最終話
水難の相はある気がしていた。
図らずも入水してしまったのは1ヶ月半前、正確には7週間前ということになる。
荒川の土手で買ったばかりのコルネットを吹いていた。君とお別れしてすぐ、三日以内には買った。一瞬迷ったけれど結婚資金が不要になると悪魔の声が聞こえて、試しに吹かせてもらったら音が出せたから即買った。
在宅仕事なのを良いことに、隙あらば歩いてすぐの土手に音を出しに行くのが楽しみになっていた。仕事の期日は守る。法律を学べるのは楽しいから捗った。たまには私にだってご褒美があっても良いじゃないか。
この土手の桜並木を気に入って近くに引っ越したのは君と出会うよりも前のことだ。アパートとの中間くらいに中学校があって、吹奏楽部のロングトーンが家にいても聞こえてくるんだけど凄く上手い。それは土手にも聞こえてきた。あっちに私のコルネットは聞こえてませんように。小学校以来でヘタクソだ。
まだ真夏の残っているような夕方だった。それでも少しだけ涼しい日も出てきたかな、と思い始めた頃。
近くのトンネルで壁キャッチボールをしている彼も、私と同じようにテナーサックスを吹く彼も。川を挟んだ向かいのテニスコートに人はいない。遠い春を待つ桜並木の下で、いつも通り平日の時間が流れた。
そこへ、いつもと違う有機物が川を流れて来たのが見えて私は咄嗟に川へ飛び込んでいた。
考えてみたこともなかった、いつも眺めているだけの川は恐ろしく冷たくて流れが速い。片手で川岸のコンクリートに掴まっていたけれど川の中央寄りを流れてくる人とは距離があった。なりふり構う暇などあるか。私は壁を思い切り蹴る。いいぞ、かなり近づけた。もっと近くまで。
キャッチボールの彼がこっちに気付いて走り出す。なんとかして彼に伝えたかった。水メチャメチャ冷たいから絶対に飛び込んじゃダメだよ!自分が少しも泳げないことなんか忘れて、キャッチしてもらえなくて転がるボールの気持ちを想像した。きっと哀しい。
小学生くらいの女の子が浮かんだり沈んで姿が見えなくなったりしながら流されてくる。あれは私だ。
いつか川に流された私に向かって手を伸ばした。
つもりだったが、実際にはそうではなかったらしい。私はまた私を救えなかった。落ち着いて考えてみたら当たり前なんだけど、さっき祠で送り出してくれた男の子が教えてくれた。
「お姉さんは川に落ちた子を助けたから、最後に会わせてあげる」
そう言った男の子は猫を抱いていた。
ぐったりした女の子を掴んで全力で岸を目指した。こんなに本気を出したことなんて今まで生きていて一度も無い。どうせ何をしても褒めてなどもらえないからと、頑張ることなんか早々にやめていた。いつだって余力を残してなんとなく生きてきた。
なかなか岸に近寄ることはできなくて、何度も押し戻されながら下流へ向かっても流されている。あと少しだ、頼む。頼むから上手くいってくれ。岸からも手を伸ばしてくれている人がいる。あれは救いの手だ。私の人生には最後まで現れなかった手。
「えいっ!」と私が押し上げた女の子をその手が受け取めてくれる。全力はそこで尽きた。誰かの叫び声が遠ざかる。水の冷たさにも慣れてきて、子供会の行事で一度だけ行ったことのある流れるプールみたいで少し楽しかった。ぐるんっ、と体が回転する。血管の浮かぶ足が見えた。私サンダル履いてたよな。サックス奏者にセッションを申し込みたかったのが叶わないと思うと少し心残りだった。
「あの子、助かったんだね」
「お姉さんのおかげでね」
「そいつはよかった」
男の子と二人でフフフと笑う。良かったのかな、とも思ってしまう。あの子は助かりたかったのかな。生きたかったんだろうか。邪魔をしてしまったのではないだろうか。そうだとしても見過ごすことはできなかったと思う。自分で決めることは苦手だと気付いたのは大人になってからだ。
