第15話

 空が嫌いだった。太陽に焼かれて墜落した、あの日から。手中にあると信じて疑わなかったものが、決して手に入らないものだと、身を以て理解させられた時から。


 努力はした。幼過ぎて翼の動かし方をろくに知らなかった頃のように、何度も飛ぶ練習を重ねた。それなのに、どうしても空を自由に駆けまわれた頃には戻れなかった。それが悔しくて仕方なかった。眩しい太陽を、澄んだ青空を仰ぎ見ると、飛べなくなった自分をあざ笑われているみたいで、不快だった。


 だから、あの夜。

 青い髪の少女が崖から降ってきた時。

 空が自分の下に落ちてきたのだと、思った。



***



 濁流に呑まれる身体。乱れ狂う心中と反して、身体からは自然と力が抜けていた。故郷にいた時から水辺で飛ぶ練習をしていたから、水泳は慣れたものだ。岸辺にすぐ這い上がり、咳き込んで水を吐き出す。湿った衣服がへばりつき、鬱陶しかった。


「無様だな」


 近付いてくる足音に、容赦のない台詞。ユーフェは驚きで顔を勢いよく跳ね上げた。聞き覚えのある声だったからだ。


「ラグ……?」


 整った精悍な顔に、背負った長い槍の旅装束。短い間共に旅をした護衛が、眼前にいる。書置きだけ残して置いて行ったはずの男が。何故ここにいるのか。自分達を追いかけてきたからに決まっている。思考が答えをはじき出す。急いで身体を起こし、身構えつつ距離を取った。


「やっぱり、僕かシアンを狙っているのか!?」

「君達を心配して追ってきた男への最初の言葉が疑惑とは、非情なものだ」

「白々しいんだよ。お前、他国の軍人なんだろう!?」

「……ふむ、やはりそこまでバレていたか。ならばもう、隠し事はなしだ」


 ラグは改めて姿勢を正し、一礼をしてみせた。知識の乏しい者から見ても、形式ばったものだと理解できる、美しい所作であった。


「私の名はイグジス・ラングトン。祖国では騎士団長を務めている。此度の目的は嫁探しと、他国の偵察といった所だ」

「嫁探しもなのか……」

「勿論だとも。無論本心からなのだが、それを告げると私の身を疑う存在が減るのが、不可思議な所だ」


 他国の騎士団長がわざわざ婚活のために来ているなど、誰が発想できよう。脱力しかけたユーフェは、こんな所で道草を食っている場合ではないと思い出した。


「お前の仕事なんてどうでもいい。こっちは急いでるんだ」

「まあ待て、偵察についての説明がまだ終わっていない」

「そんなの関係……」


 ないと言いかけて、構えられた槍に息を飲む。こちらの動きを警戒している。恐らく、逃がさないためにだ。


「任務内容は、竜人の調査だ。彼らは同族以外には警戒心が強いため、私が適任という訳だ」


 自国の増強のために、竜人を更に取り入れる。シアンの追っ手も、ユーフェを手に入れたがっていたのだ。人間達にとって、竜人は貴重な逸材なのだろう。


「ユーフェ、共に来ないか。私の国では、竜人への偏見は殆ど解消されている。家畜の如く利用される事もない。無論、君が一旦旅を終わらせるまで待ってもいい」


 急に現れておきながら、虫のいい話だった。そう一蹴するには、彼の口ぶりからは嘘を感じられない。だからこそ、今の状況が極めて不可解だった。


「……シアンについては、何も言わないんだな」


 あえて逸らされた話題ばかりを提示してくる男に、疑惑の眼差しを向ける。彼女はどこにいる、なんて一度も聞いてこなかった。既に経緯を把握しているかのように。


「お前なんかに構っている暇はないんだよ。僕はシアンを助けに行く」

「やめておけ。貴族の私兵が相手では、君の手に余るぞ」


 ここに辿り着くまでに調べていたのか。分かっていてラグは、見捨てろと言っているのだ。あれほど優しく扱っていた癖に、求婚までしておいてと睨みつける。


「軍人として、他国の貴族と揉め事を起こすわけにもいかん」

「ふん、そうやって言い訳しているだけだろ」

「身の程を理解しているだけだ。君と違ってな」


 言い終わった直後のタイミングで、槍が唸る。一切反応できず、ユーフェは岩に叩きつけられていた。


「折角久方ぶりに発見した同胞だ。他の連中に獲られたくはない。どうしても彼女を追うというのなら、その意志を力ずくで砕くまでだ」


 獲物を前に、金の瞳が怜悧な光を放つ。背中を悪寒が走る間もなく、無慈悲な暴力がユーフェに襲い掛かった。



***



 空みたいだ、と思っていた。


 青く透明な眼差しは、その実何も映していない。どれだけ手を伸ばしても、何も掴めない。どうしようもなく苛立って、憎らしくて、悲しくなる。


 旅の同行を提案したのは、ちっぽけな自尊心を満たしたかったからだ。あの大空を想起させる少女を代わりに従えてみせたら、さぞかし胸がすくだろうと思った。一人で行かせたら死にそうだと、身を案じたのもある。


 だから、シアンと自分が似ていると感じて。あの虚ろな目が自分を捉えるようになって、少しずつ無表情が崩れるようになって。手に入らなかったものを、手中に収められたような心地がした。


