4. 栃木県日光市の黒瑪瑙鰻-6
「口にしただけで身体が拒否するのは久々だな...」
貝塚は乱れた息を整えつつ、水で口をゆすぐ。
顔は青ざめ、額や首には脂汗が浮かんでいた。
柿本は貝塚が握る黒瑪瑙鰻を見つめながら尋ねる。
「鰻の血のせいですか?普通の鰻より症状がかなり酷いですね」
「かもな。さっきの犀はなんで平気なんだ...」
「歯だけじゃなくて、胃腸も丈夫なんでしょうね...」
貝塚は目を丸くして驚いているニーデンの脇を通り抜け、ふらつきながらテーブルに戻って黒瑪瑙鰻を置いた。
「火を通してみよう。鰻の血の毒は加熱すれば消える」
そう言って先程作ったかまどで火を起こし、水を張った鍋を乗せて温め始めた。
しばらくして、鍋の中でポコポコと泡が立ち始める。
湯気が立ち上ったところで、適当な大きさに分割した黒瑪瑙鰻を入れ軽く火を通す。
本来なら胴体を切り開きたいところだが、身が硬いため丸い胴体のままとなっていた。
黒瑪瑙鰻を取り出し、柿本が作った氷水に浸して粗熱を取る。
体表のぬめりが固まったのを確認してから、包丁で擦るようにぬめりを取り除いていく。
包丁が胴体に擦れるたび、カリカリとまるで包丁を砥石にかけているような音が周囲に響いた。
「これで鰻のぬめり取りの下処理が完了だ」
ふらつきながらも手際良く調理を進めた貝塚。
ニーデンはそんな貝塚に感心しながら尋ねた。
「ここから先はどうするんだ?」
「まず焼いてみる」
貝塚は下処理の終わった黒瑪瑙を、かまどの上に設置した網の上に置いて焼いていく。
胴体が切り開けず串が刺さらないので、転がって落ちないよう網の角度には注意を払う。
「この状態で更にタレを塗っていけば、俺たちの国で言うところの蒲焼になる。今回は素の味を確認するためにタレ無しの白焼きだ」
「タレ?」
ニーデンは貝塚の方を向いて「何だそれは」と首を傾げる。
「酒や醤油、砂糖とかを混ぜた、要は甘辛い感じのソースだ。好みに合わせて甘くない味にすることもある。ソースが焦げることで香りを付ける意味もあるぞ」
貝塚は網の上で全く色の変わらない黒瑪瑙鰻を見つめながら、軽い口調で答えた。
「なるほど。確かに鰻をそのまま焼くより香ばしくなるな」
ニーデンは街に並ぶ屋台、そしてそこで売られる串焼きの様子を思い出して頷いた。
10分くらい焼いたところで黒瑪瑙鰻を網から皿に取って観察する。
貝塚は箸で黒瑪瑙鰻をつつくが、感触は先程と変わらず石のようだった。
「特に肉質が変わった様子はないな」
ニーデンも同じように眺めているが、こちらは別のところが気になったようだ。
「皮は焦げ目がついているぞ」
「でも皮が剥げないんだよ。身とぴったりくっついたままだ。分離できれば、最悪皮だけでも食べられるんだが...」
そう言いながら貝塚は再び黒瑪瑙鰻を咥える。
柿本は水を、ニーデンはバケツを手に取りながら、固唾をのんで貝塚の反応を待った。
今回の貝塚は微動だにしない。
しばらくして、ようやく貝塚が口から黒瑪瑙鰻を離す。
「......吐き気が来ない」
その様子を見て柿本は安堵の息を吐いた。
「加熱で毒が失活したようですね」
「多分な。これで一歩前進だ。後は身を柔らかくする方法を見つけるだけだな!」
拳を天に突き上げる貝塚を見つめながら、ニーデンは疑問を口にした。
「石のように硬い身をか?」
その問いに返事は返ってこなかった。
**********
「ふーむ、身は黒一色だが、よく見れば細かい筋っぽいものが入ってるな」
「サシがたっぷりと入った霜降り肉みたいですね」
背骨に沿って真っ二つにした黒瑪瑙鰻の身を貝塚と柿本は観察していた。
硬い胴体を唐竹割りにするのは難しいため、当初はニーデンに自慢のハルバードでやらせようとした。
「嫌だ。武器は戦士の魂だ」とあっさり断られた。
仕方なく貝塚がナタを使ってなんとか叩き切った。
身が硬く切りづらいこともあって刃先が若干欠け、貝塚が悲鳴を上げたことを除けば大きな問題はなかった。
「筋か...。もしかして、硬いのは牛すじと同じ理屈か?」
悩む貝塚を横目に、柿本は筋らしき部分をつつきながら尋ねた。
「硬いのは肉じゃなくて筋で、その含有量が多いのが原因ってことですか?道中で出くわした鎧騎士が、金属じゃなくて魔力で鎧を構成してたみたいに」
「そうかもしれん。そうじゃないかもしれん。ただ、現状だとそれくらいしか考えられない」
「筋ならとりあえず煮込んでみましょうか」
「そうだな」
貝塚は再びかまどの前に立ち、鍋に水と黒瑪瑙鰻を入れて火にかける。