母がわざわざ東京の美容院を予約するのが嫌だった。せっかく少しだけ伸びた髪を短く切られてしまう。嫌だなんて言えば余計面倒なことになるから従うしかない。志望校だった工業高校の願書は書いてもらえなかった。いつだって私に選択肢なんか無かった。思い出すのを遮るように男の子は、そんなことは忘れて、と言うように。
「よい
「ありがとう」
差し出して来た小さな手を両手で握る。君の泣き顔が瞼を
「ニャンも、じゃあね」
お見送りありがとう。
額を撫でると猫は男の子の腕を飛び出した。私の胸に飛び込んでくるから受け止めると、頬に頭を摺り寄せてきて鳴いた。
私はこの子を抱いたことがある。「あ、よかった」と思う。良かったんだ。
「頑張ったね、助かってよかったね」
「にゃぁ~ん」
「ありがとう。元気でね」
私が守った大切な猫を最後にぎゅっと抱きしめた。温かくていい匂いがする。
いつの間にか停車している―――というのだろうか?ボウッと浮かび上がる光は私を迎えに来てくれたのだと直感的に解って、バスにでも乗るようなつもりで乗り込んだ。ふかふかして心地いい。
男の子が手を振ってくれる。その足元に猫はお座りして尻尾を振っている。私も手を振った。ふかふかのバスが浮かび上がった。
青々とした樹木に
君と私の後ろ姿が見えた。
やっぱり思い出したよ。
いつだったか、信号が赤に変わりそうになったから手をつないで走った。この瞬間を思い出す時が来るだろうと、その時の予感も薄っすら消えようとしている。確かバスを降りて美術館へ行く途中。私の足が速くて意外だったと君は驚いて、私も自分で足が速いなんて忘れてて二人でビックリした。
どちらからともなく手を取り合って走った。この瞬間を思い出す日が来るだろうと、どうしてか私は思ったんだ。
逃げようって、この時に言えば良かったのかな。助けてあげるから逃げよう。
答えはわからない。疑問すら風になって何処かへいってしまった。消えていなければ、きっと今も何処か知らないところを漂っている。
私ももうすぐ私ごと消えるだろう。溶けて上空の霧に変わる。心地よい深い眠気に飲み込まれかけていた。何バスかは不明だが私を包む光は暖かくて、ふわふわと空を飛んでいるよ。見下ろした街に思い出をばら撒きながら。
銀河鉄道と呼ばれるものを初めて見たのは中学校の部活の帰り、友人と別れた高台だった。旅を終えた人を運ぶと言われる金色の光が空へ向かうのを見た。
金色に燃える輝きは汽車にも昇り龍にも見えるのだという。私はあれを
それに私は今乗っているみたい。
温泉街の上を通過したところだ。この舞い落ちる想いはそこへ留まるだろうか。
極楽鳥は答えない。ふかふかの暖かさに眠気で包まれる。最後に見えた遠い景色が桃色と薄紫を水で溶いたみたいにぼやけてゆく。いつかの夕映えに似た色だった。輝く羽が降る空。口を開けて空を見るジャージ姿の中学生。全部が遠く薄れてゆく。
もう瞼がくっついている。やっぱり君のことを考えていた。散々ばら撒いちゃったから自分のことだって思い出せないのに。ふかふかと柔らかい羽みたいなものが肩を撫でる。うん、わかったよ。もう寝る。
極楽鳥さん、最後にこれだけ降らせてよ。
君へのこの想いを。
ひと時だったけれど幸せをありがとう。
お友達と仲良くね。ご両親を大切に。まだ少し心配だけど君は芯が強いから私なんかいなくても生きて行けるだろう。君が
だけど、そうならないように大切な人を見つけて欲しい。残りの人生は長いんだから。
私はしばし眠るよ。もう起きたいとも思わないんだけど。思わない人生だったよ、君がいなければ。さよなら私の
君はかけがえのない親友で私の生涯の恋人だった。
縁があるならまた会おう。
おやすみなさい、よい
(了)
天国の羽 茅花 @chibana-s
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