第9話:灯(ともしび)

病室に、静かな時間が流れていた。


窓の外では、夕陽がビルの隙間に沈んでいき、淡いオレンジと紺色がにじみ合って、ゆっくりと夜を連れてくる。

遠くから聞こえる車の音や、人々の話し声すら、ここまで届くと不思議と優しくて、心に沁みた。


ベッドの上で眠る怜人君の顔を、私はそっと見つめる。


彼の呼吸は、規則正しく、静かだった。

そのたびに胸が小さく上下するのを見て、安堵と、どうしようもない切なさが交互に押し寄せてくる。


怜人君の手は、あいかわらず、私の手を握ったままだった。


ほんの少し冷たくて、だけど確かに、あたたかさを持っている。

その手のぬくもりを失いたくなくて、私は自分の手で包み込むように、ぎゅっと握り返した。


「怜人君……」


小さく名前を呼んだ。

聞こえていないかもしれない。

でも、言わずにはいられなかった。


昼間、怜人君が話してくれたことが、頭の中を何度も何度も巡る。


幼いころ、一緒に過ごした日々。

私が忘れてしまっていた、大切な記憶。

そして——怜人君の「余命」のこと。


現実はあまりにも重くて、胸を締めつける。


だけど、怜人君は言った。

「記憶が戻らなくてもいい。ただ、今の君に伝えたかったんだ」と。


その言葉が、今もずっと、心の奥であたたかく光っている。


——私は、どうしたいんだろう。


考えれば考えるほど、わからなくなる。

けれど、たったひとつだけ、はっきりしていることがある。


「……一緒にいたい」


心の中で、そっと呟いた。


怜人君の隣にいたい。

彼が笑う顔を見たい。

彼が話す声を聞きたい。

たとえ、限られた時間しかなくても、私は彼と、同じ瞬間を過ごしたい。


それが、私のたったひとつの願いだった。


窓の外に目を向けると、空はすっかり夜に変わっていた。


夜風に揺れるカーテンの音が、かすかに聞こえる。

病室の照明は柔らかく、怜人君の横顔を優しく照らしていた。


長い睫毛。

整った眉。

少しだけやせた頬。


こんなふうに、怜人君をまじまじと見つめるのは、初めてだったかもしれない。


「……怜人君って、やっぱり、かっこいいな……」


思わず、ぽつりと呟いてしまった。


もちろん、本人に聞かれたら、顔から火が出るくらい恥ずかしい。

でも、今だけは、許してほしい。


だって、私は——


もう、怜人君のことを、特別に思っているから。


手を握ったまま、私はそっと体を寄せた。

怜人君の体温を、すこしでも近くに感じたかった。


「怜人君……明日も、一緒にいようね」


小さな声で、耳元に囁く。


夜の静寂に溶けるように、その言葉は消えていった。


だけど、怜人君の指先が、かすかに動いた気がした。

まるで、私の言葉に応えるように——。


私は驚いて、そして、自然と笑みがこぼれた。


涙がにじみそうになるのを、必死にこらえながら。


——ありがとう。

——怜人君。


心の中で、何度も何度も、感謝の言葉を繰り返した。


この時間が、ずっと続けばいいのに。


そんな願いを込めて、私は目を閉じた。


怜人君の隣で、同じ夜を過ごせることが、これほどまでに愛おしいなんて、知らなかった。


病室の中は、やさしい静けさに包まれていた。


外では、星がひとつ、またひとつと夜空に瞬きはじめている。


ふたりだけの、小さな夜。


それは、誰にも邪魔されない、かけがえのない時間だった。






「怜人君、今日は一日だけ、私の時間をもらってもいい?」


その一言を聞いた瞬間、俺は少しだけ心が跳ねるのを感じた。しかし、その時の俺は、病室のベッドに横たわっている状態で、すぐにはその言葉に反応することができなかった。


「…え?」


七海の瞳が真剣だと感じた。彼女の声は、いつも以上に優しさを込めていた。その優しさが、逆に俺の心に刺さるようだった。


俺は少し目を閉じて、病室の静けさの中で思いを巡らせた。数日前、俺はちょっとした事故で倒れて、そのまま入院することになった。最初は大したことないと思っていたけど、結果的にちょっとした怪我が重なり、安静が必要だと言われた。


