ようこそ、出来損ない。への応援コメント
非常に考えさせられる内容でありながら、
最後の畜生には心を掻き乱されるような感覚を得ました。良作ですね。
振り返れば、愛を前提にした物語のなんと多いことか……。誰も傷付けない作品などないとは分かっていたつもりですが、はっとしました。
家族親戚の「愛はいいぞ、お前にも分かって欲しい」という提言(押し付け)も一種の愛なのかな、とは思いつつ、
愛の有無に関わらず『相手にとって』の幸せを考えられる人間でありたいと思うばかりです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
本文にもあります通り、愛はア・プリオリ、何よりも前にある自明のものなのでしょう。
究極的に自分が今(幸か不幸か)存在しているのは両親の愛によるものであり、どれだけ現状を嘆こうともそれは愛の不足と取られてしまうし、逆に満たされてようとも愛の不足があるなら、それは否定(改善)される余地がある。
何が嫌かって、愛だけは「諦める」ことすら許されない風潮があることですね。お金持ちを目指すのは諦めてもいい(むしろ推奨される)のに。
創作の世界ですら愛から離れられないのだから、よほど根強いのでしょう。
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こんばんは。
世の中のあらゆる表現が愛の素晴らしさを説いているのは、愛は素晴らしいものだと信じたいからなのではないか、と僕は思っています。言い換えれば、本人たちも無意識のレベルでは、愛の素晴らしさや相手の真意を疑っているから、愛は素晴らしいものだと皆で大合唱しないと気が休まらないのではないか、と。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』で読んだ記憶がありますが、男女の自由恋愛って、大抵が結婚まで至らないという意味では、失敗することの方が多いものなんですよね。恋愛経験が豊富な男や恋多き女は、失敗が多いという意味では人並み以上に恋愛(愛すること)が下手な人たちですが、彼ら彼女らの話が重宝されるのは、世間の人々がみんなして(男女の)愛というものがよく分かっておらず、それでいて自分では絶対に失敗したくないからです。愛の素晴らしさに確信がないから、もし失恋に終わっても恋愛は経験しておくべきものだという価値観を、人に押し付ける必要が出てくるし、そういう人ほど黙っていられないのだと思います。
ついでに言うと、浮気や不倫で修羅場になった体験談はTV番組などでよく放送されていますが、上手くいった話より上手くいかなかった話が人気なのは(TVスタッフがそう思っているのは)、浮気や不倫をして幸せになった人の話を聴きたくないから、つまり、自分達も本当は浮気や不倫をしたがっていて、普段からその気持ちを抑圧しているからだと思います(これも僕が1人で考えたのではなく、心理学系の何かの本で読んだ記憶があります。フロイトの防衛機制で言えば、合理化や反動形成になるでしょうか)。
一方では「結婚は人生の墓場」という言葉もありますが、それでも親が(文句を言いつつ配偶者との生活を続けて)子供に一度は結婚しておくことを勧めるのは、子供の将来を本気で心配しているとか、愛の素晴らしさを本気で信じているからではなく、単に自分が不安だからだと思います。その証拠に、そういう人たちは相手(本作では主人公)がどれだけ多くの人々と恋愛をしたとしても、結婚しない限りは絶対に口出しをやめません。
彼ら彼女らが本当に関心を持っているのは愛ではなく、結婚制度、もっと言うと家父長制の方です。家父長制下の夫婦には愛がないとは言いませんが、家父長制に着目した場合、男は女を所有することで一人前になり(あるいは、一人前の男であれば寄ってきた女を自動的に所有できるはずであり)、女は男に所有されることで人生の通過儀礼を果たす(その後、子供を産むことでようやく、女性としては一人前になる)と考えられます。このとき、愛の内容は問題にならない代わりに、結婚しているかどうかという客観的事実が大問題になります。この意味で、家父長制における結婚には、親や世間の目を気にして決行される側面があります。となると、親世代が「一人前」になるために、「この歳になったからには結婚相手を探さねば」くらいのテンションで結婚していた可能性は充分にあるわけですが、その場合、そこに愛はあったのか、ただ打算に基づいて妥協しただけではなかったのか、と自分で自分を疑う状態が続くことになります。「無理してまで結婚する気はない」と実の子供に言われた日には、我慢続きの自分の人生を否定されたように感じて、怒らずにはいられなくなるのかもしれません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
悶々とした感情は書き出せば(またはコメントを読めば)楽になるものですが、恋愛に関してはダメみたいですね。
愛は知ってるものと知らないもので大きな落差があります。あじさい様のおっしゃる通り、愛が完璧で素晴らしいものだとは少なくとも直接的には言われません。
挫折もあるし、苦痛もある、ひょっとしたら騙されるかもしれない。結ばれても衝突が多々あるかもしれない。自分が不安だから誰かを誘ってるかもしれない。まったくその通りだと思います。
「それでも」と彼ら(作中の家族、世間一般)は語ります。愛は常にそのフレーズがついてくる。君の言いたい気持ちはわかるよ、それでも、と。その続きに当然根拠なんてありません。ですが愛に理由なんてないので許されるのです。
失礼を承知で言うなら、私はそこに宗教の勧誘のようなものを感じました。
なるほど愛は大半にとっては素晴らしく、幸せの象徴なのでしょう。本文の繰り返しになるので細かくは語りませんが、そんなことは周りをみれば自ずと分かります。
でもそれは、全員に押しつけるべきものなのか。(加えて、彼等の語る愛の対象は人であることが前提で、それを破った愛は「なるほどそれも良いね、でも本当の愛はね……」と続く)
いくら述べようとも「ウブな、現実に根付いていない人」で結論されることに、悲しみのような感情があります。
ようこそ、出来損ない。への応援コメント
親の幻想を子供に押し付けるな
親が思う幸せが子供の思う幸せとは限らない
人にむけられるものだけが愛ではない
作り手が拘りを持って作り上げた作品に感じるものだって愛と言い換えて良い
普通、常識、一般的 etc……
時代、地域、その時々で変わる価値観に
つべこべ言われる筋合いはない
別に迷惑をかけてるわけじゃないのだから
生きたいように生きれば良い
それで良いのだと思いました
作者からの返信
コメントありがとうございます。
そう思ってきました。
ある人にできることが、また別の人にできるわけじゃない。それでもいい。
みんな尊重して助け合って生きていけばいい。
そう思ってきたんです。
でも実際はたぶん違うんですね。
尊重する価値のない人物だっているんです。それは犯罪者がバッシングを受けるのと同じ。
心のない人、愛のない人、かわいそうな人。
彼らは生きたいように生きようとする種類を正面から責めたりしません。
同情し、憐れむだけです。改善を提案する。尊重するに足る存在、みんなにするためです。
まあ、おそらくは、絆されるまで続くでしょうね。無理をして人としての愛を得るまで。