曇りのちつま先

ほお

第1話

 「本日、日本には大足警報が発令されています。いつ死んでも悔いがないようにしましょう」


 スクリーンの中の天気キャスターがいつもの笑みを崩さずに緊張感のない声でそう言った。テレビを見ていた網川は怠惰なルーティーンとして歯磨きしながらそれを眺めていた。その言葉を聞いた途端に居ても立っても居られなくなり、いそいそと死ぬ準備を始めた。と言っても持つべきものは封筒に入れた遺書しかない。遂に待ち望んでいたつま先がこの町に降りてくるかもしれない。その事実だけで俺は動かずにはいられなかった。


 2025年1月7日。雲を突き抜け巨大な足が降りてきて、世界で一番高い塔とやらを一瞬で踏みつぶした。1月14日、初めて聞いたような名前の国の小さな都市に降りてきて、その村の歴史ある街並みを一瞬で踏んづけた。それからずっと一週間おきに巨大な足は降りてきて、いろんなものが踏まれていった。意味があるような場所から、ないような場所まで、様々な場所がぺちゃんこにされた。


 いきなり天から足が現れて様々な場所を破壊するという異常事態に、多くの国のお偉いさんやら学者やらが知恵を出し合って、対策を講じたらしいのだが、どうやら大体この辺りに降りてくるんじゃないかという、ふわっとした予測しか立てることができなかったようだ。足が降りるであろう場所に警報が出るようになりはしたが、大した意味はない。警報が出る範囲はいくつかの国の国境を跨ぐほどの途方もない範囲であった。警報範囲内から逃げ出そうとした飛行機が踏み潰されたこともあり、慌てて逃げ出そうとしたところでどうなるかは運でしかない。


 この突如発生した訳の分からない現象に対して、人々は答えを見出そうとした。これは神の裁きであると信仰の対象にする者、実際には爆弾を使っていて映像は合成であり、世界の人口を減らそうとしている組織の陰謀だと語る者、そもそも現実にあんな巨大な足が降りてくるということ自体はあり得ない、嘘っぱちだと破壊そのものが起こっていないものだと主張する者。世間では色々と討論が起こっていたらしいが、俺はあまり気にしていなかった。


 なぜ気にならなかったか。俺は天から降りてくる足を愛していたのだ。日を浴びたことがないかのように白く、毛穴も見えず、血管すら透けて見えることのない彫刻のような肌。細すぎず太すぎず、足の黄金比というものを体現したであろうバランス。そして、何よりも愛おしく感じられたのが、足は必ずつま先から降りてきて、つま先だけで大地を踏み潰すのである。大地を踏み潰すのを遠慮しているのか。見えぬものを踏むのを恐れているのか。ダンスでも踊っているのか。何にせよかかとまで地面を踏みつければ良いものを敢えてつま先だけで大地に立つのが、足の持ち主が一応の気遣いをしているかのように感じられて、何ともいじらしく、愛おしく感じたのだ。


 自分が踏み潰されて死ぬことへの恐怖はなかった。あの足に踏まれて死ぬことを人生の目標としていた。生きる意味を大して感じられていなかった俺にとって理想の死に方が生まれた。理想の死に方が生まれたということは、その死に方に辿り着くまで生きる必要性もできたということだ。俺は理想の死に方を得るために生きてきたのだ。


 だから、今日、日本に足が降りて来る可能性があると知って、俺は人生で今まで感じたことのない興奮と歓喜に包まれていた。日常の中で、何度あのつま先に踏まれることを思い描いたであろう。何度踏み潰される夢を見たであろう。運命というものがあるのならこの私の上につま先を降ろしたまえ。私ほどそのことを望んでいる者はいない。


 足がどこに降りてくるかは予測できない。自分の上に降りて来られるのをひたすら祈るのみである。移動したところで意味はない。遺書を持って、ベランダに出た。


 天を望む。天気予報通り、一面の曇り空が広がっていた。二時間ほど空を見続けていただろうか。時間が分からないのは時計を見る暇すら惜しんで、俺が空から目を離さなかったためだ。


