第8話 かつての恋
「兄上、この個室露天風呂は私が貸し切りにしたのですが」
アレックスが気まずそうにそう言った。その時遠くから「ダスティーン、そっちじゃないよ」というロデリックの声が聞こえた。
「あ、風呂間違えちゃったみたい。ご、ごめんな」
そそくさと去っていく。アレックスがじとーっとした視線を兄の背中に向けている。
クラウディアは胸の鼓動が収まらない。
(助かったわ……)
誘惑攻撃がようやく止まったようだ。
「陛下、皇帝たるもの、誰も見ていない場所でも気品よく振る舞わねばなりませんわ。護衛を誘惑するなど、もっての他です! もっとご自分を大切になさってください」
そう説教すると、アレックスは無言でお風呂の中で
「陛下?」
呼びかけると、アレックスはうつろな目でクラウディアを見た。
「すみません」
沈んだ声で謝られる。
アレックスは普段、クラウディアがあれこれとお説教したり、お小言を言っても飄々と受け流す。それがまた憎たらしいのだが、こう素直に謝られると逆にどうしたのだろうと心配になってくる。
「見られたくなかったですよね、よりにもよって、あの人に」
「あの人って……ダスティン皇兄殿下のことですか?」
アレックスはコクンと頷いた。
アレックスは基本「お兄ちゃん子」で、兄をとても慕っている。母を早くに亡くし、父には可愛がってもらえず、兄だけがアレックスに愛情を注いだのだ。そうなるのも無理はない。
そのアレックスが兄を「あの人」呼ばわりをしたのは違和感があった。
「……私はダメな男ですね」
悲しそうにそう言って、アレックスは風呂を出た。クラウディアは声をかけようかと追いかけたが、アレックスはクラウディアから逃げるように自室に戻ってしまった。
◇◆◇
食事の時間になっても、アレックスは元気がなかった。ディナーに出されたのは霜降り肉の厚切りステーキだったのに、表情がどこか晴れない。
(お兄様にラブシーンもどきを見られたのが気まずいのかしら。ロデリック様に密告されると怯えてるのかしら……もしかして、わたくしがダスティンをまだ好きだと誤解してる?)
本当に微妙な変化だったから、クラウディア以外は気付いていないようだ。
「アレックス、もっと肉食えよ」
久しぶりに会う兄はアレックスをやたらと構い、肉を食べさせようとする。口の中でじゅわりと牛肉本来の甘みが広がる高級肉は、普段清貧といってもいい食事しかしていないアレックスにとって、ご馳走なはずなのだ。
「陛下、具合でも悪いのですか?」
「そんなことないですけど」
女性の姿に戻ったクラウディアが尋ねても、笑って否定する。
(おかしいですわ。普段なら『心配してくれるのですか?』って浮かれるのに)
「皆さんはお酒を召し上がるでしょうし、私はここで失礼しますよ。クラウディアも兄上と久しぶりに会うのですし、同窓会に参加されてはいかがでしょうか」
そう言って席を立つ。ますます違和感を覚える。
(クラウディアと一緒じゃないと嫌ってあんなに言い張るのに。やっぱり変)
クラウディアも追いかけようとしたが、ダスティンから声をかけられる。
「クラウディア、さっきはごめんな」
ハッとした。誤解は解いておかないといけない。
「ごめんな、じゃなくてよ!! ちょっとあなたにお話が……!」
(クレーム言っておかないと! あの子の保護者は今のところ、この人なんだから!)
