5. 神奈川県三浦市の曼荼羅毒蜥蜴-16
「最後のデザートは血のプリンだ。血を固めた料理と言えば豆腐にするのが一般的だが、今回はデザートなのでプリンかつ甘くしてある。この血にはドーパミンなどに作用して幻聴を引き起こす毒が含まれていて、こいつを切って返り血を浴びたりすると面倒なことになる。つくづく厄介なモンスターだな」
貝塚は誰に向けたものか分からない文句を言いながら、黒い陶器のミニコンポート皿をテーブルに置いていく。
小皿の下部に台座が付いたような厳つい形をしたその食器は、まるで儀式で供物を捧げるための器のように灰色と銀の複雑な装飾が施されていた。
皿の上には少し赤みの強いピンクのプリンが置かれ、血のように赤黒いソースがかかっている。
血のプリンということで、わざわざおどろおどろしい盛り付けにしたのだろう。
新鮮な曼荼羅毒蜥蜴の血に桃のリキュールを加えて血の匂いを消し、砂糖と生クリーム、クリームチーズ、コーンスターチを加えて火を通せばプリンが出来上がる。
血の色を強く残したいなら生クリームとクリームチーズを減らせばよいが、今回は色味を柔らかくするため逆に多く加えている。
プリンにコーンスターチを多く混ぜ、スプーンで押せばフルフルと震えるものの、簡単に崩れたりはしない程度の硬さに仕上げる。
プリンをミニコンポート皿に移し、クランベリーを砂糖と水で軽く煮詰めてミキサーにかけ、濾して滑らかにしたソースを上からかけて完成。
このプリンを口にすれば、桃とクランベリーの香りと共に、生クリームとクリームチーズの甘く濃厚なコクが口内に広がる。
血の臭みなどなく、ひたすらにフルーティーな香りと甘さ、そしてとろけるような食感だけを味わうことができた。
見た目とは裏腹にファンシーさを凝縮したようなプリンである。
ゴシック調のコンセプトレストランなどで出せば、人気の一品になりそうな見た目と味だった。
このプリンとセットになるのがショットグラスに注がれた、透明感のある黄色の酒である。
「プリンを食べ終わったら、こちらのリモンチェッロ『ステラ・ディ・リモーネ』を飲んでください。甘いお酒なのでプリンの甘さが吹き飛びますから、一緒に食べるのはおすすめしません。加える毒薬は脳内物質の作用を抑制するものです。少し苦みがありますが、レモンの苦みとお酒の甘さに隠れてほとんど気にならないので安心してください」
リモンチェッロはレモンの果皮をアルコールに漬けた後、砂糖水と混ぜて作る酒である。
元々はイタリアの家庭で作られる酒で、イタリア版の梅酒と考えれば分かりやすい。
アルコール度数は30度ほどと強く、大量の砂糖が加えられていて、梅酒に負けないくらい非常に甘い。
アルコールの刺激にレモンの芳醇な香り、そして砂糖の甘さが合わさったリキュールであり、炭酸水で割って飲むことも多い酒である。
今回はこれをストレートで飲む。
ショットグラスに注がれたものを、そのまま一息で飲み干すのだ。
アルコールの刺激と砂糖の甘さによって、当然ながら口内や喉は焼かれるような衝撃に襲われる。
目を閉じてその刺激に耐えて十分に味わえば、その後に残るのはレモンの香りと爽やかさ。
締めの1杯に相応しい食後酒だった。
松永がプリンを食べ終わると、どこからか川のせせらぎのような音が聞こえてきた。
水の流れる音、風が軽く吹いて草木が揺れる音、鳥が鳴き声を上げた後に羽ばたく音。
精神的な病気による幻聴はネガティブな内容のものが多いがこれは全く逆で、1人郊外の別荘でのんびりとしているような穏やかな安心感に包まれるものだった。
薬物を摂取した場合、多幸感に包まれるグッドトリップや不安や恐怖に襲われるバッドトリップに襲われることがある。
それで言えば松永が今直面しているのは前者であり、幻聴に伴って得られる多幸感は手放し難いものがあった。
痛みや辛さから逃れようとする行為を躊躇う者はいない。
だが、多幸感から逃れるという行為は別の意味で非常に辛い。
いつまでもこうしていたいという感情が体を縛り付けて離さない。
松永の前には手つかずのショットグラスが置かれたままだ。
これを飲めばこの多幸感と別れることになる。
やらねばならぬと分かっていても愛する人との別れを決断できないように、松永も踏ん切りがつかないまま時間だけが過ぎていく。
しかし、貝塚がニヤニヤと笑う姿が視界に入ると、いつまでもこのままではいられないと松永は悟り、覚悟を決めた。
別れを告げるように、目をつぶって勢いよくグラスをあおる。
そのまま目をつぶったままじっとしていると、先程まで聞こえていた音たちと共に、身を包む多幸感がじわじわと薄れていく。