「俺、まだ退院できてないけど…」


俺はその言葉を口にしながらも、七海の顔を見つめる。彼女はその言葉をすぐに受け入れ、にっこりと笑った。


「うん、それは分かってるよ。でも、今日だけ、私と一緒に過ごせたら嬉しいなって思って。」


その笑顔に、俺は何も言えなかった。ただ、心の中で少しだけ、彼女が俺にかけてくれる優しさが温かいと感じていた。


「…まあ、いいけど。あんまり無理するなよ。」


七海はその言葉を受けて、嬉しそうにうなずき、もう一度俺の顔を覗き込んだ。


「じゃあ、今日は私が全部計画するから!怜人君、楽しみにしててね!」


彼女の言葉に、なんだか少しだけ心が軽くなったような気がした。確かに、病院の白い壁の中で過ごす日々は退屈だった。七海と過ごす時間が、きっと俺にとっても心の栄養になるだろう。


その後、七海は俺の部屋を後にし、しばらくしてから迎えに来てくれた。俺は医師に許可をもらって、少しだけ外出することができるようになった。もちろん、医師からは無理をしないようにと言われていたけど、七海の顔を見た瞬間、俺はその言葉をすっかり忘れていた。


「怜人君、行こう!」


七海は元気いっぱいに言うと、病院の出口に向かって歩き出した。その姿に、俺はつい追いかけるように歩みを合わせた。


「どこ行くんだ?」


「それは秘密♪」


七海は少しだけ得意げに答え、俺を連れて歩き始めた。普段の彼女なら、どんな場所に行くにしても計画的で冷静なところがあるけれど、今日はどこか楽しそうな、普段とは違った七海を見た気がした。


「ここ、どう?」


しばらく歩いた後、七海が指差した先には、ちょっとしたカフェがあった。外観はシンプルだけど、どこか落ち着いた雰囲気が漂っていて、俺はそのカフェを見て少し驚いた。


「こんなところにカフェあったんだな。」


「うん、最近見つけたんだ。落ち着けそうだし、今日はここでゆっくりしたかったんだよ。」


七海は嬉しそうに言いながら、俺を引っ張るようにカフェの中へと導いた。中は温かみのある木製の家具が並び、柔らかな照明が心地よい空間を作り出していた。


「ここ、いい雰囲気だな。」


「でしょ?たまにはこういう場所でゆっくりするのもいいかなって思って。」


俺たちは窓際の席に座り、静かな時間を過ごし始めた。七海は何かを楽しそうに話しながら、俺の顔をちらりと見る。その表情には、普段の冷静で頼りにされている七海ではなく、少しだけ不安げで、でもその不安を隠そうとするような素直な一面が見えた。


「怜人君、最近どう?」


急に七海が真剣な顔で俺を見つめる。


「…俺は相変わらずだよ。」


本当は、最近は少しだけ心の中に変化があった。七海のことを意識するようになったり、彼女と一緒にいるときに不安や緊張を感じたりもする。でも、それをそのまま言葉にすることができなかった。


「無理しないで、怜人君。無理して元気に見せようとしなくていいんだよ。」


七海の言葉に、少しだけ驚いた。俺は、無理しているつもりはなかったけれど、彼女はどうしてそんなことを言うのだろうか。


「そんなことないさ。」


でも、そう言って、また一口コーヒーを飲みながら、俺は心の中で少しだけ自分を見つめ直していた。


七海は少しだけ黙って俺の顔を見つめた後、笑顔を浮かべながら言った。


「怜人君、最近気になることってある?」


その問いかけに、俺は少し考え込む。実際、気になることはたくさんあった。でも、それを彼女に話すべきかどうかは迷った。七海があまりにも優しすぎて、時々それが重く感じる時もあったからだ。


「特に、ないかな。」


俺は軽く言ってみたけれど、心の中ではやはりどこかしら不安や悩みが残っていることに気づいていた。しかし、そんなことを口にすることが、彼女にとって負担になるのではないかと思うと、どうしても言えなかった。


