第8話

 告白したい。


 ユカリがそう告げたとき、アキナとマホ子は驚いた。何より、ユカリ自身が驚いた。告白に踏み切ろうとしている自分自身に。

 昨日、ハルの乱入で不発に終わった告白。ユカリの気持ちは盛り上がったまま置き去りにされ、その思いは治まることがなかった。

 恐怖はある。けれど、自分の気持ちを伝えたら何が起こるか――その考えに、ユカリは囚われていた。

 ユカリは仲良し三人組のアキナとマホ子に相談し、二人だけにしてもらうように図った。四時までに告白する。そう約束していた。


 今、目の前には賀来が居る。昨日食べ損ねたクッキーをつまみ、ユカリが作ったレモネードを飲んで、近づいてきた文化祭の出し物は何にするか、と話していた。

 しかしユカリは話を聞いていない。告白するぞという気持ちが一杯で、話が耳に入ってこないのだ。そんな態度が賀来にも伝わったらしい。


「トイレ行きたいなら、行っておいでよ」


 賀来がいきなり言った。


「え? え、何でですか?」


「さっきからずっと、我慢してるみたいな顔してるから」


「そ、そんなこと、ないです。大丈夫です。さっき行きました」


「そうなの?」


 賀来が笑う。ユカリは顔を真っ赤にして俯いた。


「それにしても……アキちゃんとマホちゃん、遅いねぇ」


 賀来がレモネードを飲み干す。ユカリは時間を気にした。もうそろそろ、約束の四時。


(いけ、行くんだユカリ。言うんだ!)


 ユカリは自分を叱咤し、意思を固め、自分の中で沸騰した気持ちを今一度見つめて、賀来と向き合った。


「どうしたの? やっぱりトイレ?」


「あの、私!」


「賀来!」


 バンっと、扉が弾け飛んだ。

 ユカリは泣きたくなった。

 振り向くと、春乃風太が息を弾ませ立っていた。


「どうしたのハルくん、そんなに急いで」


「賀来――出番だぜ」


 ハルが手の平で、首を切る真似をする。その瞬間、賀来の瞳に火がついたように見えた。


「オーライ」


 賀来はそう言うと、ユカリが見たことの無い、ギラついた笑みを浮かべて立ち上がった。


 ■


 翌日、昼休み。


「た、大変だよ、正之くん!」


 今日も新たな技の開発にと余念なく、必殺技へのインスピレーションを求めて格闘ゲームの攻略本を読んでいると、正之の右腕、トコロテンこと鈴木心太すずきしんたがクラスに飛びこんできた。時計を見ると、そろそろ強者どもが栄養補給を終え、リングに集う時間である。


「どうした、トコロテン。僕の到着を待たずに、戦士達が拳を交え始めたか?」


 仕方のない奴らだ、と正之は新調してもらった道着と篭手、それにフェイスマスクを掴んで立ちあがった。この道着を掴む度に、体中がざわめく。いくら平静を装っても、戦いを望む血が疼いてしまうのだ。

 傷つくあの場所を求めてしまうとは、自分も因果なものだ――。


「入部希望者が現われたんだ!」


 正之の恍惚をトコロテンが遮る。


「新たなチャレンジャーか。ふん、僕達の死闘に耐えうる覚悟があればいいが」


「そいつ、二年生なんだよっ」


「なに? 二年」


 正之の心中がざわついた。

 上級生。

 別に恐くもないが、正之はただただ上級生が嫌いだった。無駄に年を重ねただけで威張りくさる無能な連中。自分のような天才に基礎トレーニングなどを積ませようとした空手部しかり、あの生意気な天津の女しかり、屈服させたとはいえ春乃風太もずいぶん生意気だった。


(いいや。むかつく奴だったらやめさせてやる)