 そんなのは、ただの幻想だったのに。


「っ、ぐえ……っ」


 地面に叩きつけられ、砂埃が舞う。どうにか起き上がろうとするも、顔を動かす暇すらなく槍が首元を強打した。無力な人形のように、地面に身体をただ投げ出す。


「流石は堅牢な白竜族だな。常人であればとうに死んでいるぞ」


 殺す気か、容赦がなさすぎる、大人げない。涼しげな口調に言い返そうとして、血の混ざったつばを吐いた。身体中が軋んで、痛みに悲鳴を上げている。骨はまだ、どうにか無事らしい。槍に何度も突かれておきながら、傷は殆どが軽傷だ。これがただの人間だったら、確かにとうに意識を飛ばしているだろうと、周囲の砕けた岩を目に映す。


 こんなことをしている場合ではないのに、ユーフェはただ一方的に攻撃を喰らっていた。反撃する隙間などなかったのだ。そもそも、狩りや自衛の仕方を最低限知っているだけの子供が、現役の軍人と真っ当にやり合えるはずがなかった。弱い、とラグは槍を片手に吐き捨てる。


「これでどうやって彼女を助けるつもりでいたのだ。無計画にもほどがあるぞ」

「……っ」

「勇気と無謀をはき違え、口先ばかりで中身が伴わない。空虚な自惚れで自らを誤魔化す軟弱者めが。君のような未熟者を見ると、苛立ちまでも湧いてくる」


 自惚れ。確かにそうだ、と思った。シアンの事も、ずっと、そうだった。


 似ていると思っていた境遇は、表面を剥がせばまるで違った。被験者として暴力を受ける日々。入手した情報は、政権争いで他者を陥れるのに利用される。自分が知らないだけで、きっともっと沢山の苦しみを味わってきたのだろう。その痛みを、自分の過去と同列になんて扱えない。


 彼女の事はよく理解できるようになった、つもりだった。なのに、崖から落とされた時、それが慢心に過ぎなかったと突き付けられた。自分は何も見えていなかった。


「それで彼女をどうやって救うつもりだ、言ってみろ!」


 槍よりも鋭い詰問に、膝をつく。痛くて、辛くて、身体は限界を訴えている。けれど、この位全然余裕だと、虚勢を張った。


「救うとか、そんな大層な事、考えてない」


 震える足を叱咤して、今一度立ち上がる。この男に負けを認めるなんて絶対嫌だと、未だ折れぬ心を宿し、冷たい視線と真っ向からぶつかる。それは酷く未熟で、あまりに真っ直ぐな眼差しだった。


「あんなので僕を逃がせたって思ってるあいつに、お前も全然分かってないって、笑ってやりたいだけだ!」


 掴めなくても。届かなくとも。

 あの空の様な少女に、少しでも近付けるように。


 ラグは眉間の皺を険しくする。子供じみた理由に、或いは捻くれた返答に呆れたのか。ゆるりと首を振り、だからどうした、と彼は口を開いた。


「どんな理由だろうと、君が無力なのは変わらない」

「ああ、そうだよ認める。僕は弱い。だから、お前が協力しろ」


 弱さを受け入れるのは、癪だった。けれど、ただ意地を張るだけでは、この男には通用しない。降参するのに比べたら、頭を下げる方がずっとマシだった。


「竜人の集落を、故郷とは別に一ヶ所知ってる。そこまで案内してやってもいい」

「それが真実だという保証は?」

「竜人は誓いを守るべしってしきたりを、お前が信じるかどうかだ。それに嘘だったとしても、僕を持ち帰ればお前に損はないだろ」


 大人しく持ち帰られてやるつもりはないけど、と心の中で付け加える。ラグは顎に手を当てて考えるそぶりを見せ、槍の構えを解いた。


「……条件を飲もう。集落と繋がりを得られる方が、利点は大きい。それにこれ以上は同族殺しになりかねん。君の強固な意思も知れた事だしな」


 こちらの覚悟を試すのが、本当の目的だったのか。食えないやつだ、とユーフェは睨んだ。それを軽くいなし、とはいえとラグは続ける。


「善良な旅人として、道端で恫喝してくる無礼な私兵を、情報収集も兼ねて返り討ちにするなら兎も角として。今回は公爵の直属の部下が、直々にこの周辺を見張っている。かくいう私も、君達の進路を先読みしたはいいものの、包囲網から抜けられず、彼らに出くわさないよう彷徨っていたのだ」


 国の軍人というのは面倒な立場らしいと、ユーフェは改めてそんな感想を抱いた。表立って動いた結果、国際問題に発展するのは避けたいのだろう。


「私にできるのは、陰でささやかな騒ぎを起こす位だ。まあバレない範囲でなら助力しよう」

「バレない範囲って、どの範囲までならいいんだ?」


 ユーフェが例えば、と切り出した内容に、ラグはしかめ面になった。大まかな作戦を聞き終わり、早速意見を述べてくる。


「稚拙な作戦だ。あまりに穴が多く、確実性も低い」

「じゃあ、もっとマシな案があるのか?」


 粗雑な計画なのは、百も承知だった。一人では飛べなくて、知恵も足りなくて、全てを倒す力もない自分では、悔しいけれど限界というものがある。


 騎士団を率いるだけの力がある男は、あると断言してみせた。それからすぐ、苦笑いを浮かべる。


「全てを捨ててもいい程に、私が彼女だけを求めていたのならば、別の選択肢を提示できただろうな」


 もしそうだったなら、この男は全てを敵に回しても、シアンを颯爽と助けてみせたのだろうか。軽々しくそれを実行するには、彼が背負ったものは多く、一方ユーフェにはひたむきに貫くだけの純粋さがあった。


「……君が少しばかり、羨ましい」


 そう呟いた真意は、ただの皮肉か、心からの羨望か。乗り気でないものの、ラグは最終的にはこちらの計画を受け入れたのだった。


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