番外編
番外編 嵐のまえ
メロディーが鳴っている。
無限に広がる宇宙に連れていってくれる、澄んでいながらも強い芯をもった歌声。閉じた瞼の向こうで光が揺れた。パソコンモニターが発するブルーライト。
チカチカと動いているのは、光なのか音なのか。どちらも振動を放つという意味では似たようなものなのかもしれない。宙に手を伸ばそうと試みたら、羽毛布団がわずかに動いただけだった。
「悪い、起こしたか?」
ブルーライトを浴びた横顔は、現実のものなのか夢のものなのか分からない。無機質な機械音から逃げるように、わたしは羽毛布団に潜り込む。
モニターには多重録音されたメロディーが波打っている。人間の心音とは違う、不規則で秩序正しく吹き抜けていく大きな風。
ユウタ、と呼ぼうとした声は、メロディーの嵐にかき消されてしまった。いくつかの音楽機器を備えたユウタの部屋はひどく乾燥している。ヘッドフォンを付けたユウタが鍵盤を叩く音が、狭い六畳の部屋の空気を波打たせていく。
ずっと追いかけていたユウタの歌声。夢うつつで響いた歌声は、いつのものだったのかな。ユウタの背中は何も答えない。
諸星悠太の初めての路上ライブが行われたあの秋の夜から、ひとつの季節が巡っていた。
暦通りに働いている私と、音楽活動をしながら不定期でバイトをしているユウタ。互いの家へは電車で約一時間、以前ほど気軽に会える距離ではない。
メロディーが鳴っている。恋のうたが聴こえる。わたしのいちばん好きな歌。
こうして同じ空間にいるというのに、知り合ってからそれなりの時間が経つというのに、わたしはユウタの事をあまり知らない。
潜り込んでいた羽毛布団に冷気が混じり、再び目を覚ますと、いつの間にか部屋の電気もパソコンモニターも消えていた。遮光されていないカーテン越しの外灯に照らされているのは、すぐ傍にあるユウタの寝顔だ。仰向けになって目を閉じただけで絵になるような横顔。アイドル時代のポスターでも動画でも何度も見た事のある角度の表情は、今も昔も変わらないはずなのに、どこか遠い。
ベッドマットがわずかに揺れた、と思ったら、くっきりとした二重瞼の下にある瞳がまっすぐにわたしを映していた。視界がぼやけるほどの至近距離、ユウタの寝返りを打った振動がわたしを離さない。
「妃奈子、起きてるのか?」
うん、なのか、起きてる、なのか、はっきりとしない滑舌で答えたわたしに小さく笑ったユウタは、ゆっくりと目を閉じて今度こそ寝息を立て始めた。
寝ぼけた視界でも分かる、頬に映る長い睫毛の影。カメラの前で何度も触れたはずなのに、静かな寝息にそっと揺れる影をただ見つめる事しかできない。
同じ布団の中にいるのに、布越しで触れ合う事すらできない一定の距離。一度冷気の入った布団は、なかなか温まらない。
ユウタ、と声にならない声が冷たい空気に浮く。
わたし達、ホンモノのカップルだよね?
ひとつの疑問が頭をよぎった瞬間、頭のなかがクリアになった。新しい風が吹き抜けて、不安も葛藤も愛情も欲望も丸裸になる。
「ユウタ」
とつぜん飛び起きたわたしに、寝入っていたユウタは眉根を寄せて軽くうなったあと、「何」と低い声でつぶやいた。
「ユウタ、セックスしよう」
布団が捲れた事で肩が冷えるのに、胸の奥がひどく熱い。鼓動の振動が喉元まで伝わってきて、苦しい。
でも、わたしはこの息苦しさが欲しかったのだ。
再会して三か月。窓の外から漏れる光がカーテン越しに揺れている。怪訝そうなユウタの表情がゆっくりと動揺を映し出す。わたしはまたひとつユウタを知る。
「何、おまえ……。なに言ってんの?」
「だってわたし達、最近全然していないじゃん」
「そもそも、そんなに会ってないだろ」
「だからだよ!」
思わず大きな声を出してはっと我に返った。
アダルト動画共有サイトに動画を投稿していた当初のユウタのアパートほどではないにしても、このワンルームマンションだって壁が薄くないわけではない。
「わたし達、付き合っているんだよね……?」
近隣住民に迷惑にならなうように小声でつぶやいたみたものの、上手く発声できずに冷たい空気に震えてしまった。
三か月前のユウタの初めての路上ライブを観た夜、わたしの部屋で抱き合った時間は今でも夢のなかにあるみたいだ。嵐が起こる前の分厚い雲の上。綿菓子のようにふわふわに溶ける世界は、本物だったのかな。
