卵の手帖―卵が結ぶ暮らしの記録―
FUKUSUKE
オカンとの思い出
第1話 ニラ玉・オカンの背中
ご近所には現金しか使えないが、とにかく安いスーパーがある。その店頭ではニラが二束百円で売られていた。
その緑の束を見て、中学生のころのことを思い出す。
「あんた、晩ごはんは何がええんや?」
「ニラ玉でええよ。なんやったら、毎日でもええくらいや」
十六時――オカンが晩ごはんのおかずを何にするかで悩む時間帯だ。いつものように、オカンはボクにヒントを求めてきた。けれど、ボクはそのころ、ニラ玉にどっぷりと嵌っていた。
卵を美味しく食べる方法は数あれど、ごはんが進むおかずの中でボクにとってはニラ玉が一番だった。ニラの香りと卵のふんわり感、それに醤油をたっぷりとかけて白米と一緒に頬張る幸せ。これ以上のごちそうはなかった。
「ふうん、わかった。あんたはニラ玉な」
「やったー!」
今から四十年ほど前のことだが、オカンの声まで脳内に響いてくる。
面倒臭がりのオカンにとっては、ニラ玉だけを作ればいいから気が楽だったに違いない。
塾へ行く前、オカンが手早く作ってくれるニラ玉を白米と一緒に胃袋に納める。それがボクの活力源だった。
「好きな食べ物は?」
「うーん、やっぱニラ玉かな」
クラスメイトにたずねられて答えた記憶もある。
「たかがニラ玉」と思われるかもしれないけれど、中学三年間でボクが最も多く食べた料理は間違いなくこれだ。
身長は百七十五センチ、当時は体重六十五キログラムで筋肉質だったボクの身体を支えたのは、その平凡な料理だった。
ボクはオカンがニラ玉を作るのを近くから眺めていた。
材料はシンプル。ニラ一束に鶏卵を二つか三つ。あとは炒めるための胡麻油とサラダ油を大さじ一杯ずつ。
フライパンに胡麻油とサラダ油を入れて火にかけて、その間にニラの根元を二センチほど切落し、続けて全体を四センチ幅に切る。
ニラを切るザクッという音、台所に立つオカンの背中。フライパンから広がる香りが、空腹なボクの胃袋をさらに刺激する。
フライパンの油が馴染んだらニラの白い部分を先に入れて炒め、続けて葉の部分を加える。
フライパンの中からニラのいい香りが広がり、葉が油を吸って色濃くなってきたところで卵を割り入れる。卵を潰しながら、ニラと一緒に固まるように混ぜ合わせ、固まったら皿に盛りつけてできあがり。仕上げに醤油をたっぷりかければ、完成だ。
ニラの風味と、油の旨味を吸い込んだフワフワの卵。そこに醤油の味が染み込むことで、一気に味が豊かになる。ニラを噛むシャクシャクという音、歯ざわり、口の中でとろりと解ける卵、舌の上に広がる甘味や塩味、旨味……口いっぱいに頬張った白いご飯と共に何度も噛んで、ごっくんと喉を鳴らして飲みこむ。
あの瞬間がたまらなく好きだった。
先日、オカンは八十七歳で鬼籍に入った。死因は心不全だが、胆管にがんも見つかっていて、徐々に進行していた。更には認知症が進んで料理なんてできる状態になかった。いずれにしてもオカンの作るニラ玉は二度と食べられない。しかし、ニラ玉の香りを嗅ぐと、不思議と台所に立つ彼女の姿が目に浮かぶ。
オカンはいつも忙しく、料理も時短優先だったはずだ。それでも、ボクの「ニラ玉が食べたい」というリクエストに応え、毎日作り続けてくれた。その手際の良さ、香り、味は今も鮮明だ。ニラ玉はただの料理ではない。あの頃のオカンとボクをつなぐ、大切な記憶の象徴だ。
二束のニラを買って帰り、オカンが作ったとおりの手順でニラ玉を作る。こうして、ニラ玉を作るたび、ボクは少年時代に戻る。オカンの声、台所の音、そしてその温かさが、今もボクの中で蘇る。
【ニラ玉の作り方】
<材料>
・ニラ …… ひと束
・鶏卵 …… 三つ
・ごま油とサラダ油 …… 各大さじ一杯
<作り方>
1.ニラの根本部分を二センチほど切り落とし、全体を
四センチ幅に切る。
2.フライパンにごま油、サラダ油を入れ火にかける。
3.油が馴染んだらニラの白い部分を炒め、続けて葉の
部分を加える。
4.ニラの葉に火が通り、濃い緑色になって香りが立っ
たら卵を割り入れ、菜箸で油を含ませるように混ぜ
炒める。
5.全体に火が通ったら皿に盛り付け、醤油をたっぷり
かけて食べる。
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