46. 農夫の器

 なだらかな傾斜がついた牧草地に、こんもりとしたHaystack干し草の小山がぽつぽつと置かれていた。初夏のうちに刈り取って乾燥させたHayわらは、夏の太陽の黄金色を保っている。やがて秋の雨に打たれてその表面は灰色にくすむが、中は腐ることもなく冬の家畜の飼料となる。


「本当に農夫には向かない人だねえ」


 窓から見える不格好なわらの小山に、アグネスはため息をつく。湿気が入り込まないようにするには、茅葺屋根かやぶきやねのように隙間なく藁を積む必要がある。その熟練の技は商家生まれの男には期待できなかった。ましてや、演劇で城勤めをするような夫には。


「そこはもういいから、干し草車を片付けて」


 妻の声に応えて、夫は三又すきを下ろす。夕日の逆光に浮かぶスッキリとした姿は農夫のものではない。そして、車を曳く牛をうまく操れずに悪戦苦闘している様子もまた、農家で育った者ではありえなかった。


「やっぱり、あの人には無理なんだろうね」


 アグネスは揺りかごに眠る赤子に話しかける。高貴な血を受けた娘は、生母よりもむしろ養父に似ていた。神の子を産んだ聖母も、こうして夫の献身に胸を痛めたのだろうか。アグネスはそんなことを考えながら、赤子をそっと抱きあげる。


「あの人はさ、農家に収まるような人じゃないんだよ」


 母の胸に抱かれた赤子は、乳の匂いを嗅ぎつけて目を覚ました。その小さな口元に乳首をあてがうと、夢中でそれに吸い付く。


「お前は父親似だね」


 アグネスは乳房に張り付く娘を見下ろして、かつて同じようにその胸にむしゃぶりついた男の涼やかな目元やスっと通った鼻筋を思い出す。男たちに散々愛された豊かな胸も、今はただ赤子の食となった。女を狂わせた愛欲も、母性の前には鳴りを潜めている。


「奥様はどうしているだろう……」


 アグネスは抱いていた懸念を口にした。ここ数日、商人たちが馬を買い付けている。繁殖期の種付けも終わるこの季節に、牡馬ほばの需要があるというのは珍しい。軍馬を調達しているのなら、それは戦に備えてということだった。その昔『薔薇戦争』ではこの辺りも戦場となった。農家からも男たちが傭兵として招集されたと伝えられている。


「男は外で戦い女は家を守る。それが人の倣いなんだよ。今も昔も……」


 たっぷりと乳を飲んで眠ってしまった娘に、アグネスは言い聞かせる。


「母さんはお前だけで十分だ。だから、行かせてやろうね」


 アグネスは赤子を揺りかごに戻してから、急いで納屋に向かった。そこには使わなくなった馬用の鞍が放置されている。表面の土埃を払い、布で牛脂を薄く塗れば、それはかつての輝きを取り戻した。


「これでいい。あとはあの人だね。ぐずぐずと優柔不断なのは昔から。私が尻を蹴り上げてやんなきゃ」


 楽しそうな声色とは裏腹に、アグネスの目は微かに露を含んで潤んでいた。まだ十代の夫は浮気性で、その愛は全く頼りにならない。しかし、娘の父親になってくれたことに、アグネスは少なからず感謝していた。


 その夜、いつものように飲みに出かける夫をアグネスは呼び止める。当時の酒場は宿屋にあり、そこは旅人を泊めると同時に商売女を連れ込む場所となっていた。


「今夜も遅くなる?」


 夫は曖昧な口調で答えをぼかす。以前なら相手の女次第だろうと勘ぐったが、ここのところ夫からは女の匂いはしない。


「旅人から話を聞いてるんだってね」


 町で売春婦に身を落としているのは、私生児を産んで生家を追い出された貧しい農村の娘ばかり。アグネスと懇意にしていた同世代の女もいる。彼女らと表立っての付き合いはないが、女たちの情報網は広かった。


「戦があるんじゃ? 奥様は大丈夫なんだろうね」


 歯切れの悪い夫の返答。詳しいことは分からないが、各地で兵が集められているのは事実。地名を聞けば、城を遠巻きに囲んでいることは明らかだった。


「奥様の無事を確かめておくれよ。まだお城に伝手つてはあるんだろ?」


 伝達係メッセンジャーから従者。そして、劇作家として城に仕えたアグネスの夫。城内には彼の才能を惜しむ者が多かったと聞く。それを押し切って去ったことを思えば、簡単には戻れない気持ちは理解できた。


「奥様は恩人だよ。本当なら殺されたって文句言えなかったんだ」


 あるじの愛人を寝取った従者と、あるじの子を身ごもった女中。その罪を許されて平和に暮らせるのは、あるじの正妻ジェーンの采配があってこそだった。


「私らのことは気にしなくていい。どうか奥様のために……」


 そう言っても、アグネスの夫はまだ決断できない。義兄から譲られた畑の収穫が気になるせいだった。変なところで律儀な夫に、アグネスは口元を緩める。


「ばかだねえ。人妻の色気があれば、男手なんていくらでも調達できるさ」


 おどけた仕草で腰をくねらせる妻に、夫も思わず笑みを浮かべた。アグネスが誰と寝たところで、この夫は怒りもしないし、子ができれば家族として養うだろう。作家である夫にとっては作品こそが我が子。家族には血の繋がりより縁を尊んでも不思議ではない。


「馬に乗ってお行きよ。奥様の無事を確認するまで、絶対に戻ってくるんじゃないよ」


 妻にたきつけられて、夫はようやく決心がついたようだった。温かい別れの抱擁に、アグネスの目頭が熱くなる。これを最後に、夫とは二度と会うことはないかもしれないのだ。


「もう行きなよ。今から出れば暗くなる前に城に着ける」


 晩夏の日はまだ落ち切っていない。久しぶりに見た馬にまたがる夫は、惚れ惚れするほどの美丈夫だった。


「やっぱりあんたには、牛よりもそっちのが似合うよ」


 夕闇に吸い込まれた夫の後ろ姿に向かって、アグネスはそうつぶやいた。そして、母を求める娘の泣き声に気がついて、急いで家の中に入っていく。


 劇作家シェークスピアが次に史実に登場するのはこの二年後。妻アグネスが産んだ双子の洗礼式に、彼らの父親として立ち会うときとなる。それまでの彼の動向は歴史には残っていない。

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