第43話
私と悠人だけになった室内で、悠人の微かな呼吸だけが聞こえる。少しずつ穏やかになっていくそれを聞きながら、黒く艶のある髪を繰り返し梳いて、撫でる。
骨はだいぶ痛いが、折れるほどではない。悠人が私を傷つけるわけはないから、そのままでいい。
「……っ、悪ぃ…力入れすぎてた…」
それからしばらくして、ようやく我に返ったらしい悠人が腕を緩めて私から身体を離した。
近くにあった温もりが離れていくことに、少しだけ寂しさが湧いたのは秘密だ。
「落ち着いた?」
「…それ、普通は俺がおまえに聞くもんだろ」
悠人は決まり悪そうに苦笑して、見ようによれば拗ねているようにも見える表情と声音でそう言った。
「だって、悠人の方が取り乱してたし……」
人間、どんな感情であっても自分を上回る人を目にすると落ち着いてしまうものだ。私の不安も恐怖も、さっきまでの悠人を見て完全に落ち着いてしまった。
ふと思う。こんなとき、漫画やドラマでは怯えて泣いているヒロインをヒーローが優しく慰めるのが鉄板だろう。そこでヒーローがヒロインの弱さや儚さを知って庇護欲を感じたりするのだ。同時にヒロインはヒーローの頼もしさや優しさに触れる。
そうして障害を乗り越えながら、お互いを想う気持ちが大きくなっていく──というのが物語のいわば王道展開であり、女の子達の憧れだった。
だけど今、この状況はどうだろうか。
駆けつけた悠人は当人以上の動揺をみせ、切りつけられた私はそれを見て勝手に一人で落ち着きを取り戻している。これではまるで悠人が、私が居なければ生きていけないみたいだ。
「それで、大丈夫?落ち着いたの?」
「ああ。ちょっと、気が触れる寸前だったような気するけど落ち着いた」
「気が触れ…なくて良かったね…?」
答えながら私を抱き上げた悠人は、そのままカウチに腰を下ろすと当然のように自分の足の間に私を座らせた。今度は後ろから腰元に手が回され、優しく抱き締められる。肩口に悠人の頭の重みを感じ、首を傾けて頭を重ねた。
もちろん大袈裟な比喩ではあるだろうが、悠人曰くついさっきまで『気が触れそう』だったらしい。見た目以上に不安定な状態だったのかもしれないし、それだけ心配してくれていたということだ。比喩でなければ、また別の意味で怖いが。
「…悠人って私のこと本当に好きだよね」
ふと口にしたその言葉に、返されたのは言葉ではなく首筋へのキスだった。当然だとでも言うように何度か優しく落とされるそれに、くすぐったさと照れとが私の中を駆け巡る。
「おまえは自分のこと好きか?」
クスクスと幸せな気持ちで笑っていると、悠人が不意に呟いた。
「…え?」
「どうなんだ」
一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。けれど耳元で響く悠人の低い声に、これは軽く答えてはいけないものだと悟る。
(自分が好きか?)
「好き、だと思うよ。自分のことは大事だし、自分を犠牲にして他人を助けるとかは出来ないタイプだと思う」
その質問に込められた意図が読めず、それでも何か答えなくてはと率直に自分の考えを口にした。口にしてすぐ、これは大事だというだけで好きとは別の感情かもしれないと思ったが、もう遅い。それに嫌いかと問われれば、嫌いではないと答える。だから結局、答えは間違ってはいないだろう。
そんな私の答えに、どうも悠人は納得がいかなかったらしい。
「じゃあなんで、さっきみたいなことしたんだ」
決して大きくはない声だった。けれどそこに混じるのが純然な怒りであることは、悠人の纏う空気の変化も相まってすぐに理解した。
それでもなんとか堪えているのか、呼吸は少しだけ震えている。
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