第31話

 秀治が沙織と付き合い始めたことに、奇異の眼差しを送らない者はいなかった。不良とまでは言わないけれど、どこか全体からはみ出したような雰囲気を纏う秀治と、大人しいけれど素直でなんの屈託もなく皆に接する沙織。そんな二人の取り合わせは奇妙なものに映ったようだ。

 

 けれど、秀治にはそんな好奇の視線すら祝福に感じられた。自分に向けられる他人の視線の奥に、どんな思いが詰め込まれていようと、そんなものは秀治に届きはしない。得られたものの大きさが何もかも打ち消してくれる。


 二人が会うのは決まって図書室、それも、本棚の林の奥。やることはいつも一緒で、沙織の好きな本の話を秀治がひたすら聞くばかり。彼女の語る本の話題は、どれも秀治には一生縁のなさそうな小説の話。名前くらいは聞いたことのある現代小説の話を語る日もあるけれど、ほとんどは教科書の中でしか知ることのないような古典文学のことで占められていた。


 それでも、秀治は退屈することなどなかった。沙織と過ごす時間がそうさせていたのかもしれない。好きなことを語る沙織の姿をただ見ているだけなのに、なぜだか満ち足りた気分になる。


 何より沙織の豊かな語りは、文学など頭の隅にもなかった秀治の世界に、別の世界への道筋を接ぎ木した。二人の時間が仕掛けた魔法の力だけが、秀治をこの場に留まらせているのではなかった。そして、彼女が秀治の中へ書き足していった新しい世界の一頁ずつが、一層沙織との時間を特別なものにした。


 沙織の勧めてくれる本たちを、秀治はまだ読みこなせないけれど、それでも頁一枚ずつを埋め尽くす縦の羅列を目で追うだけで、少しだけ自分の世界が広がって、その先に待つ沙織の世界に近づいているような気持ちになった。


 そうやって学校での二人の時間を過ごし、そして放課後は途中まで一緒に帰りながら、その日の出来事をフィードバックするように二人で語り合った。無理をしていないかと、最初は心配そうに尋ねていた沙織も、自分のことを理解しようと努力してくれる秀治に一層気を許すようになった。


 周りが思うよりも浅くて穏やかな関係をうろうろとしているばかりの秀治と沙織だったけれど、そうやって自分たちのペースで少しずつ関係を深めていける方が、秀治には心地良かった。秀治だって、あと少しの勇気と、勢いと、他人様に見せてもいいような家さえあれば、沙織を招きたいと思わないでもなかった。いや、思っていた。


 けれど、たとえ彼女を誘う勇気を振り絞ることが出来たとしても、自分の家に招き入れることなんてとても出来ない。隣室の吉岡さんのおかげで、掃除や洗濯その他の家事は随分行き届いてはいるけれど、あの狭いアパートに沙織を招くのはどうしたって気が引ける。ダイニングキッチンと六畳の居間兼寝室しかない部屋、しかも、今は姉が始終そこを占有して、一日中何をするでもなく横になっている。


 当然、自分の部屋なんてもっていない秀治に、沙織を招いたところで二人だけの空間を確保できる場所などなかった。


 沙織はそのあたりのことを理解してくれているのだろうか、そもそも、彼氏の家に誘ってほしいと思っているのだろうか、まだ付き合い立てだし、そんなことなど考えてもいないだろうか、もやもやしたままの思考を秀治は持て余していた。


 家には招けないけれど、アルバイト代も入ったし、どこかに出掛けることは出来る。そう思って自分を奮い立たせるけれど、今度はどこへ連れていけば沙織は楽しいだろうかと頭を悩ませる。そして、まだそこまで沙織のことを良く知らない自分に気付かされ、焦りと落胆に苛まれる。そんなことを、このところずっと繰り返していた。


 それでも、学校ではいつもどおり図書館でおちあい、本の話をして、そしてそれ以外の他愛ない話をして、放課後は一緒に帰っての日々を繰り返していた。お互いにそれだけで充実していた。


 そんな日々と並行するように、秀治のなかから舘岡雄樹の存在はほとんど消えてしまいかけていた。少なくとも、意識的に雄樹のことを思い出そうという気持ちは秀治から取り去られていた。


 まだあいつはこの学校にいるのだろうか、クラスが違うから、接触する機会すら限られているうえ、休み時間も放課後も、あいつの為に割ける時間なんてもう無い。そもそも、時間を割いてやろうという気持ちすら無い。この学校に雄樹がまだ存在しているのかどうか、それすら、秀治は関心がなくなっていた。


 それでも時々、まだ雄樹と二人でつるんでいたらどうなっていたろうと考えることがある。きっと、相変わらず二人で小さくなって、傷を舐め合いながら過ごしていたのだろう。


 想像して、身震いする自分がいた。俊達とは必ずしも心許せる友人関係とは言えなかったけれど、いつの間にかクラスの中心にいた俊や克己(健は、クラスの少しはぐれた位置にいるように秀治には思えた。本人は認めないかもしれないけれど)とつるんでいれば、必然的に同じ位置に秀治も置かれるようになる気がした。


 好んでクラスの中心にいたいとは思わない、そんな風にうそぶいてはみても、結局、本音では悪い気持ちはしない。自分のクラスでの立ち位置やステータスに目を向けることは、集団の中で生きる人間に宿命的に付いて回る呪いのようなものだし、そこから自由になれる者なんて、きっといない。高校生であろうと、大人であろうと。


 ただ、軽薄そうに見えても却ってそれが親しみやすく感じられる俊や克己に比べ、秀治は近寄りがたい人間に見られているかもしれない。それはそれで仕方がないし、秀治にはどうしようもなかった。俊の友人にはなれても、俊のようにはなれない。


 そうであったとしても、クラスの中でなんとなく一目置かれる存在になっていると思えるのは、仮に自分の勘違いであったとしても、悪くはなかった。


 恋人が出来て、クラスの輪の中、それもかなり良い位置に入り込めて、それなりに充実した高校生活を送れるようになってきた秀治には、だから雄樹の記憶は捨て去ってもいい、むしろ切り離してしまいたい出来事になっていた。


 そんな風に考える自分を、秀治は冷たいとも、酷いとも思わなくなっていた。

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