10人目『鮮魚飛脚』王宮への疾風魚便~リート

 *4400文字


 ■序章:魚飛脚という生業


 夜明け前の冷えた空気を切り裂き、リートは必死に石畳を駆け抜けていた。

 

 朝陽がまだぼんやりと市場を照らし始めたばかりの時間。彼の肩には魚籠(びく)が揺れ、わずかに漏れ出る新鮮な魚の匂いが鼻をつく。それは市場の喧騒と海の息吹を詰め込んだ、彼の命そのものだった。


 リートの息は白く霧散し、荒い呼吸と靴音だけが静まり返った街路に響く。

 だが、足元はおぼつかない。彼の靴は泥にまみれ、ところどころ穴が開いていた。それでも走る。

 

 王宮の調理場へ――新鮮な魚を届けるという使命のために。

 だが、駆け出しの彼にはまだ、速度も技術も足りなかった。今日もきっと、また追い抜かれるのだ。


「ちくしょう、なんであいつばっかり……!」


 その「あいつ」、ガルドの姿が頭をよぎる。市場で「稲妻」と名高いライバルの魚飛脚。彼は長身で風を切るような身のこなしを持ち、キザな笑みを浮かべながらリートを嘲る。


「お前じゃ一生、俺には追いつけねぇよ」

 耳に残るあの声。言葉だけでなく、走るたびに背中で語る圧倒的な差。それがリートを苛立たせ、心の奥に火を灯す。


 悔しさに駆られ、彼はペースを上げる。

 だが、無理がたたって転倒するのはいつものことだ。激しく転がった魚籠の中から魚が跳ね出し、無残に石畳に散らばる。彼は泥だらけの手で慌ててそれを拾い集めた。

 傷ついた魚を見つめながら、悔しさが胸を焼き付ける。


「こんなんじゃ……俺はダメだ。」


 立ち上がる彼の黒髪は短く乱れ、その瞳にはまだ諦めない光が宿っていた。リートは負けず嫌いだった。泥にまみれたって、挑み続ける意志だけは誰にも負けなかった。


 遠くでガルドの笑い声が聞こえた気がする。

 その背中を見失わないように、リートは再び走り出した。石畳がどれだけ冷たかろうと、道がどれだけ険しかろうと、止まるわけにはいかなかった。


 彼の夢――「魚飛脚として一人前になる」という目標が、まだ彼を走らせていたのだから。


 ■第一章:幼馴染の調理場


 朝陽が王宮の尖塔に輝きを放ち始める頃、調理場はもう賑やかだった。

 切る音、煮る音、混ぜる音が忙しないリズムを刻む中、一人の若い女性が手際よく食材を捌いていた。ミーナだ。

 栗色の長い髪をきっちりと三つ編みにしてまとめたその姿は、忙しさの中にも凛とした美しさが漂う。彼女は王宮で働く料理人であり、月曜日の調理番を任される腕前を持つ若手のホープだった。


「リート、またやっちゃったの?」


 ミーナの視線の先、石畳の通路に座り込む少年がいた。

 市場から魚籠を担いで走ってきたばかりのリートだ。彼の靴は泥まみれで、服には魚籠から滴った水が染みている。顔には悔しさと焦りが交じるが、彼特有の陽気さがどこか残る表情だった。