 雲が割れた。裂け目から巨大な指先が確かに見えた。ああ、やはりあなたは俺を踏みつけに来てくださったのだ。


「あぁ」


 感嘆の声が自然と漏れ出た。俺の目からは自然と涙がこぼれていた。


「逃げよう」


 アパートの隣から男の叫び声が聞こえた。怯える子供の声が続いて聞こえた。隣に住んでいたのは四人家族であったと思う。この家賃が安く壁の薄いアパートでは、家族の談笑が毎日聞こえてきて、あまり良い気持ちはしなかった。幸せが薄い壁を挟んだ向こう側にある気がして辛かった。逃げようという判断は間に合うかどうかは別として、当然の判断であろう。俺のように踏まれて死ぬことを望む人などそうはいまい。今から降りて来るのは俺の死、俺の救いだ。巻き込まれる人が少ないならそれが良い。


 足はどんどんと俺に近づいてきた。遠くからの映像しか見たことがなかった俺は足の裏を初めて見た。これまで多くのものを踏みつけて来たであろうに、何も踏んだことのない赤子のような柔らかな見た目をしていた。あなたは足裏まで美しい。


 足裏が地表に着くまでもう1分もないであろう。俺はここまで来て死ぬ格好を考えてなかったなということに気が付いた。祈りでもするか、仰ぎ見るか悩み、俺は結局ベランダの床に両手両足を広げて寝転がることにした。あなたに対して信仰に近いものは抱いていたと思う。ただそれ以上に、あなたにより多くの俺を踏んで欲しいという気持ちが勝ったのだ。目を開けるか閉じるかということも悩んで、俺は目を閉じた。足の感触のみを感じるために。目では十分楽しんだ。次は触れてもらう番だ。目を閉じ、俺は理想の死を待った。ずんと足が地面に着く音がした。


 いつまで経っても死は訪れなかった。おかしい。目を開けて立ち上がる。夜のように真っ暗になっていた。俺は死んであの世にでも行ったのか、そう思った。空を見た。そこにあったのは巨大なかかとであった。俺が信仰し、愛したつま先は俺のアパートの少し前に降ろされていた。俺は踏んでもらえなかった。こんなにも近くに理想があるのに叶わないのか。俺は足の力が抜けてしまい崩れ落ちた。もうこの際かかとでも構わない。


「俺を踏んでくれ、踏んでくれよ」


 あれだけ愛おしかった足を見上げることすらできずに俺は泣きじゃくっていた。俺がいくら泣こうともかかとが降ろされることはなかった。いつしか空は晴れていた。


「幸運でしたね。アパートから一歩も逃げなかったのが賢明でした」


 助けに来た救助隊にそう言われた。俺の目が泣き晴らしていたからであっただろう。よっぽど怯えていたと思われたらしい。何度も励ましの言葉をかけられた。踏まれたくて、死ねなくて泣いていたとは言い切れず、怖かったという体にするしかなかった。


 足がライフラインを破壊したため、俺を含む近隣の住人はしばらく避難所暮らしになった。大変な生活であったはずなのに、俺はすっかり放心していて、ただ目の前にあるやらなければいけないことをしているだけで三日が過ぎていた。四日目になってようやく俺の隣で暮らしていた家族が避難していないことに気が付いた。俺は避難所にいた人々にに尋ねて回った。その結果分かったことは、彼らは車で逃げようとした結果、つま先に踏まれてしまったらしいということだった。酷い状態だったと聞かされた。俺もあの時待たずに外に走り出していたら踏んでもらえていたのだろうか。分からない。俺があの家族の代わりに死ねていたらと思う。俺は死を望んでいたのに、なんで逃げてまで必死に生きようとした人が死ななけらばならなかったのか。自分が人の死をこうも悲しめる人間であったということにようやく気が付いた。


 避難所の外に出て、空を見上げる。快晴が俺のことを嘲笑しているかのように思えた。


 ポケットから封筒を取り出す。開けて中身を乱雑に取り出す。白い紙には「幸せでした」と一言だけ書いていた。躊躇いもなく紙を二つに破り、封筒の中に丸めて乱雑に突っ込んだ。

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曇りのちつま先 ほお @HouhouKanpa

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