演技がかった行為を重ねていた頃よりもずっと近くにいるはずなのに、どうしてこんなに遠いの。どうして簡単に触れられないの。
太ももの上で握りしめていた手の甲に、生温かい水滴が落ちた。わたしの涙だった。
「妃奈子……」
動揺からようやく解き放たれたように、ユウタもゆっくりと起き上がった。綺麗なまぶたの下にある瞳が、わたしの顔を覗き込む。濡れた頬を触れられ、わたしは小さく嗚咽を漏らした。
「もーやだ……」
ユウタの手から逃れるように、自分の手の甲でごしごしと目元をこする。
こんなはずじゃなかったのに。ただ普通のカップルみたいになりたかっただけだ。演技も建前もいらない、想いを重ねる場所が欲しかっただけだった。
欲しがっているのはわたしだけなの? ユウタの存在を傍に感じていながら冷たい布団で眠りに就くくらいなら、一人で過ごす夜の方がずっと楽だ。寂しさも孤独さもなく、わたしは平常心をもって、自立した生活を踏ん張るだけで済んだはずなのに。
「ごめん」
気圧の狭間ににあるような、不安定な空気に決着をつけたのはユウタだった。
「おまえを、泣かせるつもりはなかったんだ」
ユウタの大きな手のひらが行き場を失ってシーツの上を泳いでいる。ユウタの困惑がそこで奏でられている気がして、はっと顔を上げると、暗闇のなかで間近で目が合ってドキリとした。
マンションのすぐ傍を通る幹線道路から、トラックの音が低く響いて消えていく。
「どうすればいいのか、わからなかった」
ステージの上でもカメラの前でも物怖じを見せなかったユウタの、初めて訊く弱々しい声だった。
「妃奈子が好きだから、こわかったんだ」
そのままうつむいたユウタの金髪を眺めながら、胸の奥に生まれていた苦しみがじわじわと心地よさを持って喉元を這いあがる。
そうか、とようやく思い至った。わたしにとっての普通が、ユウタにとってはそれこそ雲の上のようなものだった。帰る家があるという事、誰かの庇護下に置かれるという事、好きな人と抱き合うという事。
幼い頃からすべてを売り物にしてきたユウタにとって、ホンモノのカップルという概念すらないに等しいのかもしれない。
乾燥した空気が喉の奥に引っかかって、苦しい。これはわたしの欲しがった息苦しさではない。でも、必要なものだった。目の前に座るユウタをぎゅっと抱きしめる。
「わたしのほうこそ、ごめん」
再会するよりもずっと前。過去を後悔していないのだと強い瞳をもって言い放ったユウタのそばにいたいと、離れる決心を示したユウタの目の前でわたしは確かに思ったはずだった。
「あの頃のわたし達とは違うもんね……」
触れ合わなくても、わたしの望みを叶えてくれなくても、そばにいてほしかった。その願いが、今こうして叶えられているというのに、わたしはなんて贅沢なんだろう。
「ユウタの歌を間近で聴けるだけで、わたしは幸せだよ」
今はまだパソコンのモニター越しでしか奏でられない新しいメロディー。いつかわたしの元にも届くよね?
「妃奈子」
わたしの腕の中に、ユウタの声が閉じ込められる。
気付いた時には、暗闇に慣れた目に映っていたのは白い天井だった。頬に、瞼に、首筋に、淡い温もりが落ちる。わたしにキスを落としたユウタは、そのまま脱力したようにわたしに抱きついた。
「さわってもいいの」
嵐を巻き起こす前の小さな質問は、迷子になった子供のような途方もなさを帯びていた。だから、わたしは何度もうなずいて、わたしに縋りつくユウタを抱きしめ返して、想いのありかを形にするんだ。
ここには生活のための取引も金銭を稼ぐためのカメラもないけれど。
だからこそ。
「好きだよ、ユウタ」
答えると、ユウタはまた見た事もないような、子供みたいな顔で笑った。
まだ数回しか眠っていないユウタの部屋のベッドが、小さく軋みを立てる。
温もりに溺れていく向こうで、メロディーが鳴っている。ユウタの歌が、熱が、愛情が、不安と共に無限に広がる宇宙にわたしを連れていく。
ほら、もう何もこわくない。
Fin,
わたし達、ビジネスカップルです! 宮内ぱむ @pum-carriage
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