「ちょっと坂道でな、石がゴロついてて…」

「また言い訳?」

 ミーナがため息をつきながら眉を寄せる。

「新鮮な魚を届けるのが仕事なんでしょう? 台無しになったらどうするのよ。」


 彼女の声には呆れの色が滲んでいたが、その奥には彼を思う気持ちも隠れている。リートの不器用な努力を知るからこそ、つい厳しくなってしまうのだ。


「うるせえな、次はちゃんと届けてやるよ!」

 リートは負けずに言い返すが、その言葉は少し空回りしていた。


 ミーナはふっと笑みを漏らした。

「本当に届けられるなら、明日の魚も期待してるわよ。でも、もう少し自分の足元を見なさい。魚だけじゃなく、自分も大事なんだから」


 彼女の言葉に、リートは一瞬目を見張った。

 彼女が彼を励ましているのだと気づいたのだ。ミーナにとってリートは幼馴染以上の存在であり、彼が成長する姿をそばで見たいと思っていたのかもしれない。


 その日の魚は少し傷んでいたが、それでもミーナは丁寧に調理し、厨房をまとめる皆の前でリートが運んだ魚を使った料理を仕上げた。

 その姿を廊下の片隅で見つめながら、リートは小さく拳を握りしめる。


「次は絶対に最高の魚を届けてやるからな、ミーナ」


 彼の声は小さく、調理場の喧騒の中に消えたが、その瞳に宿る決意は鮮やかだった。幼馴染への感謝と、彼女への想いが彼の背中をそっと押していた。


 ■第二章:師匠との出会い


 冷たい朝の風が吹く市場の通りで、リートは魚籠を担ぎながら全力疾走していた。路面の小石が足元に当たり、危うく転びそうになったとき、ふと鼻先を刺すような潮の香りが強烈に漂ってきた。


「おい、若造。そんな走り方じゃ魚が泣いてるぞ」


 低く響く声に振り向いたリートの目に飛び込んできたのは、年老いた男が巨大なマグロを解体している姿だった。その手捌きは魔法のように滑らかで、まるで魚が自ら切り分けられていくようだった。


「なんだあの人……」

リートは思わず立ち止まった。


 男の名はハーロッド。

 かつて「海獣のハーロッド」と恐れられた伝説の魚飛脚である。

 大柄で筋骨隆々、白い髭が豊かにたなびき、その瞳はまるで深海のような青を宿していた。見た目の威圧感とは裏腹に、その仕草や表情からはどこか親しみやすさが漂っていた。


「見入ってる暇があんなら、走り方を見直せ。魚飛脚は速さだけじゃ務まらねえ。魚を愛し、無駄なく届ける。それが俺たちの仕事だ」


 その言葉にカッとなったリートは思わず言い返した。

「速さが全てだろ! 遅れたら新鮮さも意味がない!」


 ハーロッドは一瞬だけリートを見下ろし、笑い飛ばした。その笑みには余裕と深い理解が滲んでいた。


「ガキの浅知恵だな。でもまあ、俺も昔はお前みたいなもんだった」

 そう言って、ハーロッドはマグロの中骨を片手で軽々と持ち上げた。

「お前がどれだけ速く走ろうが、届けた魚が傷んでりゃ話にならねえんだよ。見ろ、この身の光り方。これが職人の誇りだ」


 リートは言葉を失った。目の前のマグロの切り身は、銀色の肌が陽光を反射し、まるで宝石のように輝いていた。それを見て、リートの胸の奥に何かが芽生えた。


「俺にも……それができるのか?」


 リートの呟きに、ハーロッドは真剣な眼差しを向けた。

「やる気があるなら教えてやる。ただし、三日坊主の若造なら今すぐ帰れ」


 その日から、リートの特訓が始まった。


 ハーロッドの教えは厳しく、しかし愛情に満ちていた。

「魚籠はただ担ぐんじゃねえ。魚の命を抱えてると思え」

「走るんじゃなく、魚と一緒に風になるんだ」

 そんな彼の言葉一つひとつが、リートの心に深く刻まれていった。


 疲れ果てたある日の夕暮れ、リートが倒れ込むと、ハーロッドはそっと手を差し伸べた。

「よくやったな。だが、これはまだ序の口だ。魚飛脚ってのはな、ただの配送屋じゃねえんだ。俺たちは人々の食卓を支える、命を繋ぐ者だ。それを忘れるな」


 その背中には、海と魚、そして人々への深い敬意が刻まれていた。リートはその日、初めて魚飛脚という仕事の本当の意味を理解した気がした。そして、ハーロッドのような「本物」になると心に誓ったのだった。


 ■第三章:決戦の日


 朝靄が薄く晴れる市場の片隅に、リートは緊張した面持ちで立っていた。今日は決戦の日。

 相手は市場でも「稲妻」の異名を持つガルドだ。


 ガルドは見上げるような長身で、すらりとした脚が特徴的だった。彼の動きは常に無駄がなく、リートにはまるで王宮の調理場までの道筋を知り尽くしているかのように見えた。彼は薄く笑い、肩にかけた魚籠を軽々と揺らしてみせた。


