第三話


 前年は「28歳の君を愛していたのに」と冗談めかしてお祝いした。毎年言う予定でいた。


 会わない間に君は30歳になった。


 

 人付き合いにいて責任を持つのが苦手な君には、耳が痛いことを言われるくらいなら相手との関係を解消した方がマシみたいに考えている節がある。摩擦は起こらないならその方が良いし、トラブルから距離を置くのは間違っていない考え方だと思うよ。


 全く連絡がつかなくなるから、その状態に突入した時にはすぐに判る。改善提案に耳を貸して話し合いができるような君ではなかった。


 それでも君を繫ぎ止めておきたかったのは私。知ってたのにすがりり付いた。自分の半身かたわれみたいな君が心配だった。




 *****   *****   *****




 行ってみたいお店が無い時は焼肉屋さんに行く。夕方お店が開くまでの時間を図書館で過ごすのも楽しみだった。


 読んでみたかった絵本がたくさんある。図鑑で極楽鳥のことも調べた。火の鳥だと思っていたら風鳥だったから驚いた!と言って君をキョトンさせた。ボブマリーの奥さんの本も読んだ気がするけれど、それは上野だったかも。私が読みふける間に君は退屈そうに何冊も本を交換する。


 あの焼肉店が4月で閉店してしまうと知った時はショックだったね。

「これから何処へ行けば良いのかわからない」と二人で途方に暮れて。その時なんとなくだけど予感してしまった。





「結婚するつもりは無いから付き合っていても意味がない」




  8月の終わりだった。

 


 君がそう言ったのは勢い余ってのことだって解ってる。それに売ったつもりなんか無いけれど、きっと売り言葉に買い言葉に近い反応だったと思う。君が来月も親友と旅行だと楽しそうに話すからガッカリした。それを嗅ぎ取られたことで、ウキウキしていた気分を私が害してしまったのは事実なのだろう。


 もしかしたら君の切り札だったのでは、とも考えた。何か私が気に障ることをしたら言おうと思って用意していた魔法の言葉。君に悪意も、そんなつもりがなくても私は弱みを握られていた。別れをチラつかせれば私が悪かったと言ってすがっただろうから。




 いつもなら。



 その時、重い扉がひらいた。隙間から光が射して、滞っていた風が一斉に吹き込んできたみたいだった。なんなら白い鳩達も飛び立つ。審判のラッパを思う。


 私は君から別れを切り出されることを望んでいたのだろうか。相手から言われたならばが付くという気持ちなら想像できる。今日こんにちまで零れた涙は一粒もないことが答えだろうか。あの瞬間に心を占めていたものは確かに解放感だった。



「わかった。気を付けて帰ってね」


 そう答えて、電話を切ったのは君と私どっちだっただろう。 



 

 一時間後くらいに「家に着いた」とだけメールが来た。私は初めて返事をしなかった。ひと悶着の後に君の方から連絡があったのは、それが最初で最後だったと思う。私がもう思い出せないだけかもしれない。





*****   *****   *****




 あれから二ヶ月ほど経つ。





 呼び出したのは私ということになるのかな。借りっぱなしのCDを返したかった。また買うのではないかと気になってたんだ。君はお金に困っているわけでもないのに、御茶ノ水に行く度に同じCDを売ったり買い戻したりする。送るから住所を教えてと連絡したら今日が休みだと君が言った。



 私は待ち合わせに遅れてしまった。久しぶりに会う君は身振りを交えて早口で何か話して、何故だか言い訳しているみたいだった。遅れたのは私なのにね。なんだか長い時間電車に乗っていたような気がする。


 ちょうどお昼を過ぎたところだったから、よく行ったラーメン屋さんで昼食を摂ることになった。空いていた。


「髪が伸びたね」なんて当たり障りのない会話をして、CDを返すという目的が済んでサヨナラしようという時だった。君はカラオケに行かないかと提案してきた。


 平日の三時前だ。


 君と初めて飲んだ金曜もカラオケに行った。残業の帰りに駅まで歩く途中、君を見かけた。電気の消えた物産館の暗い広間で、花壇の石垣に腰かけ煙草を吸う君に私は思い切って話しかけた。少しそこで話して飲みに行くことになった。


