量子と精神

青山 翠雲

第1話:ヴィーナス降臨

 彼女を見た者誰しもが思い浮かべる言葉は「“天は二物を与えず"は誤りだった」であるかもしれない。如月美麗は、容姿端麗を絵に描いたような、白い透き通るような肌、キリリとしつつもどこか優しさも湛えた眉、すーっと細く通った鼻梁、女性ならその口紅は何という色ですかと問いたくなるような何とも言えない美しい色合いを醸し出すピンクの唇、そして、一度、見すくめられたら湖の底深くまで一気に引き込まれそうな澄んだ水のようでもあり、誘い込むような妖艶な光を宿しているかのようでもある何とも形容し得ない瞳を持ち合わせているだけでなく、27歳の彼女は加えて、その細身のウェストからは想像もできない豊満なバストも持ち合わせていた。そう、誰しもがうっとりする整った顔立ちと見事なまでのプロポーションという美神・ヴィーナスと呼ぶに相応しかった。


 それだけでなく、天稟の知性も兼ね備えていた。如月は外交官の父を持つ家庭だったため、スイス ローザンヌ生まれで幼少期をヨーロッパで過ごした影響で、英・独・仏語は母国語の日本語と同レベルで堪能。日本人の持つきめ細やかな考え方だけでなく、物理的国境線のない欧州の一触即発の政治・外交という握手をしながらテーブルの下では足を踏み合い、物事を成就させるには手段を選ばず生き馬の目を抜くような欧米仕込みの大胆かつ苛烈な行動力、それを支える分析力も生まれ持った環境から自然と身につけるに至っていた。


 そんな彼女であるが、24歳までは将棋とは全く縁がなかった。それまで何をしていたかと言えば、彼女がスイスで15歳の時に、一般相対性理論と量子力学に触れた際、一気にその魅力に引き込まれ、爾来、数学・物理学の虜となり、ノーベル賞受賞者を何人も輩出しているスイスが誇るCERN(欧州原子核研究機構)も彼女の才能には早くから目を付けるほどの俊英ぶりであった。欧州にそのまま留まることも十分に考えられたが、両親の日本への転勤が決まり、一度自分も両親の母国で生活してみたいと思っていた中で触れた将棋に今度は夢中になった。「二刀流」という生き方も持て囃されつつもあり、かつてAIの先駆けとなったアルファ碁を開発したハサビス氏が後に化学の道に進みノーベル化学賞まで受賞した、その逆をイメージできたことが、彼女自身の挑戦の背中を押すことになった。


 最初のうちこそ負けたが、後は連勝街道で女性で史上3人目の将棋棋士編入試験の資格を得、あっさりと3連勝で四段入段を果たすと順位戦も現在32連勝という新記録を更新中であり、勝率も8割9分5厘という日の出の勢いを示しつつ、僅か入段3年目で棋聖戦の挑戦者決定戦まで上りつめてきていた。


 如月は海外生活が長く、奨励会を経ずして棋士になったこともあり、当初は人物像が伝わってくることが少なかったが、そこは狭い将棋の世界。だんだんにその人となりが漏れ伝わってきていた。噂どおりとすれば---“狙った獲物は逃さないスナイパー”ということであった。また量子コンピュータに通暁していることから、彼女の高い計算能力もなぞらえて称賛する声も多いが、どうやらその計算は、人間の心理面への“計算"も含まれているとのことであるらしい。自分の強みを認識しつつ、相手の強み弱みを計算し尽くした上で、狙った獲物は手段を選ばず仕留める。知性溢れる見た目とは裏腹に、したたかで欲も強く、ターゲットはモノにしないと気が済まないハートの持ち主である如月にとって今回の棋聖位は垂涎の的となっているらしい。見た目と裏腹と言えば、こんな噂もあった---清楚な見た目や雰囲気からは想像もできないほど、異性との交際はお盛んらしい。テレビのキー局の御曹司とは全員と既にベッドを共にしたことがあるとかないとか。異性を首っ丈にさせるために、敢えて普段露出を抑えた格好をしている、ということを女性だけの酒の席上、ポロッと口にしたことがあるとかないとか。これだけの美貌を持っていると、噂も多岐にわたり、どれが本当の如月美麗像なのか、誰にも分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る