4. 栃木県日光市の黒瑪瑙鰻-9
「大変な仕事だったな...」
ツェツェルンへと戻り、留守にしていた家へと向かう道すがら、ニーデンはため息まじりに呟いた。
夕暮れ時の空は茜色に染まり、石畳の道を踏みしめる足音が、静かな街並みに小さく響いている。
道の両脇に広がる市場に目を向ければ、既に店じまいを始めているところもちらほらあった。
今回は人間の護衛任務だったため、ある程度の気苦労は覚悟していた。
だが、想像とは異なる騒動があまりにも多かった。
今はただ、久しぶりに温かいシャワーを浴びて、ゆっくりと食事を楽しみたい気分だ。
あの後、貝塚が予想した通り、黒瑪瑙鰻は40度前後で加熱すると柔らかくなることが判明した。
加熱前と変わらず身は黒いままだが、筋らしきものが溶けて柔らかくなっていた。
指で軽く押すだけでマシュマロのように潰れ、ほどけていく。
身がフワフワとした感触へと様変わりしたのを見て、貝塚は「コラーゲンの多い魚を加熱したみたいだ」と言っていた。
鍋で煮込んだものと、水底に沈めたもので大差がなかったため、砂地の成分は関係ないという結論に間違いはないだろう。
つまり、肉に入り込んだ筋が硬さの原因であるという推測は当たっていたわけだ。
ただし、40度から5度くらい温度がずれると、いくら煮込んでも柔らかくならなかった。
しかも、徐々に柔らかくなるのではなく、数時間煮込むと突然柔らかくなる性質があるため、狙ってこの温度を維持する必要がある。
石のような硬さだったものが、いきなり手で握り潰せるようになるのを見た瞬間、驚きのあまり全員から「えっ!?」という声が出た。
さらに驚くべきことに、70度以上の温度で加熱しないと毒が失活しないことも判明した。
柔らかくなった黒瑪瑙鰻を口に入れた貝塚が、またしても吐き気に襲われたのだ。
つまり、黒瑪瑙鰻を食べられるようにするためには、高温と低温での2度にわたる加熱が必要になる。
どちらか一方だけでは不十分。
両方を経て初めて食べることが可能になる。
なんと面倒なモンスターなのだろうか!
貝塚以外にも、黒瑪瑙鰻を食べようと挑戦した者はいたのかもしれない。
しかし、仮に40度で煮込んで柔らかくなることを発見していても、そのまま食べれば猛烈な吐き気に襲われる。
『食べられるようになったはずのモンスターを食べたら、食べられるものではなかった』
この失敗を乗り越えて、諦めずに再挑戦しようという奇特な者はいなかったのだろう。
高温と低温、両方の失敗を経験した者だけが、初めて食べられる資格を得る。
その厄介さのおかげで、「おそらく人類で初めて黒瑪瑙鰻を食べる」という幸運に巡り合うことができたわけだ。
貝塚が黒瑪瑙鰻を使った試作品を作ってくれた。
石のような硬さが嘘だったようなフワフワとした食感。
木のスプーンですくった身を口に運ぶと、噛まずとも身がほどけて広がる。
肉の旨味と脂の甘味が一気に押し寄せ、舌の上で溶けるような感覚を目を閉じて味わえた。
鰻を食べたことはあるが、それとは比較にならないほどの美味しさだった。
泥臭さや生臭さは一切なく、ほぼ無臭と言っていい。
特徴に欠けた香りという面はあるが、そこは料理人の腕の見せどころだろう。
癖がないということは、いくらでも自由に手を加えられる余地があるのだ。
背中の身は脂が控えめで旨味が強く、逆に腹側の身は脂が多めでこってりとしたコクがある。
普通の鰻よりも大きいため、部位ごとに食べ比べを楽しむこともできる。
ただし、内臓系と尻尾は毒が失活しないので食べられなかった。
筋が入った身とは違って、毒を生成している器官が含まれているのかもしれない。
貝塚は挑戦しようとしていたが、何回か吐いた後に「これは無理」と言っていた。
頭部はほぼ骨なので、食べるには至らなかった。
貝塚は「本番前の練習だ」と言って様々な料理を作ってくれた。
それまでの苦労もあってか、人生で一番美味い料理だった。
塩ゆでにされた大海老の身もプリプリとしていて、高級品に相応しい味わいを楽しむことができた。
その後、数日かけて必要な分の黒瑪瑙鰻を確保し、桶に入れて担いでツェツェルンに戻ってきた。
戻った後、貝塚がケンタウロス国産の食器や小物を買いたいと言い出したので、市場や小売店を案内して半日付き合った。
そして、別れたのがつい先程の話だ。
黒瑪瑙鰻は生かして持ち帰るつもりらしいが、大きな旅の荷物に加えて水の入った桶を担いで歩く姿は、周囲から奇異の目で見られていた。
まあ、彼なら気にしないだろう。
別れ際に貝塚からサンドイッチを渡された。
紙に包まれたそれは、手に持つとずっしりとした重みがあった。
燻製にした黒瑪瑙鰻と大海老、チーズ、トマト、レタスを挟んだと貝塚は言っていた。
興味を抑えきれずに包みを開けると、確かに燻製の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
いつの間に仕込んでいたのかと驚いたが、よくよく思い出してみれば、確かにかまどで木片を燃やしていた。
煙が立ち上る中、何かをごそごそと準備していたのは燻製を作っていたのだろう。
せっかくだから、家に帰る途中でお気に入りの果実水を買って一緒に味わおう。
そう言えば、彼は「好みに合わせてアレンジしても良い」と言っていたな。
料理と言われても焼くくらいしかできないと言ったら、「好きなソースをかけたり、スパイスを加えるだけでもいい。最初はそういうのから始まるんだ」と言われた。
その言葉には、どこか優しさが滲んでいた。
好みの調味料といえば何だろう。
強いて言えば、この辺りで香草として使われているアンドビナの葉か。
あのピリッとした刺激と鼻を抜ける爽やかな香りは、時折無性に食べたくなる。
試しに貰ったサンドイッチに入れてみようか。
恐らくこのサンドイッチの味付けなら合うはずだ。
脂で重い後口を、ハーブの刺激と香りでさっぱりさせる。
うむ、なかなか良さそうだな。
アンドビナの葉なら目の前の市場で売っているはずだから、簡単に手に入るだろう。
どうせ一人で食べるのだから、このサンドイッチに合わなくても構わない。
失敗の味も、そう悪いものではないだろう。
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