それはまるで甘い夢から覚めるような感覚だった。
**********
料理を食べ終わった後、松永たちが紅茶を飲んでいると、片付けを終えた貝塚が部屋に戻ってきた。
「それで、今回の料理はどうだった?」
お前のリクエストに答えたんだぞと、貝塚はフラニスの方に視線を向ける。
フラニスは「ふむ」と呟いた後、講評を始めた。
「創意工夫は感じられる。ただ、肝心の毒が効かないのは減点対象だな。毒を味わう料理だというのに、そんなものを毒が効かない神に出してどうする。相手を選ぶのも料理人の仕事だろうが。メイン食材のモンスターの肉質もほぼ鶏肉だから、珍しさや特徴という意味では大したことない。とはいえ、色々な酒が飲めたから満足した。褒めてやろう」
「手厳しいというか、適当というか...」
よく見れば、松永とニスロクが紅茶を飲んでいるのに対し、フラニスだけはコースで出た酒の残りをまだ飲んでいた。
用意した酒を飲み尽くすつもりかもしれない。
貝塚は「こいつは当てにならん」と判断し、松永の方に目を向けた。
松永はこの面子では唯一毒が効く人間だ。
ちゃんとした評価を期待するなら彼しかいない。
「料理を食べているのか、薬の治験を受けているのかわからなかった。体調がコロコロ変わるから、途中から頭が混乱し始めて味もよく覚えていない。斬新な体験だが、これに慣れたら人生が終わりそうだ。後日、このモンスターの情報公開と流通について話をしたい。逃げるなよ?」
疲れ切った表情で、松永は料理というより実験の感想を述べた。
未だ顔も僅かに赤く火照っていて、シャツのボタンも外したまま、深呼吸を繰り返している。
言いたいことは山程ありそうだったが、この場で叱るような体力が残っていないのだろう。
これ以上余計なことを言われないよう、貝塚は残ったニスロクの方に目を逸らした。
「まず毒を活かそうという発想が素晴らしい。素材の味だけではなく、毒が回るという貴重な体験も味わうことができるのが非常に良いですね。一度はまれば抜け出せないという話がありましたが、まさしく美食による堕落に相応しい料理と言えます。実体験できないのが非常に残念です。クセの無い食材なのでインパクトに欠けますが、誰にでも食べやすいという点は長所ですし、代わりに調理法で変化を生み出すアプローチも悪いものではありません。そういう意味では、酒とのマリアージュというテーマにおいて、食材の新しい側面を見いだせるのも評価すべきでしょう。ゆっくり味わえば毒を楽しめるし、すぐに酒を飲めば症状も大して出ない。客が好みに合わせて毒を調整できるのも遊ぶ余地となり、テーマパークのように楽しいコースでした」
「一番ちゃんとした評価を下すのが悪魔ってもどうなんだろうな...」
「専門家ですからね。もし毒を含めた講評が必要でしたら客を紹介しましょう。私の知り合いには、斬新な料理に目がない者が多くいます」
呆れる貝塚に対し、ニスロクは微笑みながら提案した。
実験体が増えるのは貝塚にとっても悪い話ではないし、ニスロクからすれば堕落する者を1人でも増やすことができる。
哀れな犠牲者を除けば双方にとって得しかない提案であり、実に悪魔らしい提案だった。
「それでは、今回の報酬ですが何を望まれますか?」
形式的なものとはいえ、ニスロクの試験には無事合格したようだ。
貝塚は顎に手を当てて、何を頼むか悩む。
「そうだな。異世界や悪魔のレシピと言いたいところだが、悪魔が独占してそうな食材の情報なども捨てがたい...」
「ちょっと待ってくれ」
その時、松永が立ち上がり、貝塚らの話を遮った。
先程とは打って変わって真剣な表情をしている。
「その報酬をこちらに譲ってほしい」
「特定のモンスターの情報が必要なのか?」
「違う。頼み事をする権利を譲ってほしいんだ」
唐突な松永の発言に、流石の貝塚も戸惑いを隠せない。
餌付けしていたトンビに油揚げをさらわれるようなものだ。
「えっ、権利を丸ごと寄越せってことか?そこまでして何を頼むんだよ?」
「この前の件だ。戦力が足りないのはお前も知っているはずだ?それを補うための力添えを頼みたい」
「力添え?どういうことでしょうか?」
今度はニスロクが疑問の声を上げる。
事情を知らないのもあるが、彼としても相手構わず喧嘩を売るわけにもいかないため、多少なりともそのあたりは慎重にならざるを得ない。
「邪神の復活を企む組織を発見しました。その壊滅を計画しているところですが、敵の戦力がかなりのもので手が足りません。こちらの戦力を集結させるにはまだ時間がかかり、その間に敵の儀式が完了しては元も子もない。そこで、攻撃に際して助力を願いたいのです」
「...なるほど。人間がいなくなると我々も困りますから、拒否する理由はありませんね」
松永の説明を聞いてニスロクは納得する。
悪魔としての彼の存在意義は人間を堕落させることである。
従って、堕落させる人間が必要であり、それには一応なりとも均衡が取れた世界が望ましい。
適度な衝突が起きる分には構わないが、再び全面戦争のような事態が起きて人類が大幅に減少しては困るのだ。
「おいおい、こっちは問題があるぞ。貴重な機会を黙って取り上げられるわけにはいかん」
とはいえ、そのような事情は貝塚には関係がないため、こちらは素直に頷こうとはしない。
松永は黙って貝塚の方に歩みだし、近づいたかと思った瞬間、貝塚の両肩をガシッと掴んだ。
そのまま貝塚の目を覗き込み、抉りそうなほど力の籠もった目線をぶつける。
「頼む。嶋田が動いているが、やはり戦力が足らんのだ。それに上位の悪魔の助力があれば、作戦の成功率も大幅に上昇する」
「それは俺の問題じゃない」
勢いと圧力で押し切ろうとした松永だが、貝塚はそうはいかんぞとあっさり切って捨てる。
松永は舌打ちし、折れない貝塚に対して交渉を続けた。
「酒の手配をしてやっただろう」
「実地調査の手伝いと相殺だろ?」
「これまでお前には様々な面で融通を利かせてのを忘れたのか?」
「その分だけそっちもリターンを得ているはずだが?食料や資材の確保にかなり貢献してきたよな?」
「…………無事に作戦が終了した暁には、他の種族の国への出張費用を持ってやる!権力のある身分証明書付きだ!他種族のレシピや食材を調べ放題だぞ!好きなだけ行って来い!」
「乗った!」
松永の必死の交渉は実を結び、2人は固く握手を交わした。
予想外の報酬を提示された貝塚は、遠方の国に自由に行けるようになることを喜ぶ。
身分保証付きなら、人間と敵対している国家や種族の領地にも堂々と入り込むことが可能になり、これまでとは比べ物にならないほど活動範囲が広まるからだ。
正面から入国申請しようとしても、追い払われたり襲われたりする危険があるこの世界でも、ある程度の法治国家相手なら国に保証された身分は効果を発揮する。
ニスロクが協力的なことを踏まえれば、異世界のレシピなどを得る機会はいくらでもある。
その程度の代償としては十分過ぎた。
松永も黙って不利な条件を飲んだわけではない。
貝塚を外交官代わりに使うことで帳尻を合わせるつもりなのだ。
貝塚を他国の調査や交渉窓口に使えるようになれば、貿易や技術交流で出張費用くらい簡単に元が取れる。
だが、2人共にこの場で余計なことは言わない。
喜ぶ顔は内心だけに留め、仕方なく条件を飲まされたような素振りを続ける。
そこに気づかれれば報酬の上乗せを要求されるからだ。
適切な対価は支払う。
しかし、互いに利用し合う関係である以上、過分な対価を支払うつもりはない。
そんな騙し合いを繰り広げる愛しい人間たちを、ニスロクは微笑みながら眺めていた。
**********
半魚人たちの街の外れ。
貝塚たちと最初に出会った半魚人の男性が魚の入った桶を抱えて歩いていると、遠くから貝塚が近寄って来るのに気がついた。
貝塚の後ろには20人近い人間たちが続いており、こんな田舎の街にしては珍しい規模の来客だった。
半魚人の男性が手を振ると、それに気がついた貝塚が駆け足で寄って話しかけてきた。
「ちょうどいいところにいてくれた」
「また来たのか?忙しいんだな」
貝塚たちが遠方から来ていることを知っている半魚人の男性は、労いの言葉をかける。
前回よりも人数が増えているが、街に危害を加えるような人間でないと知っているので、警戒する素振りはない。
貝塚は彼の言葉を聞いて「そうなんだよ」と相槌を打ち、背後の集団をチラリと見た。
「こっちにも色々と都合があってな。ところで、頼み事があるんだけどいいか?」
「なんだ?出来る範囲のことなら何とかするぞ」
「まあ、そんな大したことじゃないんだが...」
貝塚の言葉を聞いて不思議そうにする半魚人の男性。
貝塚たちの目的が分からないので、何を言われるのか想像できないのだ。
あまり無茶なことを言われたら流石に無理だぞという感情が顔に―――彼らの表情の変化を認識するのは非常に難しいが、恐らくそういった感情が浮かんでいた。
そんな彼の心配を打ち消すように、貝塚は親しげに彼の肩をポンポンと叩く。
そして、背後の山を指差して言った。
「潰してもいいか?あの山」
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