第5話
店から出た時には、もう日が沈んでいた。
修理に出そうにも、もう店は閉まっている。そのため八百屋に荷車を預け、明日修理に持って行くことにした。
来た道を戻ろうとしたのを止め、裏通りに足を向ける。
今日アリシアは休みだったはずだが、もしかすると仕事をしているかもしれない。
裏通りを歩けば酒場は帰り道だ。大幅に時間が取られる訳でもないし、寄ってみてもいいだろう。
屋台が多い裏通りは、美味しそうな匂いに包まれている。
空腹を訴える腹をさすりながら酒場まで到着すると、酒場からは食事の香りと共に人の声が外に漏れていた。
「何しやがる嬢ちゃん!」
酒場のドアを開けると、迎えてくれたのは喧嘩腰の声だった。
もちろんその声が指す嬢ちゃんとは私ではない。
声の主である、体格のいい男が睨みつけている女性店員のことだ。
「すみません!」
泣き出しそうな声で謝る女性店員だが、そのか弱さに男はつけ込んでくる。
「うまい酒呑んで楽しんでるってのにぃ、台無しだろうがよぉ」
聞くだけで酒臭そうな声に顔をしかめる。
ここまで酒に飲まれてしまうとは、だらしがない男だ。
ずっとドアを開けていても仕方ない。とりあえず中に入り、様子を伺う。
男と女性の周りにはちょっとした人だかりができているが、どちらかというと背が高い私にとって、少し背伸びをすれば様子を確認することは簡単だ。
男の服は汚れ、床には皿と料理が散らばっている。
男の口ぶりからすると、この女性店員がこぼしたのだろう。
女性店員は涙を浮かべながらうろたえ、辺りを見渡して助けを求めていた。
「失礼します」
人ごみを掻き分け、カウンターから現れたのはエプロンに身を包んだ我が妹だった。
「新人がご迷惑をおかけしました。代わりになるか分かりませんが、この店で1番高い果実酒と肉の盛り合わせを提供させてください」
背筋を伸ばし、毅然とした様子で接客する妹は美しい。
男は上機嫌で果実酒と皿を受け取ると、アリシアを見る。
「分かってるじゃねぇか。でもこれだけかぁ?」
毅然とした表情に動揺が滲む。その滲みを男は見逃さなかった。
「お前の誠意はぁ、これだけかよぉ!」
怒りの矛先をアリシアに変えた男は、容赦なくアリシアの頬を叩く。
これ以上黙ってはいられない。
ゴン。
頬を赤く染める乾いた音より少し遅れて、近くのテーブルから同じくらい大きな鈍い音がした。
その音に、私の怒りも静まる。
「やめないか」
静かな、しかし怒りに満ちた声が酒場に響く。
酒場に居合わせた人物全員が声の主を見た。
「え」
声の主を捉え、驚きのあまり間抜けな声が漏れてしまう。
拳を机に叩き込み、席から立ち上がっていた声の主は、昼間我が家の机に頭突きした男、アンドリフだった。
昼間より顔が赤い。どうやらあの男も酔っ払っているらしい。
「なんだてめぇ」
「女を叩くような下衆に名乗りたくないな」
こんな強気な言葉を、昼間の弱々しい男が発しているとは信じ難い。
「どいつもこいつもぉ」
ドスドスと足音を立て、男はアンドリフに近づき、顔に拳を叩き込む。
アンドリフは軽々と吹っ飛び、地面に倒れる。
「アンドリフさん!」
アリシアが悲鳴に近い声を上げる。
昼間の情けない姿とは似ても似つかないが、目の前で倒れているのは本人らしい。
アンドリフは頭を擦りながらゆっくり立ち上がる。
「野蛮な人間の相手はしたくないんだが、愛する者を痛めつけられたから仕方ない」
挑発に近いその言葉に、男の顔は真っ赤になる。
「おい下衆、私は医者だぞ」
相手を小馬鹿にした笑みを浮かべ、自分の頭を指さす。
「仕方ないから名乗ってやろう。二級医師のアンドリフ・リーチャだ。医者の二級ってどれくらい希少なのか、お前みたいな低脳に分かるかな? 百人以上の命を助け、国から守られてる希少な人間だ」
再び拳を固めていた男の動きが止まる。
「殴られて頭をぶつけたよ。二級の頭を守るために国立医師団が動くなぁ」
アンドリフがせせら笑う。
「金貨何枚請求されるかなぁ? 下衆、金貨十枚以上持ってる?」
「う、嘘付いてるんじゃねえよ。証拠はあるのかよ」
体を強ばらせながら、男は虚勢を張る。
「あるよ」
アンドリフは胸元からペンダントを取り出し、男に見せつける。
「これに押してある刻印、見た事あるよね?」
真っ赤だった男の顔はたちまち真っ白になり、尻もちをつく。
「あ、ああ」
「金貨なんて持ってないか。なら、この場で心臓を止めてあげよう。人を救う医者にとってはね、人を殺すのも簡単なんだ」
男は悲鳴に近い声で
「すみませんでした!」
と叫ぶと、震える手で懐から銀貨を鷲掴みにして床に置く。
アンドリフの見下す目から逃げるように、震える足を必死に動かして酒場を出ていった。
それを見届けると、アンドリフは涙を浮かべるアリシアを抱き寄せる。
まるで劇の一部のような酒場から、音を立てず後にした。
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