「こいつはこのまま10時間くらい煮込む。並行して、70度から5度刻みに温度を上げて別の鍋で数時間煮込む。それと、カットした玉ねぎやパイナップルを、黒瑪瑙鰻とセットでビニール袋に入れて半日置いてみよう。恵、お前は玉ねぎとパイナップルの方を頼む」
「分かりました。ついでに黒瑪瑙鰻を干して、水分を抜いてみますね。多分駄目だと思いますけど」
貝塚の指示に従って柿本はすぐに動き出す。
その2人の行動が理解できないニーデンは、手を上げて貝塚に質問した。
「すまない。作業しながらで構わないから、その作業の意味を教えて貰ってもいいか?俺はほとんど料理をしないから、何のためにやっているのかよく分からないんだ」
貝塚は新しい鍋をいくつか取り出しながら答えた。
「いいぞ。肉を煮込むと柔らかくなるのは知ってるか?」
「それは分かる」
「よし。まず基本的な話からだが、肉を構成するタンパク質は3種類存在する。それぞれ、筋原繊維タンパク質、筋形質タンパク質、結合組織タンパク質だ。加熱で肉が柔らかくなるというのは、結合組織タンパク質という名の接着剤、いわゆるコラーゲンがほぐれてゼラチン化することを指す。肉は焼くと固くなるが、じっくり長時間焼いた肉は指で押しただけで崩れるだろ?あれがコラーゲンが変性した結果だ」
貝塚の説明を聞いたニーデンは、火にかけられている鍋を見て頷く。
「なるほど。10時間煮込むのは、そこまでやれば柔らかくなりそうだからということか。70度で煮込むというのはどういう意図があるんだ?」
「コラーゲンの変性は56度くらいから始まるがその温度だと遅い。早くなるのは70度以上なことと、毒を失活させるために高温にする必要がありそうだから、まずはそれに合わせた。まあ、こいつの筋がコラーゲンなのかは不明だが。5度刻みで温度を上げるというのは、最初の鍋は70度、次は75度、その次は80度で煮込むという意味になる。黒瑪瑙鰻の筋が何度で変性するのか分からないから、総当たりで試していくぞ」
50から60度の範囲で肉に火を通す、いわゆる低温調理で素材が柔らかく仕上がるのは、このタンパク質ごとの温度変化を利用するためである。
フライパンなどで肉を焼くと、どうしても高温で火を通すことになり、肉が硬くなってしまう。
そこで、肉が硬くなる温度よりも低い温度で加熱し続けることで、肉は柔らかいままで旨味を引き出すことが可能になる。
一方、加熱温度が低いと殺菌が十分に行われないという問題もある。
そのため、研究が進んでいないモンスターでは、低温調理は基本的に用いられていない。
貝塚の説明を聞いてニーデンの動きが止まる。
「...総当たり?全部試していくつもりか?」
「当たり前だろ。牛とかなら何度で変性するか既に分かってるけど、こいつは分からないんだから全部試さないと駄目だろ。幸い、水温を自動で調整してくれる魔道具の鍋があるから楽に試せる」
何を言ってるんだという表情をする貝塚と、その答えを聞いて眉をひそめるニーデン。
貝塚らがやっていることは、彼の知っている料理の手順とはかなり異なっており、驚きと戸惑いを隠せていなかった。
そんなニーデンの困惑に気がついた貝塚は、もう少し別の説明方法を考える。
「あー、あれだ。お前たちが弓矢の練習する時、力の入れ方とか構えの角度を変えたりするだろ。その時、結果を見ながら少しずつ修正して、理想的な結果が出るようなやり方を探るだろう?それと同じことをやってると思ってくれ」
「そういうことか...。それであれば理解できる」
ようやく説明が腑に落ちたニーデンは、大きく息を吐いた後に深く頷いた。
「ちなみに恵がやっているのは、パイナップルやマイタケに含まれる酵素が肉を柔らかくするから、それを試すのが目的だ」
「本当にあれこれと試すんだな...」
「1つ1つ順番にやってると時間がかかるからな。並行してやれることは何でもやった方が効率がいい。失敗しても損はしないんだから、全部やった方が得だ。それに…」
「それに?」
「世の中には面倒さと楽しさが両立することもあるんだ。よく覚えておけ」
そう言って作業を進める貝塚。
ニーデンは「こういう戦いもあるのだな」と考え、眩しいものを見るように目を細めながらその姿を見つめていた。
翌日。
「駄目だな」
「駄目ですね」
テーブルの上に置かれた試作品たちを前に、堂々と胸を張って言い切る貝塚と柿本。
ニーデンはそんな2人を見て、なんと言えばいいのか分からなさそうに複雑な表情を浮かべていた。
その様子はまるで、想定外の大敗を喫した戦士のようだった。
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