第3話 葬

「よろしかったのですか?」


 独特の香りに包まれる家屋から離れて一人庭で佇む女性に、背後から男性が声を掛ける。男性はダークスーツ、一方の女性も黒喪服の和装という服装から、行われている式とその式における女性の席次が少なからず推察できる。


「何がですか?」

 振り返った女性はまだ若く、二十歳前後だろうか。泣き腫らしたのであろう目をしている。


「いえ。財産も何もかも要らない。その原稿さえあればいいと仰られていたので」

 男性は、女性が唯一手にしている封筒を手で指し、問いかけた。

「そうでも言わなければ、この原稿すら、あの人たちに奪われてしまいますから」

 女性は封筒を胸に強く抱き締める、とても大事そうに。

「……そうですね。それは先生の遺稿ですから」


 静寂。

 どちらとも意識して合わすこと避けているのか、視線がねじれの位置を描く。

 少しした後、溜息を一つ漏らして口を開いたのは女性の方だった。


「結局先生は、私のこと、なーんにもわかっていなかったのよ。私が欲しかったもの、望んでいたこと。

 ……私のために物語を残すくらいなら、お話をして欲しかった。物語の中で世界を巡るのであれば、私とも旅に行って欲しかった。美味しいものを食べるのは、現実の私とであって欲しかった。最期まで完成させるために筆を取るくらいなら、私の手を握って欲しかった。そう思ってしまうのは駄目なのかしら?」

 泣き枯らしたと思われた瞳が揺れ動く。


「貴方を残して逝くことになってしまった自分自身を許せなかったのではないでしょうか。だからこそ、何かを残したかったのではないかと」

「そんなの覚悟の上です。三回りも年上の人に嫁いで来て、先に逝くなという方がおかしいでしょう?」

 まぁ、もう少し長く一緒にいれると思っていましたけど、と小さく付け加える。


「貴方こそ、先生に打ち明けられたのですか? ファンだということを」

「どうしてそれを?!」

 女性の目が大きく見開かれる。

「先生からの指示で貴方の荷解きを手伝ったときに見てしまいました。先生がお描きになった、すべての絵本が揃っていましたね。私どものところから出された本だけではなく、他社からのものも。それだけなら嫁ぎ相手を知るために集めたとも考えられますが、それ以前の、先生が自費出版されたものまでありました。さすがにファンと言うよりほかないでしょう」


 男性は目を細めながら言葉を紡ぐ。女性は俯く。

 それは、秘密を知られていたことに恥ずかしくなったのか、自身の想いがどれほどかを自覚させられたからなのか、またはその両方か。

「伝えられる訳ないじゃない。それこそ絵本ばかり読んでいるなんて子供だと思われてしまうわ。それでなくても歳の差という越えられない壁があるのに」


 女性は遠くに視線をやる。

「……物心ついた頃からずっと先生のファンでした。先生の描くお話が、物語が大好きで。それ以外のお話は要らない。ずっと、ずっと先生の絵本ばかり読んでいました。幸いにも、それを咎める人もいませんでしたし」

 鼻で笑い、さらに続ける。

「きっと、何の疑いも抱かず言うことを聞くお人形であって欲しいと思う人たちにとっては、その方が都合が良かったのでしょう」


 抱き締めている封筒を愛しそうに見つめる。まるで、わが子を抱いているように。

「……先生だったからここへ来たんです。そうでなければ、こんなに歳の離れた男性の元へなんか嫁ぎません。部屋の窓から飛び降りるなりしていました」

「……ご実家での貴方の部屋は何階ですか?」

「えっ? 二階、ですけど?」

 きょとんした表情を浮かべながら答える。

「二階でしたら落ちても死ねる確率は低いですよ?」

「えっ、そうなの?!」

「えぇ。下に花壇などクッションになるようなものがあれば、尚のこと」

「そうなのね。……勉強になったわ、ありがとう」

 柔らかな笑みを浮かべ、お礼を返す女性。


「……話は戻りますが、先生は貴方のことを子供だとは思っていなかったはずですよ」

「そうかしら」

「えぇ。ですから作中でも、月が――いえ、何でもありません」


 言いかけて止めてしまった男性に言葉を促すこともせず、そっと外した視線を、封筒へと戻す。

「この物語の中の私は妖精で、自由にあちこち飛び回れるようでありながらも、物語という檻からは出ることはできなかった。でもその檻は、愛しい人が愛を持って作ってくれた檻だったのだから、きっと閉じ込めるための檻ではなく、守るための籠だったのだと。そう思うんです」

「そう、ですね。えぇ、そうですよ、きっと」


 封筒を見続ける女性を見つめ、男性は一度、目を瞑り息を吐く。

 再び開かれた目は、何かを決意した、そんな目だった。


「遺稿を出版するのであれば、なるべく早い方がいい。忘れられない内に、皆さんの記憶の中に生きている内に。先生や貴方のご家族にお金が渡らないようにすることも可能ですので、いつでもご相談ください」

「これは先生が私にくれた最期の贈り物です。どれだけお金に困ろうとも、これだけは絶対に手放しません」

 目に宿る意志は強く、封筒に寄る皺が深くなったことから、抱き締めている腕に込められた力も増しているのだろう。


「そうですか。でしたら、私からはこれを」

 そう言って、男性は粗供養を入れて配られた紙袋の中から一つの封筒を手渡す。

「これは?」

「先生が貴方のために描かれた絵本原稿です。と言っても、完成はしていませんが。……貴方が嫁いで来られると決まってから描き始められたんです。歳が離れているから話題に困るだろう。これを話の種にできたら、と仰られていました。仕事が立て込んでしまったために完成には至らなかったのですが」

 女性は既に持っていたものと、渡されたばかりの封筒の二つを合わせ抱き締め、ぼろぼろと涙を零す。



「不躾な質問ですが、二人きりのときでも貴方は『先生』と呼ばれていたのですか?」

 女性が落ち着いたことを確認した男性は、立ち去ろうというとき、ふと思いついたように一つの問いを投げかけた。

「まさか。ちゃーんと名前で呼んでいましたよ。だって私たちは――」

 女性は口元を封筒で隠し、恥じらうような仕草をする。まるで、初恋相手の名前を聞かれた乙女のように。

 夫婦ですから――。その言葉は、女性にとって宝石よりも価値のあるものなのだろう。

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