2章

第5話

 その日換金所を訪れたのは、普段の客とはどこか違う気配を纏った男であった。旅の装いを見るに、他国から訪れたのだろう。くたびれたマントをたなびかせ、ブーツの音を立ててこちらへ歩み寄ってくる。どことなく乾いた風の匂いがする男だった。


 普段は客相手に愛想がいい飼い猫が、ぶわりと毛を逆立てて店の奥へ走ってゆく。店主が呆気に取られていると、男は単刀直入に切り出してきた。


「こちらで『白い蜥蜴』を取り扱っていると、耳に入れたのだが」


 堂々と、かつ自然な動作で尋ねてくるあたり、こういった裏取引のやり取りに慣れているのだろう。流した噂をもう嗅ぎつけたらしいな、と店主は謎の男を特別な客として扱ってやることにした。つまり、表では取り扱えない品を取引する、という意味である。


 従業員に木箱を持ってこさせ、これみよがしにゆっくりと蓋を開ける。何十にも綿で包んでおいた商品が、鈍く白い光を反射した。


「さあ、これこそが『白い蜥蜴の鱗』さ。限定一品ものだぜ」


 男の目がほんの一瞬鋭く光ったのを、店主が気付くことはなかった。先程よりも些か低い声で、客が訊ねる。


「これをどこで?」

「そりゃあ秘密さ。そう簡単に商品の入手経路なんて明かせねえからな」


 台詞が終わらぬうちに、金貨の入った袋が机に置かれる。随分気前のいい客だ、と店主は笑みを噛み殺す。どこぞの組織の一員なら兎も角、手配書の女の情報を旅人に告げた所で、こちらの首が飛ぶこともあるまい。


 店主は謎の男へ、先日店を逃げ出した娘の話をつまびらかに明かしたのだった。



***



 空に煌めく星と、淡く光る月。街から遠く離れれば、夜を照らすのはそれらばかりだった。今宵のように雲が天蓋を覆っていれば、その数少ない光源すら隠される。手探りでマントを身体に引き寄せ、シアンは周囲をどうにか把握しようとした。暗闇に慣れた目でも、近くで横たわっている旅の連れの姿は判別できなかった。


 ねえ、と虫の鳴き声に紛れそうな小ささで、ユーフェに話しかける。


「本当に、火を焚かないの?」

「煙なんて出してたら、お前の追っ手に見つかるかもしれないだろ」

「でも、もし野生の動物に襲われたら……、こんなに暗いと危ないと思うわ」

「僕は見える」


 短い返答だった。きっと、警戒に満ちた目でこちらを睨んでいるのだろう。


 竜人は、人間より身体能力が優れており、夜目がきくらしい。つまり、万が一の時に人間よりも優位に立ち回れる。きっと、そのための暗闇なのだ。


 最初の時以上に、距離を感じる。歩み寄ろうとしたのはあちらからだったのに、身勝手だなと思わなくもない。けれど、竜人が人間を警戒するのは当然だ。正体も明かした以上、人間とは距離を置きたいのだろう。仕方のない事だ。


 ならば夜の間に逃げるとか、いっそ秘密を知った『か弱い人間』なんて、殺してしまえば安全になるのに。そんな考えが、何度もシアンの脳裏をよぎった。もし彼がこちらに刃を向けても、きっと驚きはしないだろう。


 なのに、そのような行動をユーフェが一切取ろうとしないものだから。シアンは、少し、どうしたらいいか困っている。彼が自分にどんな態度を取ろうと、どうでもいいのに。


 重たい息を吐いて会話を諦めると、横たわってぎゅっと目を瞑った。思考を全て、黒々と塗り潰すように。



***



 その物音に気付いたのは、シアンが先であった。身体を起こし、黒一色の視界の中、どうにか連れがいる筈の方角へにじり寄ろうとする。


「ねえ、起きて」

「煩いな、まだ夜中じゃ……」


 眠そうな声が、異変を察して途絶える。がさがさと草むらを揺らす音が、急速にこちらへ接近してくる。火種箱を探ろうと手を動かしたものの、暗すぎて荷物の場所が中々判別できない。どうにか距離をとるべく、音とは反対側へ後ずさる。


「お願い、火をつけて」

「な、なんだよ急に。明かりなんて別にいらないだろ。逃げるだけならこの位の暗さでも」

「いいから早く。でないと」


 間に合わなくなる、という言葉は、肉薄する危険を前にして霧散した。空気の流れで、大きな身体がこちらへ飛び掛かったのが、直前になってようやく察せられた。割り込むように、自分の前に別の身体が立ちはだかった事も。


「ユーフェ!」


 重い荷物が跳ね飛ばされるような音が響いた。遅れて、それが後ろの木にぶつかる音。彼が自分を庇ったのだ。暗くとも、その位は分かった。


 けれどどうして?

 その理由は、分からない。

 だって、自分は彼に警戒されているのに。


 雲が揺れる。束の間差した月光が闇を和らげ、襲い掛かってきた正体を照らした。


 大の大人より一回り大きな身体。全身を覆う鱗。翼はなく、四つの足が地面を力強く踏みしめている。大きな蜥蜴、という表現が一番近い。ただ、目の前の存在を蜥蜴と一緒にするには、あまりに危険であった。


「こいつ……竜人が化けてるやつじゃないな」


 先程吹っ飛ばされたのに、普段通りの足取りで隣に並び喋る少年に、シアンは目を丸くする。竜人がこれほどまでに頑丈とは予想できなかったのだ。僅かに生じた安堵は表面に出る前に消え、いつも通りの声音で返答した。