「本当に?」


七海はもう一度、じっと俺を見つめてきた。その目が、少しだけ鋭くなる。まるで俺の心の奥を見透かしているかのような、そんな感じがした。


「…気になることがあるとしたら、それは」


俺はその言葉を口にするのを一瞬ためらった。七海の目が、どこか不安げに輝いている。そのまま言葉を続けるべきか、それとも黙っていた方がいいのか。迷いながら、俺は深呼吸を一つしてから、ようやく口を開いた。


「七海…お前、無理してないか?」


その質問を投げかけると、七海は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにその表情が和らぎ、また微笑みを浮かべる。


「無理してるわけじゃないよ。逆に、怜人君が無理してるんじゃないかって心配してたんだけど。」


その言葉に、俺は少し胸が痛んだ。七海が心配しているのは俺のことだと分かっている。でも、俺の本音は、少しだけ七海が心配しすぎているように感じていた。


「俺は、無理なんかしてない。ただ…」


ただ、七海が自分のことを気にしてくれているのが、ありがたくて嬉しい反面、少しだけ罪悪感が湧いてくる。それに、俺がこんなことを気にするのも変な話かもしれない。


「でも、七海、お前、あまり自分を犠牲にしすぎるなよ。」


俺は意を決して、言葉を続けた。これまであまり口にしたことがなかったけれど、今の俺にはどうしても言わずにはいられなかった。


七海は一瞬、少しだけ黙ってから、ふっと深く息を吐いた。


「怜人君…ありがとう。でも、私は大丈夫だよ。」


その言葉に、俺は安心するような、でも少し物足りないような不思議な感覚を覚えた。七海は、俺の気持ちを気にしてくれている。それは嬉しい。でも、俺はもっと自分のことを気にしてほしいと思っている自分がいた。


しばらく黙って、二人の間に静かな時間が流れる。カフェの中の静けさが、俺たちの会話を優しく包み込んでいる。


「ねぇ、怜人君。」


七海がふっと顔を上げて、俺を見つめた。その目が、少しだけ輝いているように見える。


「今日は、いっぱい楽しもうね。」


その一言が、俺の心にじんわりと染み渡った。彼女の言葉に、心からの温かさを感じると同時に、少しだけ不安な気持ちも感じていた。それでも、今はただこの瞬間を楽しむべきだと思う。七海が一生懸命に準備してくれたこの一日を、俺も大切にしよう。


「うん、分かった。」


俺は少しだけ笑って答えると、七海はその笑顔を見て安心したようににっこりと微笑んだ。その瞬間、まるで時が止まったかのように感じた。


その後、俺たちはカフェを出て、近くの公園を散歩することにした。病院から少しだけ離れた場所だったけれど、七海が選んだルートはとても穏やかな道だった。小さな花が咲いていて、静かな風が吹いている。こんな風景を七海と一緒に見られるだけで、心が落ち着くような気がした。


「怜人君、ほら、あのベンチに座ろう。」


七海は公園の隅にあるベンチを指さして、嬉しそうに歩み寄っていった。俺も彼女に続き、そのベンチに腰を下ろす。


「こうやって、二人で過ごす時間が、やっぱり一番だね。」


七海の言葉に、俺は少しだけ驚きながらも、心の中でそう思った。確かに、今日の一日は特別だと感じる。病室にいる間は退屈で仕方なかったけれど、七海とこうして過ごしていると、時間がゆっくりと流れていくように感じる。


「あぁ、そうだな。」


俺はその一言を返すと、少しだけ彼女の顔を見た。七海は、何も言わずにそのまま静かに微笑んだ。


俺たちはしばらくその場で過ごし、やがて夕方になった。空の色が少しずつ変わり、昼間の明るさが次第に落ち着いていく。


「そろそろ病院に戻らないとね。」


七海が少しだけ寂しげに言った。その顔には、ほんの少しだけ名残惜しさが浮かんでいた。


「あぁ、もう戻らないとな。」


俺も同じように感じていたけれど、この一日を大切にしたいという気持ちが強かった。七海と過ごす時間が、どんなに短くても、心から幸せだと感じていたから。

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