その2 : 薔薇の下であなたの夢を見る
夏美がときどき平常と違う印象を私に与えるようになったのは、ここ数ヶ月前からだった。それまで私は夏美にこんな一面があるなんて知らなかったし、夏美のほうも私以外の他に誰にもこれを見せたことはないらしかった。私は初め、私しか知らない夏美の一面があることを嬉しく思った。何か秘密の共有のようで胸が高鳴るようですらあった。けれど、それは不安との表裏一体に等しかった。夏美との今の関係性が保てなくなるような、ただ、その甘い頬が延焼の火種に燃えて、肌理の細やかなその肌が、私をひたすらに離さないのに、その癖にどうしようもなく突き放されるようである。不思議と恐ろしさは感じないけれど、腹の中で蝶が飛び回るようで、黄蝶のつがいの幻像が私の視界をちかちかさせた。夏美と私の間にもやもやと霧が立ち込めて、彼女の妖しく光るあの瞳の奥がちらちら灯火に揺れてその輪郭をぼやかすようだった。
夏美と私は小学校以来の友人――いや、私からして見ては、彼女に半ば依存しているとでも言ったほうが良いか。彼女も彼女で、何時迄も私といっしょに居てくれるので、友人にしては関係に歪みがあるようにも思えるが、まァ、親友と言う言葉でなら、この関係も許されるだろうか。
私たちが初めて会ったのは小学四年生のとき、小さな芝生の広場だった。隣家の庭先の梅花のまだ疎らに残された色の着いた白が、金網越しに見えるのが、繍眼児の群れに遠く揺らされる。横に長い校舎と古めかしい木造りの体育館、それらを結ぶ渡り廊下に囲まれる形に作られた広間は、運動場からも昇降口からも、生徒たちの遊び場からはことごとく離れていて、ときどき鬼ごっこをしている数名が鬼を欺くために通り道に使う以外にはほとんど人が来ない、静かな陽だまりだった。
私は広場の奥に植えられた小楢木の入り口から見て左ニ番目の誰にも荒らされていないことを確認するなり、その根の膝下にちょこんと座って図書室から持ち出した本を山なりに折り曲げた足の腿あたりに置いて開いた。この木は私のお気に入りだった。根の隙間に肩がすっかり埋まって、どの木のどの根よりも座り心地が良くて、読書に集中出来た。
教室にはいつも幾つかのグループが外にも行かずに話に花を咲かせているので、休み時間になると私は決まってここで本を読んで時間を潰すことにしていた。
本の頁に落ちてくる木漏れ日が心地よい。葉の傘に遮られていない広場の向こうだけが眩しく光っていた。人影はときどき渡り廊下を渡るのみで、静かな木下は遠くで子どもがはしゃぐ声と葉の擦れる音だけが残されていた。本に目を落とす。
静かな時間が流れた。木と土と、本の柔らかい匂いがした。
「ねぇね、それ、何読んでるの。」
かすかな風にくるくる回って、滑らかな小さな鈴の音だった。そよぐ風が声に変わって、私の両頬が驚きに歪んだ。長いまつ毛を上に逆立てた目は私だった。夏美が私の顔を覗き込んでいた。
ブラウンがかった絹は肩甲骨のあたりまで、微かに逆光になって流線が煌めいていた。私の前にちょこんとしゃがんで本に落ちる木漏れ日をいくつか遮った。
夏美がそこにいた。莞然とした頬に今より少しあどけなさが残る、けれども二重のかわいらしい瞼も、鈴のような声も今と同じで彼女の核心を捉えていた。
普段の彼女は休み時間になると向こうの運動場へ駆けていくのだったが、今日はどういうわけか、私の目の前にその丸みがかった頬を置きに来た。
「あのね、皆んなね、ドッジボールが好きみたい。私、あれ嫌いだな。怖いし、痛いし。」
赤い頬をぶすくりと膨らませてそんなことを言った。その丸みが際立ってみせた。
「ね、ちさとちゃんもあれ、嫌いなの?」
「ここにはよく来るの?」
私のすぐ横まで来て、照らされる芝をぼんやり見つめながらそんなことを聞いてきた。話しかけてくれたことが私にはなんとも嬉しかったが、とうとう返事ができなくてしまった。
「ちさとちゃんとは、おなじクラスなのに話したことなかったから、ね。一度話してみたかったの。」
彼女はしばらく横から本を覗き読んでいたかと思うと、すっくと立ち上がり日照りのほうまで駆けていき、手を広げて踊るようにくるくる回りだした。健康そうな髪や腕が頭頂を中心に同心円状に舞うのが子供心に美しかった。足がもつれて、腰から仰向きに倒れ込んだ。
