8 二つの指輪

「こいつがしつこいからちょっと行ってくるわ」


 ジーンに気がつくとトーヤは少し笑いながらそう言ったが、ジーンはやはり不安が拭いきれない。


 なんだろう、何かが違うと思った。トーヤはトーヤ、今日、部屋を出てくるまでと同じ人間のはずなのに何かが違う。


 あえて何かを当てはめるなら、魂が抜けたところに他の魂が入ったとでも言えばいいのだろうか。とにかくこれまでのトーヤとは何かが違うとしか言いようがない。


 それでもジーンには見送るしかできない。トーヤとは家族でもなければ友人でもない。単なる娼婦と客という関係だ。


 トーヤが一月ひとつきの間居続けると言ってきた時、女将がこっそりとジーンにこう言ってきた。


「ミーヤがいなくなって、トーヤはあんたのところを帰る場所にしたのかも知れないね。うまくいったら旦那にでもなってくれるかも知れないよ」


 ニコニコ顔の女将にジーンは曖昧あいまいに笑って見せるしかできなかった。


 それはトーヤが本当に求めているのが自分ではないと知っているからだ。あの夜、垣間かいま見てしまったトーヤの死神の顔、その死神が本当に心を許していたのは親代わりのミーヤだけだと分かってしまい、そのために自分はミーヤに対して黒い気持ちを抱いた。

 もしも、その気持ちを知らなければ女将の言葉にうれしいと思い、何かを期待したかも知れない。だけど今のジーンには素直にそうであればいいとは思えなくなってしまっていた。


 もちろん、もしもそれが本当ならと思う気持ち、願う気持ちは今でもある。もしもトーヤが旦那になってくれたら、ただの娼婦と客ではなく特別な絆のある二人になれる。できるならばそうなりたい。


 娼婦と元傭兵という組み合わせはよくある。娼婦の年季明けは十年だ。ジーンの場合だと25歳になったら店をやめることができる。もっとも借金がなければという条件がつくが。

 一方傭兵もいつまでも命を危険にさらす仕事を続けてはいけない。もちろん戦場で命を落とす者も多いが、生き延びても年齢を重ねて体力に自信がなくなってきたら足を洗う。


 そんな年季明けの娼婦と常連の傭兵がちょうどいいとくっついて、小さな店でも始めたりして、そのまま世帯を持つことになることが結構ある。だからトーヤと自分ももしかしたらと、そんな未来をジーンも夢に見たことがあるのだ。


 もしも、あの時トーヤのもう一つの顔を見なければ、ミーヤのことを憎んだり羨んだりしなければ、いなくなればいいのになどと思わなければ、女将の言葉にどれほど心浮き立ったことか。


 その上今はトーヤがトーヤではなくなったような、そんな風に見えてしまった。ここしばらく見ていた魂のどこかが抜けてしまったようなトーヤ、そのトーヤのあの目の光。何かを見つけたような、そんな光にジーンは不安を感じるしかない。


 そんな気持ちを抱えながらジーンは部屋へ戻る気にもなれず、食堂で座ってトーヤを待っていた。


 トーヤが戻ってきたのは夕刻になって店が始まり、ぱらぱらと客が入ってくるようになった頃だった。ジーンにも声をかける客がいたが、今日は貸し切りだと言うと他の娘を選んで階上へと上がっていった。半分以上の娘が客と部屋へ戻り、黄昏たそがれの色が深くなる頃、やっとトーヤは戻ってきた。


「よお」


 そう一言だけ言って、トーヤはジーンにくいっと顔で上に上がるぞと合図を送る。ジーンは黙って付いて上がった。


 トーヤはギシッと音を立ててベッドに座ると、


「船に乗ることになった。まだ一月には日にちがあるけど、その分の金はそのまま取っといてくれたらいい。その間おまえは休んでもいいし、商売したかったらしてもいい。世話になったな」


 と、ジーンに別れの言葉を告げた。


 ああやはりとジーンは思う。あの時のトーヤの目、これまでとは違う運命を見つけてしまった、そういう目だった。


「そんな顔するなって、行き先が遠いからちょっと長くなるけど、戻ったらまた来るからよ」


 トーヤは笑ってそう言うが、ジーンには分かってしまった。もうそんな日は二度と来ないのだと。


 これまでトーヤが戦場へ行こうが海に出ようが、本気で二度と来てくれないと思ったことは一度もない。きっとトーヤはまた来てくれる。たとえ戻る場所が他にあったとしても、自分のところにも必ず来てくれるはず。そう思ってジーンはその日を待っていた。そしてトーヤは必ずやってきた、いつもと同じ笑顔で。


 遠いところへ行くから、船に乗るから、海に出るから戻らないのではない。ただ、もうジーンのところに来る人ではなくなってしまったのだ。ジーンの中ではただその事実だけがぐるぐる回るばかり。


 トーヤはほとんど荷物らしい荷物は持っていなかったが、それでも手回りのわずかばかりの物を手早くまとめると出ていく準備をした。

 

 そんな中でジーンが一番気になったのは、今回トーヤがここに来る時に初めて持って来た物、今、トーヤが首から下げている革紐でくくられたある物だ。


「ミーヤの形見みたいなもんだ。っても、俺が買ってやったんだけどな」


 トーヤはそう言っていたが、今、トーヤが大事に思い、失いたくないとおもっているのは、ミーヤとの思い出のあるその二つの指輪だけ、それがジーンに残された現実だった。

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