長靴男の佰昼夢

誰かが見て居る。うすら寒い風が、ピュウピュウと何処かで笑っている。小雨垂れが、じっとり、じっとり、重たい防寒着の目地から染み込んでくる。森の木々は、ヒソヒソと、私の醜態を蔑んでいる。大きすぎる長靴は、歩くたんびに、ガバガバと喜んで居る。どこかでカラスが、カー……、ガー……、バー……、と鳴いて居る。ロシヤの秘密警察の名を、物悲しく、鳴き鳴き佇む……。私以外、人間の成りをしていないが、背後で、頭上で、正面で、誰かが私の皺だらけの顔を眺めている……。ふと目の前に、如何わしいネオンの看板が煌めいた。摩天楼の真っ只中、薄明かりに照らされた裏路地を、私はボロの布切れのように漂っているのだ。ふざけたカラーのポンチョコートが、ヒラヒラと徒党を組んで、私の前を通り過ぎて行く。雨粒が、非ユークリッド幾何学的な様相を呈して、こうしてざらざらと、私に降り注ぐものだから。上を向き、その実在性の無い、虚実の雨粒を避けるように歩く……、と、背後のポンチョコートに、虚構の構造体が、バランとぶつかった。私は思わず、その恐ろしい音に振り向いた。虚構と現実の境で、ポンチョコートはクシャクシャになり、空中で私に一瞥をくれると、プツン……と消えてしまった。後ずさる私は、足元の杉枝に気付いてない。バチンッと……、踏みつけられた杉枝が、馬鹿みたいに大きく爆ぜた……。街中にそれが響いたので、道行く人の群れが、冷やかに此方を睨み付ける……。私のせいではない、何故お前たちは、こうも此方を責めるのだ。怒りを込めて、落ち葉をバッと蹴ると、その落ち葉の一枚一枚に、輝く都が見えた気がした。頭上に舞い上がった木の葉は、雨粒を滑るように、ゆっくりと下降してくる。その高度の下がる程に、都では昼夜を目まぐるしく繰り返していた。周りの視線は、いつの間にか消えており、私の拡散した注意は、その落ち葉ただ一点へと向かうことになった。そのうち、この葉がヒラヒラと地面に落ちる前に、その都の盛衰を、ゆっくり観察してやろうという、野次馬的な気持ちも芽生えてきた……。摩天楼が落ち葉に輝き、街を行き交う人々は、怖れなど何もないと言わんばかりだ……。木の葉が落ちれば、街は観測されず、その存在もまやかし物になると言うのに。その都の人々は、皆自分の、その仄暗い欲望に、眼をくらませている……。その中に、確かに私がいた……、昔の私が、葉の裏の都で、酒に溺れて居る……。肝臓をすり潰し、胃が激しくのたうつのも構わず、この世の飯と言う飯、酒という酒を、金のあるかぎり、貪り続けている……。ブクブクと、私腹を肥やす私が、確かに葉の裏にへばり付いていた……。思わず付いた尻餅で、またバチンッと杉枝がはぜた。森にこだました破裂音に、驚いたカラスが、また秘密警察の名前を叫び、バタバタと飛んでいった……。非ユークリッド幾何学的な構造の雨粒が、堅牢な頭蓋にバラバラと衝突して、私の実在性脳髄的な構造の頭を、四方八方に飛び散らせて行く……。喧しい街の中……、寂しい森の中……、私は何時も、独りであった……、と、我にかえる。ここは街でも、森でもない、我が家、愛しき一軒家の遥か手前、目前であった。此を他所と間違うはずも無し。二階建ての、淡い肌色の壁、ガスボンベの位置から、玄関の細まで、記憶追憶のそのままであった。玄関戸を開け、廊下の奥に青い光を見ると、何だかとても懐かしい用な心持ちで、思わずその場で全て脱ぎちらかし、産まれたままの真っ裸になった……が、長靴は履いて居る。玄関を上がり、それから、廊下の奥の居間までガバガバと歩くと、あの時座らせたままの雌牛が、此方にモーと、艶のある声で鳴いた。居間の青い豆電球が、チラチラと点滅を始めた。青は進め……、青は進め……、青は進め……、青は進めだ……。我慢のならぬ私は、私のでっぷり肥えた腹肉のしたから、股ぐらのナイフを引っ張りあげる、それから刃先を擦りきれる程扱き上げ……、気が付けば、私の手は血泥の様相であった……。それから私は、両の拳を互いに握りしめ、居間に座る雌牛の尻へ潜り込ませた。雌牛がモーと鳴き、それが私の耳を、鼓膜から脳髄まで、一直線に貫いた……。この時、この瞬間だけは、私は、私の雄性から解き放たれる……。雌牛の肉と私の両の腕がひとつになり、私は雌牛に近付くのだ……。と、両の腕の痛みと冷やかさが、私の目蓋に貼り付いた雌牛の尻を掻き消した。目の前には、私の両の手を飲み込んだ、真っ赤真っ赤なポストがあるのだ……。はて……、握った拳にくしゃくしゃと紙の質感が現れる。隣では郵便小僧がモーと叫んでいて、後ろでは、原動機付自転車がバルバルと唸りを上げている。遠くで見知らぬ声が、私に囁く。赤は止まれ……、赤は止まれ、赤は止まれ……、赤は止まれだ……。雌牛の絶頂に、実在性を取り戻した私の脳髄が、ズルズルと音を立て徊転する。ポストから拳を抜き出すと、そこにはゴチゴチと折り折り畳まれた茶封筒が居た。郵便小僧は、私が手紙を出さないとわかると、後ろの原動機付自転車に股がって、喧しく去っていった……。空は雨模様で、周りのビル群は、暗い雨空を無限に反射ている、晴れ間は来ぬものと暗示をしている……。そうして私は、ふざけたカラーのポンチョを被ると、それから、その手の中の封筒をビロビロ伸ばす。宛先は……、宛先は、まごう事無き我が家であった。見慣れぬ住所に番地であったが、それが我が家だと、そのように確信を持っていた。側溝のドブ水から、極彩色の迷彩服を掬い上げると、汚濁の滴りに身を包む。それから今、私の居る所はどこかしらんと、ようやく考える気になった……。周りを見渡せば、鏡張りのビル群がキラキラしているようにみえる、足元には、落ち葉や木の実が、ゴロゴロと転がっている。かと思えば、遠くにはマンホールが見え、モウモウと湯気を吐き出していて、それでいて辺り一面に杉の木々が繁っているので、森と街との、間の子に見える。二つの虚像が、実際性を伴って、重なりあうように配置されている。人と獣、仕事と家庭、男と女、本音と建前、陰と陽、馬鹿と阿保、朝と夜、血肉と霊魂、阿打無と伊部、そういった、チグとハグを重ね合わせた時の、一切のブレが、私の居る所全てに、此のような非論理的、異常的な二面性を見せているのだ、とも思った。そうして、この虚像の重なる屈折した場所で、私はどうしても、我が家に行かねばならぬ事を理解した。理屈は解らぬが、兎に角、そうするより他無いと悟った。湿った木の葉に埋もれた街の森を、何処という宛もなく、私の思う方角へ、ゆらゆらと歩き出した……と思う。風に揺られて、ザワザワとビルが騒ぎ、鏡張りの木の幹に、街灯が反射して煩く光っている。兎に角、森と街の交互に、ガヤガヤと景色は進む、人の鳴き声もカラスの叫びも、みなドップラードップラーと遠退いて行く、私の干からびた四本の手足も、ドンドコブラブラ疲れて行くので、歩いているのだと思う。

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