56. 血の色のワイン

「美しいですね」


 大きな満月を背負って、濃紺の夜空に浮かび上がる真っ黒な塔。蔦に覆われているせいで、その輪郭はぼやけている。


「荒城だ。もう長いこと、修繕費どころか維持費すら入っていない」


 城壁に囲まれた丘にそびえ立つサウサンプトン城。かつては対フランス要塞として重用されたが、その栄光を失って久しい。


「現役なのは、この貯蔵庫だけさ」


 城壁にはめ込まれた黒く大きな扉は、王城へ続く地下貯蔵庫への入り口だった。内部には蜜蝋燭が灯され、思ったほど暗くない。


「高級品だぞ」


 ぎっしりと並べられた大樽の一つを、リズリーが得意げにトントンと叩く。すると、従者がすぐにデカンタで試飲用のワインを持ってきた。


「特別にお前に飲ませてやる」


 グラスに注がれるとろりと濃厚な赤ワインは、薄暗い照明の下では血のようにどす黒く見えた。従者を下がらせてから、リズリーが気楽な調子でウィルに話しかける。


「邪魔して悪かったな。ギル様と一緒だと思ってたんだ」


「いくらなんでも、子連れで女を買ったりは……」


 バツが悪そうに目を逸らすウィルに、リズリーは自然と笑顔になる。この二人の間には、身分を越えた友情に似た何かが存在していた。


「それにしても、果樹園宿舎にお前たちを呼ぶとはな。老乳母殿はよほどアンの処遇が気に入らなかったらしい」


「アン……、ウェイトリーですか?」


 思わず身を乗り出したウィルのグラスからワインがこぼれ落ちた。その余裕のない様子から、ウィルがまだアンを忘れられずにいると、リズリーは確信する。


「最近まであそこで暮らしていた。今は行方が知れない」


 カソリック貴族とメアリー・スチュアートの『ジェーン』狩りの囮として、アンを外国船に渡る小舟に乗せた。リズリーはその事実だけを伝える。

 

「アンは国から重要な使命を賜った。生死に関わらずジェーン様の身代わりを全うせよと」


 グラスを持つウィルの指が微かに震えた。それを王家への憤りと取ったリズリーは、急いでいい添える。

 

「しかし、それはジェーン様の望みではない」


 動揺を隠すために、ウィルはグラスに口をつけた。ウィルが落ち着くのを待ってから、リズリーは先を続ける。


「だから、アンには別の選択肢も与えたんだ」


「別の……?」


「ジェームズ6世の人質」


 卑怯な手段だが、ウィルもその有効性をよく知っている。アンもまた、ジェームズ6世を救うために何もかもを捨てる覚悟で、ウィルに己のすべてを捧げようとしたのだ。


「あの方は女を愛せない。アンだけが例外だ」


「なぜ……」


 ウィルは愚問に気が付いて口を噤んだ。それが愛の呪いでなければ、アンが人質になどなりえない。


「アンを死んだことにして、デンマーク王家に預ける予定だった」


 先の宗教改革でデンマークはプロテスタントを国教にしていた。しかも、第二王女はジェームズ6世の婚約者。

 

「未来のスコットランド王妃に仕え、いずれは主の代わりに後継者を産む。それが彼女の人質としての価値だ」


 王妃の侍女が王の愛人になることは珍しくない。女王の父ヘンリー8世の妃は、六人中三人が王妃の侍女だった。


「ジェーン様が、アンにそんな日陰の生き方を勧めるとは思えません」


「そうだな。だから、アンに選ばせたんだ」


「選ばせる?」


「嫌なら海に飛び込め……と」


 ウィルが息を飲む。リズリーは『白いコートを着て』という指示だけを、敢えて口にしなかった。


「アンは内陸育ちです。泳げるわけがない。それは死ねということです」


「否定はしない。だが、すぐに助けられるように商船を待機させていた」


 打ち上げられた外国船の乗組員たちも、その船の存在を認識していた。


「アンに従ったのは私の部下。そのときは逃亡の援護をするように命じてあった」


「それなら、アンはなぜ行方不明に?」


「嵐だ」


 リズリーは突然襲ったあの夜の嵐について、かいつまんで説明した。悪魔の所業という目撃証言も交えて。


「船で何が起こったのかは分からない。ただ、女が海へ飛び込んだと船員が証言している」


「それがアンなんですか?」


「死体はあがっていない。嵐が持っていってしまった」


「……テンペスト


 ウィルはそう呟いてから、そのまま黙って考え込んだ。リズリーは気まずさを紛らすように、そっとワインを口に含む。


「お前は魔女や霊を信じるか?」


「アンを助けてくれたのなら、なんであっても感謝します」


「そうだな……」


 たとえ生きて外国に渡ったとしても、アンは海で死亡したと王家に報告した今となっては、もう彼女はこの世には存在しない人間。その消息を尋ねることはできない。

 

「アンの行方を知っているのは、この計画を遂行した秘書長官スパイ・マスターだけ。だが、ジェームズ6世にはアンの生死を知らせているはずだ」


 アンの身を案じるジェーンと残されたメアリアンのために、リズリーには真実を知る必要があった。


「お前に頼みがある。いずれ『女王の子』は死んだとされる。その報をいち早くジェームズ6世に届けてほしい」


「私が?」


「もし彼が僅かでも動揺を見せたら、それはアンの消息を知らないという証拠だ。お前なら見逃すまい」


「しかし、私はもう陛下に拝謁できる身では……」


 リズリーは懐から皮袋を取り出した。そこには純白のレースに包まれた、アメジストのブローチが入っている。ウィルがジェームズ6世から下賜され、ジェーンに託してアンへ贈った品だった。


「お前に返してくれと。いつか望みを叶える日のために」


 アンを口説くためにウィルが語った夢物語を、彼女はずっと疑うことなく信じていた。その事実にウィルは強く唇を噛む。


「分かりました。ご指示をお待ちいたします」


 ウィルはそう言ってから、一気にグラスのワインをあおった。血のように赤いワインは微かに血の味がする。それが噛み切った唇から流れでたものだとは、ウィルは気付いてすらいなかった。

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英国チューダー朝 最後の継承者「予言の子」とケルト神殿の巫女「宿命の乙女」 日置 槐 @hioki-enju

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