 本来、クラブ活動に対して入部を希望する者を断ることはできない。一方的にやめさせることも不可能である。しかしそれは本来であり、普通はの話。

 正之は普通ではない。そう思っている。


「そいつがどれほどの者か、僕が見定めてやろう」


「強いんだよ、すごく!」


「ふぅん……」


 トコロテンの慌てぶりが面白くない。正之の心はやめさせる方向で決まりつつあった。


「僕達じゃ敵わないよ! どうしよう!」


「へぇ、それほどかなぁ。まぁ素人の君から見ればそう見えるかもしれないけど、百戦錬磨の僕から見たらメッキも剥がれるだろうね、残念ながら」


「本当に強いんだよ!」


「誰だよそいつ」


 トコロテンのパニックに苛立ち、正之は聞いた。


「二年の賀来隼人――家庭科室の包丁、金髪のモンスターだよ!」


 ■


 真空脚の使い手はトコロテンほど臆病ではなかったが、はるかに馬鹿だった。


「いくぜ! 真空レックウ脚! ――ごっ……!」


 得意の必殺技で飛びかかった刹那、賀来のえぐるようなボディブローをくらい、くの字に折れて、起き上がることなく痙攣した。


「僕もずいぶん殴ってきたつもりだけど、そんなマシュマロみたいなボディは初めてだよ。軽く小突いたつもりだけど、胃と腸の位置がひっくり返ったんじゃないか?」


 賀来が足もとで蹲り、息もできない少年に告げる。

 総合格闘クラブ部員達で形成されていた輪が、静まりかえった。


「さて、そんなところで寝てたら邪魔だぜ? これから新入部員の僕をいたぶる先輩方が次々と襲いかかってくるんだから、そこにいちゃ顔を踏みつけられて鼻が潰れてしまう。一応、顔は綺麗なまま済ませるって約束だからね」


 そう言うと賀来は丸まっていた少年を蹴り転がし、場外に出した。


「ひ、ひどい……」


 正之の隣でトコロテンが呟く。顔を真っ青にして震えていた。


「さぁどんどん行こうぜ! エクストリームスポーツってもんを僕に教えてくれよ。今のままじゃヒステリックなババアが低反発クッションを殴るより腰が抜けてるぜ?」


「なにぃ」


 正之は怒りに奥歯を噛みしめて唸った。

 だが、足は竦んでいる。

 正之は人が殴られるのを初めて目にした。それは昨日まで自分達が交わしていたパンチやキックとは明らかに違う音を放つ。肌と肌が弾かれたような快音ではなく、もっと暗くて、重くて、濁った音。暴力の音だった。

 正之の本能の部分がそれを理解させて、彼の足を竦ませていた。


「ああ、あんたはいけないぜ、あんたは」


 賀来が唸った正之を見つけて指をふる。


「畏れ多くも望月の御子息に手をあげることは僕にはできん。たとえ何の取り柄もないボンボンでも望月の印籠を提げられたらひとたまりもない。お手上げ、降参、許してください! 神様仏様望月様! てなもんだよ」


「僕のことを馬鹿にしてるのか」


「褒めてるように聞こえたなら驚きだけど」


「き、貴様ぁ……!」


「悔しいかい? なら特別に僕を百発殴らせてやろう。もちろん、僕は手出ししないぜ。ただ篭手だけはしっかりつけてくれたまえ。ああ、あと拳の握り方もチェックさせてくれよな。殴った手を痛めちゃったら大変だもの。僕があんたのママに怒られちゃう」


「ぐぐぐ……!」


「気張ってないで殴りにおいでよ。本当に僕は手をあげたりしないぜ? 望月に誓って本当だ。それどころかあんたが怪我しやしないか不安なくらいだ」


「ころせ」


 正之が震える声で呟いた。


「あいつを殺せ! やっつけろ! 全員でぶっ殺せ!」


 正之が口角泡をとばして叫び散らす。

 だが、輪は一向に動かない。ぴくりともしない。隣のトコロテンも目を逸らしている。


「どうした! やれ! 僕が命令してるんだぞ! やれ! あいつを殺せー!」


 一頻り正之の大声が響くと、静まりかえった体育館に山鳩の呑気な声が聞こえてきた。


「やめときなよ」


 賀来が言った。その目にはもう正之を挑発するような節はない。

 総合格闘クラブの皆を見まわして、賀来は再び口を開いた。


「強くなったって意味なんてないぜ。勉強して良い大学に入って、良い就職先みつけて、警察に守ってもらえ。納税して平和に暮らしなって」


 賀来の口調が真に迫っていたからだろう。

 場は妙にしんみりとして、哀愁の漂う空気が支配した。

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