私は小さく笑ったが、遠く運動場の喧騒にかき消された。
夏美の頬は陽の光に、楽しそうに薄白んだ。
それから彼女はよくこの隠れ家にやってきては、自分や家族のこと、友達のことなど、あれこれ私に話した。私も次第に綻んできて、彼女の世界に身を任せた。会話をして、一緒に笑った。
いつも一緒にいたように思う。秘密も、悩みも共有した。長い時間を二人で過ごした。
高校に上がると私たちはそれまでのように常に一緒にいることはなくなった。揃って同じ学校に入学したが、部活や勉強など、忙しいことが増えた。とは言うものの、休み時間はいつも一緒だったし、会えば時間の許す限り一緒だった。ただ、お互いにお互いの知らない領域ができたというだけだった。
そのため、私は彼女のことをよく理解しているつもりだった。そう言う自負があった。けれど、彼女のあの艶めく光が何なのかずっとわからずにいた。あの上気した頬の赤色が、ほんとうの色を隠してしまっていた。
夏美の幻想が私の前に現れるようになったのは、いつ頃からのことだったろうか。からかってみせるのでも、遠く私を見つけて手を降って見せるのでも、何か彼女の熱い部分に触れているようで妙に鼓動が高まった。瞳から彼女の奥の方にある熱い火照りが私を犯した。不思議な感覚だった。それまでそんなことは一度たりともなかったのだ。
あの日は残暑が残る空に薄い鱗が張った秋口だった。生き残った雄蝉が私の蟀谷あたりで鈍く鳴いていた。教室は蒸されたように暑いのに、窓から入り込む風はもう乾燥した秋の風だったので、私は後方の窓を一つ開け放して、しゃがむようにして手すりをくぐり、半ば立膝になって窓枠に肘を乗せて涼んでいた。
ちょんと左肩に手をかけられた。夏美だ。わかってはいても振り向いてしまう。ぴんと私の頬を見据えた人差し指の柔らかい指先に凶器のように伸びた爪が左頬を突くので、じゃれつくように痛んだ。身だしなみ指導がここいらなかったためか、爪はその小さな指先でまっすぐ伸びていた。やめてと爪の頬だけ膨らませると、爪がめり込んでからすぐに離れた。身体を手すりから戻してしゃがんだまま振り返ると、夏美が嬉しそうに笑っていた。
「爪、切ってよ。」
「なんで。痛かった?」
「わかってやってるの。それにちょっとの間だけど痕だって残るし…!」
「それはやだ。」
夏美は両の指の一つめと二つめの関節を曲げ、根元に爪をつけるようにしてしばし眺めたが、爪を背中に隠して、控えめに動くメトロノームになって小さな身体を左右に揺らしながら、
「ね、今日は私、部活ないから、さ。ひさびさに一緒に帰れるよ。そう、それで、ね。」
セーラー服は夏用だった。白いエステル生地に名古屋襟のカラーが涼しげで、襟の下から赤いリボンが覗いていた。紺の短いプリーツスカートが身体の動きに合わせて揺れていた。
いくら小さな夏美でもしゃがみ込んだ私よりは顔が高くについていて、話すときに目線を下げて見下ろす形になるのが落ち着かないようで、私に顔を近づけるようにしゃがみ込んだ。そうなると小さな身体に相まって大きく見える瞳が上目遣いに見上げるので、ああ、こいつは魔性の女になるな、などと思いつつ、それにしては小さくて大人の女性の魅力というよりは赤ん坊の可愛さといった風貌を持っていた。
「あのね、千里には話しておかないといけないことがあるの。今日、今日にしましょ。今日話すから、帰りにでも…。」
夏美が私にこんな宣言をしてくることが不思議だった。何より夏美の目がいつもより大きく私を捉えて離さなかったので少し驚かされた。
「私ね、告白されたの。」
いつも二人で歩く見知った道で、彼女の口からはっきりと聞いた。私は空返事をして文字の羅列をしばらく反芻したあと、ぎょっとした。夏美は、言わなかったの。だいじょぶ?などと余計なことを言ったらしいが、もはや鋭い私の鼓膜は鈍く触れはしなかった。まったく知らなかった。いったい、いつの話かしら。相手は誰なのかしら。聞きたいことは沢山あったが声にならなかった。火照る頬の上、夏美の黒い瞳が反転世界に私を誘う。艷やかな黒曜石の世界だった。