「リート、お前が俺に勝つつもりなら、まずその足の遅さをどうにかしないとな。ま、俺に追いつけるならの話だがな」


 挑発的な言葉にリートは歯を食いしばった。だが、今日はいつもとは違う。師匠ハーロッドからの教えを胸に、自信を深めていたのだ。


「速さだけじゃない。俺の魚は、絶対に新鮮なままで届けてみせる!」


 市場の鐘が鳴り響き、勝負の幕が切って落とされた。


 市場を抜けるとすぐに混雑した大通りが広がる。人々や荷車の間を縫うようにして走るガルドは、その軽快さで群衆の隙間をスムーズに抜けていった。リートも懸命に追いすがるが、ガルドとの距離は少しずつ広がっていく。


「くそっ、あいつ速すぎる!」


 焦るリートに、ハーロッドの声が脳裏に蘇る。

「魚飛脚に必要なのはただの速さじゃねえ。魚を守るための技術を忘れるな」


 深呼吸をし、魚籠の重心を安定させる。

 それで魚に直接走りの衝撃が加わらなくなった。

 無駄な動きを減らすことで、リートは少しずつペースを取り戻していった。


 王宮への道には急な坂道が待ち構えていた。ここは勝負の鍵を握る難所。ガルドは坂道をものともせず駆け上がり、振り返ることもなく先を行く。


 リートも後を追おうとするが、坂の途中で足が滑り、危うく転びそうになる。だが、ハーロッドに教わった「重心移動」の技術が功を奏し、なんとか持ちこたえた。


「負けてたまるか!」


 体力の限界を感じながらも、リートは坂を駆け上がる。その目には王宮が遠く小さく見えていた。


 突然、空が暗くなり、大粒の雨が降り始めた。道路は滑りやすくなり、魚籠に降り注ぐ雨が鮮度を脅かす。ガルドは魚籠に布をかぶせる余裕もなく、速度を保つことに集中していた。


 一方、リートはとっさに自分の上着を脱ぎ、魚籠に覆い被せた。雨粒を遮ることで、魚が傷むのを防ぐためだ。


「時間がかかってもいい。鮮度を守るんだ!」


 雨の冷たさがリートの体を貫くが、彼は歯を食いしばり、走り続けた。その姿は必死で、観客として集まった市場や王宮の人々の心を打った。


 最後の直線。王宮の門が見えてきたところで、ガルドとリートの距離がほぼ並ぶ。ガルドは振り返り、驚いた表情を浮かべる。


「こいつ、本当に追いついてきやがった……!」


 二人は一歩も譲らず、泥だらけになりながら全力で駆け抜ける。リートの脳裏には、ミーナの笑顔と「新鮮な魚を待ってるよ」という言葉が浮かんでいた。


「俺は、俺の仕事を全うする!」


 最後の一歩でリートが先に飛び込み、王宮の調理場に到着した。



 ガルドが悔しそうに肩で息をしながらリートを見た。彼の魚は雨で少し傷んでしまっていたが、リートの魚は新鮮なまま無傷で届けられていた。


「お前、やるじゃねえか……次は負けねえぞ」


 ガルドは悔しさをにじませながらも、清々しい笑みを浮かべていた。一方、リートは泥まみれになりながらも、勝利の喜びに浸っていた。


「俺は魚飛脚だ。この魚を無事に届けるために走ったんだ!」


 ミーナが彼を迎え、彼の魚を見て感嘆の声をあげた。


「リート、最高よ!」


 雨の中の激闘を乗り越えたリートは、魚飛脚としての誇りを胸に、師匠ハーロッドの教えに報いることができたのだった。


 ■エピローグ:新たな旅立ち


 勝負に勝利したリートは、市場や王宮での評判を高め、正式な魚飛脚としての第一歩を踏み出した。

 ハーロッドからの最後の教えを胸に刻み、彼は「ただ速さを追い求めるのではなく、誇りを持って魚を運ぶ」ことを信念に働き続ける。


 一方、ミーナはリートの成長を見守りながらも、彼に対する想いを自覚し始めていた。

 市場と王宮を繋ぐ物語は、二人の関係も新たな展開を迎えようとしていた――










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