 声がかっこいい上に君は歌が上手い。洋楽の英語も流暢だった。あの時は“一ヶ月に一回”を使ってくれたんだな。当たり前ではなかったのに、私はちゃんと感謝できなかったね。




 同じ会社で働いたビルの隣の駅、待ち合わせと解散の街を歩く。時折きらきら輝いて見えて、今日は天気が良いのだと気が付いた。あんなにつなぎたかった手は触れないままで宙を泳いでいた。

 


*****  *****  *****





 カラオケの後で、二人で最初に飲みに行ったお店のチェーン店に入った。君は免許の更新に行った話をした。私はお歳暮の短期アルバイトに応募しようか考えていたことを話した。在宅仕事で運動不足を感じたから動かしたくなったんだ。体もだけど、止まってるみたいな時間も。PCの画面とばっかりにらめっこで人と話さないから随分と頭の回転も鈍くなっているのを感じていた。


  8月のことについてはお互いに言及することの無いまま夜になった。明日は仕事だから、もう君を帰してあげないとご両親も心配するね。

 

 

 選曲からもだけど、発言してしまったことについて君が何か言いたそうな気配は感じていた。言わせないように私は無邪気を振舞った。


 謝って欲しくなんかない。だって君は悪くないもの。ただ、口だけではない「ごめん」が無ければ、これから先一緒にいたとしても同じことが繰り返されるだけだろう。だから「ごめん」なんて言われなくてよかったよ。ありがとう。


 君は私が育った時に周りにいた人達とは違うと思うから。取り返しのつかない言葉を人に投げかけておきながら平気でいられるような人達とは。


 だから感情に任せて一瞬で全てを壊すような、もう次はそんな失敗しないように祈ってるよ。





 *****  *****  *****



 君に振り回される日々は、それでも私が生きている中で唯一の幸せな時間だった。相対的に見てそうでもなくても優先順位が高くなくても、気に入ったのが容姿だけだとしても。私を想って寄り添ってくれたのは君だけだ。



 私は家族に憧れていた。いないわけではなかったけれど憧れがあった。自分が育むのであれば大事にできるんじゃないかなって、大事にする!って思ってたから。だから夢を見させてくれてありがとう。そんなこと言う人が芸能人でいたな、と思い出して幸せな気持ちになる。



 最終電車のアナウンスが聞こえてくる。君は顔をくしゃくしゃにして、おじいさんみたい。そうか、君がおじいさんになったらそんな風になるんだね。見ることができてよかった。もう十分じゅうぶんだ。



 君は改札を通って、エスカレーターが壁に隠れる直前にこっちを振り返った。笑顔で変なハンドサインを送ってくる。無茶しやがって。私も笑顔を作って手を振った。


 さよなら。君が何処に住んでいるのかが思い出せないんだ。初めは聞いたことの無い駅名だった。その後そこへ何度か行った筈なんだ。なんとかタワーにファゴットが展示されていたのは記憶しているのに、なんとかタワーを思い出せない。



 改札を通って、エスカレーターが壁に隠れる直前に君がこっちを振り返った。笑顔で変なハンドサインを送ってくる。無茶しやがって。私も笑顔を作って手を振った。



 JRの神田駅に戻るまでの一本道を、寒いわけでもないのに速足で歩く。もう此処を通ることはないのだと踏みしめながら歩いた。それから、いつの間にか。

また電車に乗って座っていた。暖かくて、ボンヤリとだけど、なんとなく思い出す。




 最後に見たのは足の指と、その向こうは空だろうか。


 落ちたんだっけ。

 何処から?




 今日君に会いに来たのは






「最後に会わせてあげる」





 そうか、祠の前でトラ猫を抱いた男の子が言ったんだ。

 あれは24時間スーパーの向かいにある祠だ。








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