「でもね。でも…、断ったの。」
俯くように目を逸らして、瞳にヴェールの涙が溶液らしい模様をつくって瞬きながら踊ったかと思うと、長いまつげをつたってその様相を象徴する幻想世界を見せた。まつ毛の先に潮が満ち満ちて、白い波が寄せては返す。初めて夏美の核のようなそれを、私はただ眺めることしかできなかった。幻想は淡く光の中で夏美と私の境界を溶かした。曖昧になったふたりのなかで夏美が妙に実感的な声で言った。
「気づいちゃったの。私、好きな人がいた。ずっと前から。」
赤く火照った頬も、光に揺れるまつ毛も、私の知らない光だった。それが上辺の誤魔化しではなく、夏美の内側からくるものなのだと思い知らされたが私にはどうして良いか分からなかった。夏美のことが手に取るように分かっているようで、実際は何も分からなかった。ただ意思を持ったその言葉に歩幅を合わせて頷いた。
影を長くしてしばらくふたり、どこに行くのでもなく互いの家の庭のような町を彷徨った。夏美が先導し、私は彼女の後ろについた。人の手によって掘られた小川に沿うように作られた通りを歩いた。小さな水流を上からのぞむようにして河川敷の上を伸び、ときどき川の上に架かる橋を枝分かれさせていた。
夕日に橙色に塗られた小さな堤防に蝶がひらひら漂った。黄色い小さな蝶で、二匹目が寄り添うように舞う。どうやらつがいのようで、しばらく私たちの横でぱちぱち羽を瞬かせていたがやがてもつれ合いながら川の向かいまで飛び去ってしまった。小川の向こうは旧東海道の道が残され、神社の赤い幟がぱたぱた風に遊ばれていた。秋空にまだ暑い綺麗な緑色を残した河川敷にこちらは秋らしい、葉を暖色に染めつつある桜の木が等間隔に植えられていた。河川敷と川の際に歩行者用の舗装路があり、人々が思い思いくつろいでいた。後ろから自転車がちりりとベルを鳴らして私たちを抜かしていった。
電柱に残された空蝉の琥珀色が夏美の後ろ姿で、ぽてぽて体を揺らして歩く。揺れながら背後に話しかける。
「千里。ねぇ、千里はさ、私といて楽しい?」
唐突な質問に戸惑った。少し意地悪ではないだろうか。夏美がこんなことを聞いてくるなんてまたしても珍しかった。今日は調子が狂うなぁと、返答を少しばかり渋って歩幅の音を聞いていた。けれど、戸惑いはしたけれど、私の回答は初めから決まっていた。それを口に出してみる。
「うん、もちろん。夏美といて楽しいよ。」
しかしそれ以上は、どうしてそんなことを聞くのだろうかと、敢えて口に出すことはしなかった。夏美の後ろ姿がまた、不思議な影を見せた。夏美が夏美でない誰かに取って代わられたような、そんな感触に襲われた。彼女の整えられたショートの髪がさらさら風に揺れて、光の粉を落として舞った。
国道とぶつかる交差点まで歩いて私たちは信号機の赤い目に足止めされた。乗用車や大型トラックが絶え間なく目の前を横切っていった。近くに町のシンボルとも言える城趾があるせいか、人通りも多かった。歩いてきた小川の、国道を挟んだ向こう岸、城跡に建てられた、一度は失われた復興天守が石垣の上の木々の隙間から顔をのぞかせている。町の喧騒に、ただ城だけが静かに世の大局を眺めているのであろうとすら思うのが不思議だった。
大通りの雑多の中、夏美が前を向いたまま口の中の鈴をころころ転がして何か言った気がしたが、周りの音が邪魔して何を言ったのか聞こえなかった。やはり、奥の城だけが私たちを始終見つめ続けるのみであった。
信号機が忙しない車を止めて私たちの目の前に道が作ってみせた。三つ目はただ、ひとつ目のみの青い目で二人を見据えていた。専ら、二人のために作られた道を歩きだした。
