緋色のロクス 沈黙の臓器はかく語りき

ももも

プロローグ 緑の民

 今は果たして何月何日なのだろう?


 血で汚れてしまった日誌を火にくべて以来、正確な日付は失われた。

 二、三日なら誤差だ、お前は細かいことを気にしすぎだとあの兄だったら言うだろう。けれど生来の生真面目な性格が災いし、今日も日付のない日誌を書き綴る。


 日付が空欄のまま書かれた日誌なんてものは、時間の概念を失った空間に無理やり奥行きをつくったように感じ、ひどく落ち着かない気分になる。けれど病が蔓延し、次に誰が血を吐いて倒れるか分からない状況下で、「今日は何月何日ですか?」と聞いて回るなどもっての他であった。

 みな口を閉じ、必要最低限の接触以外は避けていた。もし、会話をした相手が倒れたら、お前も感染しているのではないかという目で見られ、これ以上病魔を広げないように標的にされる恐れがあった。


 最後に人を見送ってから三日がたった。

 このまま誰も死なないで欲しいと思う。一方で、私以外の人間すべて消えて欲しいとさえ考えてしまう。

 食料と水の備蓄はまだあるが、一ヶ月は保ちそうになかった。外部からの援助は期待できない。何度も周辺国へ助けを求める書簡を送ったが、この地に蔓延する病を恐れてどこからも返信はない。助けを求められた時は、あれほど尽力をつくしてきたのに恩知らずどもめ。

 このままでは病で死に絶える前に、食料を巡りあって殺し合う日がいずれ来るだろう。

 今にも背後に回られた瞬間、誰かに撲殺されるのではないか。

 寒気が身を震わせ、夜もろくに眠れない。

 ペンを握る手が震え、字を書くのもおぼつかなくなったため、いったん羽ペンを机に置き、深々とため息をついた。

「どうしてこうなったのだろう」

 幾度も吐いた後悔は積み上がるばかりであった。


 この荒れ果てた地に新たな国を建てようと仲間たちと決意してからの日々は、苦難はあれど、意欲に満ちあふれていた。

 時に涙し、時に笑い、異国の者どうし肩を並べ、酒を酌み交わしながら明るい未来を描いた。

 そんな明日への希望は、仲間の一人が血を吐いて倒れたあの日に断たれた。

 最初は首に現れた紫斑であった。

 かゆい、かゆいと首をかきむしっていたかと思えば、やがて首元が腫れあがり、ゼイゼイと呼吸が苦しげになり、血を吐いて死んだ。

 彼はもともと肺が弱く体調を壊しがちだったのもあり、死因は長年の疲れとされた。

 だが同じ紫斑が他の者たちにも次々と現れ、三日とたたずに死んでから、死は加速した。

 次々と血を吐いてみな、死んでいった。

 病を解明しようと死者の体を暴き続けた兄も、今は冷たい土の中にいる。

 死の気配がそこかしに漂う。この閉ざされた場所で書き殴った言葉だけが、まだ自身が正気である証明であり、存在の確かさを認める唯一の方法であった。

 いや、はたして自分は正気だろうか?

 この土地に生者はなく、とっくに朽ち果て、死者として黄泉をさまよっていることに気付いていないだけではないだろうか?

 悪夢なら醒めて欲しい。それが決して叶わぬ夢だと、何度も切りつけた腕の痛みが教えてくれた。


 あの忌々しい赤目を受け入れたのが間違いだったのだ。

 身柄を引き渡された時点で、どれほど恭順な態度を示そうとも首をはねるべきだったのだ。

 人間性は、そう簡単に変わらない。

 あの胸の奥に抱えた憎悪を見過ごした。その結果、今の地獄を招いたのだ。

 

 外から悲鳴があがった。続いてざわめく気配がある。

 誰かが、また死んだのだろうか。

 この部屋からでたくない。だが、何が起きているのか確かめなければ、知らぬまま窮地きゅうちに追い込まれる恐れもある。

 何秒か逡巡しゅんじゅんしたあと、短く祈りを捧げ、のろのろと立ち上がり外へと向かう。


 ひさびさに見た空は、灰色の雲がどんよりと覆い被さっている。

 やがて、震える声と、ざわめきの中心にたどり着いた。


 私の存在に気付いた彼らは、信じられないものを見るような顔で駆け寄ってきたためギョッとした。

 一人が、望遠鏡を私に手渡す。

 一体なんだと、恐る恐る望遠鏡をのぞき目を見開いた。

 最初は幻かと思った。


――深緑の衣を羽織った人の集団が見えた。


「まさか、彼らなのか?」

「やっぱりそうだよな……? 幻覚じゃないよな?」

 

 涙が頬を伝う。

 緑の民が霧の川の向こう側から現れた。

「助かった! ついに助けが来たんだ!」

 あちこちで歓喜の声が湧き上がる。

 絶望の淵にようやく光が差し込んだかのようだった。

 

 けれど、私は喉の奥に引っかかったような違和感を拭えずにいた。

 救いの使者は異教の神の仮面を被り、遠くからでも彫られた大きな緑の瞳が見えるが仮面の奥にのぞく顔は見えない。

 胸を満たすのは喜びではなく、得体の知れない不安だった。

 彼らは本当に助けなのか。

 霧の彼方からの来訪者は、真っ直ぐに向かってきていた。

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