トウショウグウ帝国では、成人年齢を十八歳と定めている。アレックスは皇帝という国のトップでありながら、同時に未成年でもあるのだ。父親が国外逃亡で行方不明なので、アレックスの保護者は六歳年上のこの兄だ。
ロデリックには聞かれたくないので、二人で宿の庭に出た。
「一体なんなのですか! あなたの弟君は!」
先ほどの誘惑から、日頃の溺愛攻撃のクレームを入れる。
ダスティンは元婚約者だが、同時に今は親友でもある。
チャンドラー家が謀反を起こした際には、互いに武力でぶつかりはしたが、いわば拳と拳で語り合った仲である。
大陸を平定した際には、共に幾度となく戦を乗り越えた。クラウディアとダスティンは、シルヴェス王家の快進撃を支える双璧だった。クラウディアが最も頼りにする味方として、真っ先に名前をあげるのがこのダスティンだ。
「まぁまぁ……あいつも浮かれてるんだよ。初恋は実らないって言うのに、あいつは婚約までしちゃったから」
「十二歳からずーっとあの調子ですけど。浮かれるのが長すぎでは!?」
「皇城で一緒に住むようになったのは最近じゃんか。新婚気分なんだろ。それに、片思いも長かったんだよ。俺があいつの気持ちにもっと早く気付いてあげればなぁ」
「そうね。あなたにとってはそっちの方が良かったわよね」
キッと睨むと、ダスティンは申し訳なさそうに頭を掻いた。
ダスティンはトウショウグウ帝国の前身である、バチ王国の第一王子だ。本来であれば彼が王位を継ぐべきであったが、彼は政敵の姦計に嵌められ、王太子の座を弟王子のアレックスへと譲った。その時に、チャンドラー家から婚約破棄を一方的につげた。
なので、ダスティンに他に好きな女性がいたとしても、クラウディアから責める筋合いはないのだ。
ダスティンは一度もクラウディアを恋愛対象として見なかった。本当はもっと早く婚約解消がしたかったのだろう。
「わたくし、あなたへの盲愛に狂って、あなたを追い回して真実の恋を邪魔したりしました。とても反省しています。だから、もう恋はしません。あの子にもいつかきっと、他に好きな人ができるでしょう。あなたがそうだったように。できれば婚約期間が終わるまでに見つけてほしいのですが」
初めてアレックスに会った時、絵本から飛び出した天使だと思った。澄んだ瞳でまっすぐにクラウディアを見上げてきた愛らしい幼児。こんな可愛い子がこの世にいるのかと信じられない思いだった。
そんな子を傷つけたくない。
アレックスの初恋は彼の錯覚だ。母親が亡くなった時に、たまたま身近にいた面倒見のいい年上の女の子。それがクラウディアだったのだ。母親の身代わりとして恋慕しているに過ぎないのだと確信している。
「あの子はわたくしにとって、大切な――」
言いかけた時、ハッとした。また気配がする。
「またあの子、盗み聞きを!」
くるりと振り返る。ずんずんと気配がいる辺りに向かうも、誰もいない。
「おかしいわ。陛下の気配がしたのに」
そう言うと、ダスティンはぷっと吹きだした。
「気配がわかるって凄いな」
今のところ、気配がわかるのはアレックスしかいない。どうしてなのかは、クラウディアにもわからないのだが。
「君を愛せなかった俺がこんなこと言うべきじゃないけど、もう……いいんじゃないか。自分を解放しても。あいつの気持ちは本物だ。誰よりも君を愛しているし、あいつなら君の想いを受け止められる」
「で、でも。あの子はわたくしにとって大切な子で、聖域みたいなもので。わたくしの穢れた想いであの子を傷つけたくないのです」
「傷つかないよ、あいつなら。あいつはそんなに弱い男じゃないんだから。それに恋心が綺麗なものじゃないのは、君に限った話じゃないよ。あいつに向き合ってあげてよ」
真摯な眼差しでそう言って、ポン、と親しげに肩を叩いた。その時、なぜか左胸が疼いた。慌てて辺りを見渡す。
(敵は……いないはず。帝国軍の騎士がこれだけ詰めているんだもの。でもこの胸騒ぎ。陛下に何かの危機が迫ってる……?)
真摯な気持ちで左胸に手を当てる。普通に考えればアレックスは用意された自室にいるはずだ。でもそうではない気がする。勘に導かれるように庭の奥の竹林に足を進める。竹林の隅に
闇に解けそうな漆黒の髪が風に揺れる。
「陛下、具合でも悪いのですか?」
感じた危機は、アレックスの体調不良を知らせるものだったのだろうか。
声をかけると、アレックスは顔をあげて柔らかく微笑む。
「少し、一人になりたくて。皇位に就いてからそういう機会も滅多にないですから」
「一人になるのは危険ですわ。それに今は剣も持っていないですし」
手を差し伸べようとすると、手を取らずにアレックスは立ちあがった。
「兄上とのお話は済んだのですか?」
「……やはり盗み聞きしていたのですね?」
咎めるように言うと、アレックスはクスりと笑った。
「すみません。言いわけはしません。私はまだ子供ですね」
そう言って、何かを振り切ったようにアレックスはクラウディアの手を取った。
「あなたが私を愛していなくても構いません。他に愛する人がいても構いません。私があなたを愛していればいいのです。私はそう決めたのですから」
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