国道を潜るようにして流れが続く小川の道を歩いた。堤防下が舗装され、川面のすぐ横を歩くことができた。町より少し低いその道を二人、今度は肩を並べて歩いていった。川の向かいには小さな公園があって、運動場の隣にアスレチック遊具や四阿が立っていた。川縁のベンチにはウォーキングでもしていたのか、マウンテンパーカーを着こなした爺婆が一息ついていた。夕陽は照り照り、小川とそれを挟むようにして伸びる道を光らせる。城に続く橋の裏を潜るとせせらぎが大きく胸元に響いた。暗いコンクリートは水の空気に冷やされていた。その後ろに見える暗い木々が絡まる陰から黒と橙色の天守が顔を覗かせる。東海でも有数の規模を誇った城の名残は天守以上に城下町によく残っているようにも見えるが、日本百名城にも数えられるだけあって瓦葺きの力強さは黒光りに沈んでいる。廻り縁には高欄がつけられ、そのさらに外縁に転落防止の網が張られていた。廻り縁の四方の角に双眼鏡が置かれ ――とは言えこちらからは二つしか見えないが―― 観光客が代わる代わる町々を眺めていた。
腹の中で蝶が飛び回るようで、先ほどの黄蝶の残像が私の視界をちかちかさせた。
夏美のあの一面は蜃気楼のように掴めなかった。彼女の不思議な光は唐突に現れて、しばらくその姿を淡く照らしてみせると、満足したのか、すっと消えてしまうのだった。控えめな霞がその美しい髪の輪郭を撫でつけ、儚い光と影を作ったのちみるみる消えていった。彼女の妖しく光るあの瞳の奥がちらちら灯火に揺れてその輪郭をぼやかすようだった。その幻想世界をただ眺めていると夏美という人間の輪郭がぐらぐら揺れた。結局、夏美を見づらく覆う霧はすぐに綺麗に晴れて、私のよく知るもと夏美に戻ると、その姿が夕刻の日差しにはっきり照らされた。
「お腹がすいたよぅ。長話が過ぎたかなぁ。」
鈴の音が彼女の喉元を震わせるのを見て、ようやく私は安心したのだった。
大河の上、私たちは場所も忘れて冬休みの計画を話し合った。太陽を背に欄干にもたれて、ふたりを見上げて青く歪んだ。二人の目が世界を作って揺らめいた。
ときどき、風が流した雲に陽光が隠された。世界が瞬間暗くなって、幻想世界が崩れるように白黒になり、しばらくすると再び雲間から日が顔を出して、あの山々を、川の流れを、この袖を照らしてみせた。けれども川の奥であの青を隠さんと瞬いていた粒は、もうそこにはなかった。世界は再び幻想を作り出すようだったが、二度とはもとに戻ることはなかった。
その夢想のような瞬きのなか、ただ夏美だけが変わることなく甘い幻想を着飾っていた。瀟洒、美、跌宕の風景が崩れて、その煌めきのすべてを夏美が引き受けたような、長い歴史の自然観を根から否定せずには説明のつかない美しさがあるようだった。熱っぽい頬が変わらず輝いて見せて、私の深いところで狂ったように鳴っていた。まばたく世界をふたりでいっしょに眺めた。
夏美ひとりを残して世界は狂ってしまった。もう欄干の眺望を美しいと思えなかった。
私はまったく、恋と言うものと世の真理を理解していなかった。
十二月の空気は寒々と冷えていた。
夏美が ――くちゅっ―― 口元を両の手で押さえてかわいらしいくしゃみをした。小さな身体を震わせて、飛び出た鼻垂れをしゃかしゃかとウィンドブレーカーの中から探り出したポケットティッシュで拭う。
橋の上を冷たい風が吹きすぎた。羽根を乾かしていた鵜が何処かへ飛び立つ。
私もひとつ身震いしてから、
「うぅ、寒い。夏美、続き決めるのは帰ってからにしない?」
夏美が何度か頷いて見せ、
「そ、そうだね。そうしよ…。」
口元をもこもこのティペットに埋めながら言った。欄干にもたげた腕をどけ、重心をもとに戻すと、キイキイと橋が軋んで、夏美が後に続いて同じく欄干にもたれかかった身をそこから離して、放り出された身体を華奢な足で支えた。橋は面白いほど軋み、悲鳴を上げた。夏美と顔を見合わせて、可笑しくて、二人して吹き出した。
橋を渡りきって、私たちは歩き出した。私はもう何も言わなかった。夏美も何も言わなかった。それだけでよかった。
噛み合わなかった歯車が噛み合って、油でキリキリ音を出して動き出すようだったが、私はもう何もしなかった。ただ、横に夏美がいるのみだった。
心地よい風が私たちのスカートをぱたぱたなびかせる。熱い手が、ふたり触れそうだった。
寒空の下に、私と夏美だけが小さな世界に残された。
令和七年一月十七日公開
同年六月七日修正及び再投稿
百合の花の下には 鶯雛ちる @osu-tiru
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