの間にか一切のメリハリが無くなっていた。
「何、これ?」
自然と声が出た。夜、役場に勤めている夫に言うと
「そら見ろ、運動不足って前から俺が言ってるだろ」
同情より手ひどく批判されるはめになった。そして犬も食わぬ夫婦喧嘩の後、自分でも何とかしなくては、と改めて洗面台の前で誓うことになった。
夫にはよく負けず嫌いと言われる。しかし本当のところ、山口は自分では気位が高いだけだと思っている。そしてきっとそれは代々教員の家に生まれ、そんな親兄弟に囲まれて育ったせいに違いないと。
「ねえ、山口さん。何か良いアイデアない?」
今朝は深夜からシフトに入っている店長の瀬本将雄から声をかけられた。
「そう言われてもねえ」
山口はいつもはしない伝票作業に取り掛かる恰好をする。「私、難しいことは分からないから」
「難しいことって云うか、テーマは『日常』なんだから、本当は簡単なはずなんだけどなあ」
店長は自分でも頭を捻っている。先週来店長は、チェーン店合同企画のアイデアに頭を悩ませている。自分の会議の席での発言を思いがけなく取り上げられ、珍しくやる気になって帰ってきたのは良かったが、それももって三日。週が明けてからは顔を合わせる度に「何かない?」を、ため息交じりに従業員みんなに触れ回っている。
こんな時、戸田君がいたらいいのに、と山口は思う。戸田健至はいささか表情に乏しいところはあるが、請われたことには何とか応えようとしてくれる。しかしその戸田は最近、地元の縫製工場にパートで行き始めて、週末しかシフトに入らなくなっている。その分、山口が不慣れな作業のいくつかを引き継ぐことになった。
午前八時四十五分。そろそろあいつがやってくる。前田のババアだ。今週はもう二日、一緒のシフトに入っているが、とにかく要求が多いわりには自分は動かない。そしてこのコンビニの主とでも言わんばかりに、客と大声で世間談義ばかりを繰り返している。要するに山口が一番苦手、かつ嫌いなタイプの人間なのだ。
昨日頭に来たのは、入店時の開口一番、「あら。あんた、また太った?」の一言だった。その時、店内には客もちらほら居たし、山口は不意打ちを食らった格好でカウンターで立ち尽くすしかなかった。本当にむかっ腹が立ってきたのはシフトの昼上がりの後、買い物をして自宅に戻ってからだった。
「なんだ、ちくしょう、あの女。自分だって寸胴じゃないの」
静まりかえった自宅で、半分本気で大声を出した。不意に学生時代、男の子たちから『女相撲』と渾名されたことを思い出した。その頃は普通に思春期の体型だったはずだが、大人しくて、かつ親が教師だった山口は、何かと男の子たちからイジられる存在だった。
そのうち怒りが最高潮に達した。山口はレジ袋の中から特売品の百円バナナをひと房取り出すと、ひとつ千切って一瞬で食べ上げた。一旦火の付いた食欲は獰猛な獣と同じ。気がつくとバナナを食べ、スイーツを食べ、昼ドラを眺めながらいつの間にかスナックの大袋まで空にしていた。
いつもの通りの午後十二時半帰宅。今日は何とか穏便にシフトを勤め上げた。前田とも何もなかった。触らぬ神に祟りなし。明日、前田は休みだから少しは気が楽だ。山口は荷物を下ろすと、居間の大型クッションに身を預けた。自然と安堵のため息が出る。ふと周りを見渡した。最近、掃除をサボっている。そこかしこに置き場所の定まらない物が散在している。やれやれ…。
山口は急激に襲ってくる眠気に苛まれながら
「『日常』って何よ?」
すでに無くなりつつある顎をしゃくってみた。外で誰かの奇妙な叫び声が聞こえた気がした。買い物袋の中には、まだシュークリームの五個パックが入っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます