4. 栃木県日光市の黒瑪瑙鰻-11
キッチンから戻ってきた貝塚が、新しい料理をトレイに乗せて静かにテーブルへと近づいてくる。
フラニスと柿本の前に置かれたのは、椿の花を模した赤い高台小鉢。
中には黒色と鮮やかな緑色の細切りが混ざっている。
貝塚はいつも通りの調子で説明を始めた。
「これは黒瑪瑙鰻の白焼きと芥子菜の一夜漬けだ。芥子菜を適当な長さに切って、塩を揉み込んで一晩寝かせた。白焼きは芥子菜と同じ長さに切り揃えて、一夜漬けと和えたものだ。黒瑪瑙鰻は脂が控えめな背中の身を使っている」
柿本は小鉢をそっと持ち上げて、照明の下でじっくりと眺めた。
小鉢の赤が光を反射し、黒と緑のコントラストが一層際立っていた。
「鰻の黒、芥子菜の緑、小鉢の赤が合わさっていて綺麗ですね」
柿本から感嘆の声が漏れたのに対し、貝塚は小さく笑いながら答えた。
「日本料理で黒色といえば大抵塗椀だから目を引くだろう。食材だとイカ墨や黒豆くらいだからな」
柿本は頷きながら料理を口にする。
「芥子菜のシャキシャキとした食感に、鰻のふっくらとした身のバランスがいいですね。身の旨味と脂の甘味が芥子菜の塩っぱさとよく合います。芥子菜の鼻を抜けるようなツンとした辛味と香りもいいアクセントになっています」
一方、フラニスは同じように料理を口にした後、鰻の身を箸でつつきながら分析していた。
「先程の煮凝りとは違い、食感がしっかり残っているな。身の形が残っているのもあるだろうが、焼いたことで身が焦げて香ばしさと歯ごたえが加わったのか」
フラニスの言う通り、白焼きは先程の煮凝りとは質感が異なっていた。
身が柔らかくフワフワとしているのは同じだが、表面が焦げて香ばしさと硬さが加わったことで、口に入れた時の第一印象が変化している。
タラやカレイなどのコラーゲン豊富な魚は、加熱することで身がほどけるような食感になるが、煮るのと焼くのとでは仕上がりが異なってくる。
この白焼きでは少し焦がし気味の火の通し方をしている。
脂が控えめな部位を用いていることもあってしつこさがなく、煮凝りよりも鰻を食べているという実感が湧いてくる一品になっていた。
貝塚は2人の反応を見て満足気に頷いた。
「こういう調理をすると鰻っぽさが出てくるよな。蒸した後に焼くと関東風なんだが、茹でた後に焼いてるから、食感も若干違う仕上がりになってる。それじゃあ、次の料理を持ってくるぞ」
そう言って、貝塚はキッチンへと戻っていった。
貝塚がテーブルを離れるのを見送った後、フラニスはおもむろに柿本の方を向いた。
形の良い眉を少し上げ、思案するような表情で口を開く。
「茹で時間を調整すれば、もっと歯ごたえを残せるではないのか?」
柿本はフラニスが調理手法について口を挟んだことに驚いたが、機嫌を損ねないようなんとか表情を崩さずに答えようと努めた。
「そうなんです。ただ、火入れの調整が難し過ぎて、ちょっと今回は間に合わなかったんですよね。加熱が足りないと芯が石のままですから、流石にギリギリを攻めるのは...」
その声には調理の難しさと妥協の苦悩が滲んでいた。
柿本の答えを聞いてフラニスは顔をしかめる。
米粒くらいであっても、油断している時に石のような硬さのものを噛めばどうなるか。
その姿を想像してしまったせいだ。
その気になれば石くらい噛み砕けるが、好んで試したいわけでもない。
「...なんだその顔は?」
キッチンから戻ってきた貝塚は、フラニスの表情を見て訝しむ。
まさか下処理が甘かったのかと不安が頭をよぎったようだ。
しかし、当のフラニスは手をヒラヒラと振って貝塚の懸念を打ち消そうとした。
「気にするな。さっさと次の料理を並べろ」
「まあ、お前がそう言うならいいが...」
貝塚は首を傾げながら、コースターとワイングラスを2人の前に置く。
今度はそれを見たフラニスが首を傾げる番だった。
「料理じゃなくて酒か?」
不思議そうに尋ねるフラニスに対し、貝塚はきっぱりと否定した。
「違う。スープだ」
「スープ?これがか?」
「ちゃんと蓋も被さってるだろ」
テーブルに置かれたのは、緑を基調とした模様が入った布製の四角いコースター。
ケンタウロス国産の伝統的な工芸品で、素朴ながらも上品な風合いがあった。
そして、その上に乗るのはブルゴーニュ型のワイングラス。
グラス下部が風船のように広がっているのに対し、上部の飲み口が絞られて狭くなっている形状が特徴的なグラスである。
さらに、そのグラスの上には平べったい蓋が被せられている。
言われてみれば、確かに蓋付きのお椀のように見えなくもない。
フラニスと柿本がグラスに顔を近づける。
グラスの中には透明な液体が入っており、その表面にはすり下ろされた緑の皮と、カラフルな模様が入った小さな手毬麩が浮かんでいた。
貝塚は説明を続ける。
「黒瑪瑙鰻の骨を炙って取った出汁で作ったすまし汁だ。すだちの汁を絞って、すり下ろした皮と手毬麩を加えている。蓋は飲む直前に外してくれ」
貝塚の説明を聞いてフラニスは面倒くさそうに顔を歪めた。
「なんでそんな手間のかかることを...」
「いいから騙されたと思ってやれ」
フラニスは仕方なくグラスを手に持って顔に近づけ、乗っていた蓋を取って一口飲んだ。
その瞬間、貝塚の意図を悟って表情を変えた。
「わざわざワイングラスに入れたのは、スープの香りをグラス内に滞留させるためか。普通のスープ皿と違い、飲む時にまず鼻に香りが当たるから、香りがより強く感じられるな」
貝塚はそれを聞いて頷いた。
「理屈としてはワインと同じだな。香りが飛ばないように、食べる直前までお椀に蓋をするのは日本料理でもよくやる。せっかく透明なすまし汁で椀種無しなんだから、透明な器に入れた方が色合いがよく分かると思ってやってみた」
フラニスはグラスを持ち上げ、照明の光に当てながら眺めた。
確かに黒塗り椀とは違い、光がグラスを通過して煌めくことで、別種の美しさが生み出されていた。
「そうだな。透明なグラスとスープにすだちの緑。そして手毬麩の色合いが重なって、美しく仕上がっている。味も旨味がしっかりと出ているが、身の脂がないから上品な味わいだな」
柿本は2人の会話を聞きながら、ワインを飲むようにグラスの中身をクルクルと回し、香りをしっかりと確かめる。
「鰻の香りというよりは、魚の出汁に近い香りですね。元々の香りが強くないせいでしょうけど、代わりにすだちの香りがはっきりと感じられます。普通の椀物と違って椀種がない分、すまし汁の味と香りをじっくりと楽しむことができます。すだちの汁と皮の両方を使ったのは、皮は香りと苦みが強くアクセントになるからですね」
フラニスは不思議そうに手元のグラスを貝塚に向けた。
「手毬麩が甘辛いのはどうしてだ?」
すると貝塚は即座に答えた。
「白だしをベースに甘みを強くした出汁で煮込んでいる。これもすまし汁のアクセントにするためだ。手毬麩の色合いを悪くしないため、淡い色合いの白だしと白醤油を使ってる」
その回答を聞いて、フラニスと柿本は思わず顔を見合わせた。
言われてみれば、確かに手毬麩には濃い目の味がついている割に、肝心の色は損なわれていない。
醤油を使うため、どうしても茶色に染まるのが日本料理の弱点である。
それに対し、見栄えと味を両立させるため、この料理では調味料の色にも拘っている。
せっかくの透明さを邪魔しないため、黒瑪瑙鰻の身が混じらないように、骨から身を外した上で出汁を濾したりもしているのだろう。
食べる側にとって面倒な料理ではあるが、見た目のシンプルさとは裏腹に調理する側にとっても面倒な料理だった。
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