「陸竜の一種だと思うわ。多分、私達を食べるつもりなんだと思う」

「そんなの見れば分かる!」


 月の光をギラリと反射する瞳には、理性が全く窺えない。ユーフェは苛立ち交じりに返答した。


 竜人とは別に、竜そのものは、動物の一種として存在する。姿こそ竜人の化けた姿と似通っているが、人語を解さない、ただの危険な獣である。


「くそっ、僕達に近寄るな!」


 ユーフェの拒絶に、陸竜は何故か動きを止めて、忌々しげに地面をかぎ爪で蹴る。狼狽、警戒、或いは畏怖か。知性の低いそれが如何なる感情を抱いたか、シアンには察しきれなかった。


 襲撃者の謎の挙動は、短い間だけだった。すぐに飢えた眼差しが、小さな獲物二体を見定める。ユーフェは舌打ちをすると、おもむろにシアンの手首を掴んだ。


「逃げるぞ!」


 強い力で引っ張られる。それを軸に、どうにか足を動かした。竜人は夜目が利くという言葉通り、彼は木々の合間をすり抜け、息一つ乱さず全速力で駆けてゆく。人間は、そうはいかない。すぐに息が乱れ、苦しさに顔を歪ませる。足はもたつき、先程まで踏みしめていた土を、凶悪な爪が抉った。


「おいっ、もっと速く走れ、こののろま!」

「……ごめんなさい、無理だわ。足元がよく見えないの」


 先導されているとはいえ、微かすぎる月明りだけを頼りに、真っ暗な夜道を走るなどあまりに厳しい。小石を踏んでふらついた身体を、転ぶ前に引き寄せられる。すぐ後ろで、爪が空を切る音が聞こえた。無力な逃走者をあざ笑うように、ぎゃあぎゃあと夜鳥がどこかで鳴くのが聞こえた。


 もうすぐ追いつかれてしまうだろうな、とシアンは他人事のような感想を抱いた。身体能力の高い竜人であるユーフェだけなら、きっと逃げられる。ねえ、とよろめきながら声をかけた。


「手を離していいよ」


 自分は、どうにか一人で逃げてみる。難しいだろうが、このまま勝ち目のない追いかけっこを二人で続けるのと、そう大差はない。彼はお荷物の人間を切り捨てられるし、悪い判断ではないだろう。そう思ったから、息継ぎの合間に提案してみたのに、手首を掴む力は更に強くなった。


「そんなのできるか、馬鹿!」

「どうして?」

「どうしてって……」


 先導する足が、止まる。月が再び雲の中へ隠れる間際に、振り返った顔が辛うじて映る。そこに滲むのは、困惑と苛立ちと、それから。何だった、のだろうか。


「お前の言う通りにするのは、むかつくんだよ!」


 膝の裏と背中に手が回され、地面から足が離れる。シアンを抱え上げ、ユーフェは強く大地を蹴った。重力が強く身体にかかる。今まで以上の速度で、木々の合間を縫うように突っ切ってゆく。耳元で風が唸り声を上げる中、シアンはぱちぱちと瞬きをした。


 色々と、訊ねたい気がした。何を言うべきか、分からなかった。

 迷った末に、ぽつんと呟く。


「……重くない?」

「荷物より重い。お前、太ってるんじゃないのか?」

「ええと、ごめんね……?」

「ふん、お前はそもそも、ひ弱で細すぎるんだ! へし折れる方が迷惑なんだから、もっと肉付けろよ!」


 つまり、むしろもっと太った方がいい、という意味なのだろうか。けなされているのやら、心配されているのやらだ。速度が上がったのもあり、少々呑気に会話ができるくらいには、余裕が生まれていた。


 障害物の多い森の中では、ちょこまかと素早く動き回れる小柄は有利だ。人間ひとり抱えて走り続けているのに、ユーフェは息一つ乱れず疲れている様子もなかった。


 そもそもこうして抱えられるなら、ユーフェが竜に化けて飛んでしまえば、もっと簡単に逃げられるのではないだろうか。ふとそんな考えが浮かぶ。人間を背に乗せたくないとか、変身に時間がかかるとか、夜とはいえ人目をできる限り避けるためとか、何かしら制約があるのかもしれない。


「げっ」


 ユーフェが急停止する。暗闇の中響き渡る、せせらぎの音。川にぶち当たってしまったのだ。飛び越えるには幅が広く、流れも速い。向こう側へ行くのを諦め、上流と下流、どちらへ向かうか悩む。短いながらも痛恨のタイムロスであった。


 獲物が迷った格好の機会を逃さず、追跡者が飛び掛かろうとする。シアンは目を閉じようとして、けれど驚きで見開く事となった。


 突如姿勢を崩し、竜がのけ反ったその刹那。空気が震え、赤光が視界を切り裂く。鋭い槍が、二人と竜の間に突如突き刺さったのだ。槍の先端はどういう仕組みか、赤い炎を纏っていた。


 続けて、一陣の乾いた風が吹きぬける。槍を追うように、乱入者が滑り込んできたのだ。槍の柄に手をかけ、滑らかな動作で地面から抜き取るまで、殆ど間がなかった。槍が素早く薙ぎ払われ、それに合わせて火の粉が舞い踊り、侵入者の姿を仄かに照らした。


 闇と同じ色を宿した長髪。マントを纏った、旅装束。はっとする程に精悍な顔立ちをした、若い男であった。


 竜が唸り声と共に後退する。たった一振りで、前腕と胸部から血が噴き出していた。謎の男は、燃える穂先を陸竜の心臓部へと向ける。


「去れ」


 食らった一撃で、身をもって力の差を理解したのだろう。竜は怯えた声を漏らし、ぐるりと尻尾を向けて木々の奥へと姿を消した。 

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